祈らずにおれないことを祈ろう


   (「お祈りは簡単で結構です」の改題)

2017年5月28日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と宣教 = 24分間

 ルカによる福音書11章1-4節 (新共同訳)
 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
 そこでイエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
 わたしたちの罪を赦してください、
 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」




▼主の祈り


 おはようございます。
 今日は「主の祈り」をテクストに取り上げてみました。
 「主の祈り」というのは、イエスの弟子達が「私たちはどう祈れば良いのですか?」という質問をしたので、イエスが祈り方を教えたという物語として聖書に記されています。
 弟子たちが祈り方を知らなかったということはなかったはずです。彼らは生まれながらにユダヤ教徒ですから、ユダヤの会堂(シナゴーグ)での礼拝の祈りの式文などは、覚えていたはずです。
 文字が読み書きできたかは疑わしいのですが、毎回唱えられる決まった祈りは、物心がつく前からずっと聞いているので、耳についていると考えていいと考えられます。
 しかし、ここで弟子たちはイエスに「祈りを教えてください」と問いかけています。「ヨハネが弟子たちに教えたように」と彼らは言っていますが、これはイエスの師匠でもあった洗礼者ヨハネのことですね。
 この洗礼者ヨハネはヨハネ流の独自な祈りをその弟子たちに教えていたのでしょう。そこで、洗礼者ヨハネの弟子であったこともあるイエスに、「あのヨハネ先生と同じように、私たちにもイエス様独自の祈り方を教えてくださいよ」と言ったわけですね。

▼御名を崇め、御国を待ち望む

 この「主の祈り」は、マタイによる福音書の版とルカによる福音書の版の2種類があるんですね。
 その2種類を比べると、マタイ版よりも今日読んだルカ版の方が短くてシンプルなんですね。普段よく教会で唱えられている「主の祈り」は、マタイによる福音書のヴァージョンの方が元になっていることが多いんですけど、マタイの方が飾りや誇張が多いというか、非常に形式的に整っている印象があります。
 それに対して、このルカのヴァージョンの方が、元のシンプルなイエスの祈りのかたちに近いのではないかなと思われるわけです。
 このルカにおける「主の祈り」を読んでみると、神様に関する祈りは、「御名が崇められますように」と「御国が来ますように」という2項目だけです。「神様の御名がみんなに崇められますように」、「神の支配が全地に広がりますように」というお願いの2項目です。
 これだけで、「私たち人間はあなたを崇めます。あなたもあなたの愛の支配を私たちに浸透させてください」という神様とのやりとりになっているのでしょう。

▼神の国のたとえ

 「御国」、「神の国」というのは、死んだから後に行くところではなく、この言葉にも表されているように、この世にやってくるものなんですね。いつか神の支配がこの世の私たちの生きている世界にやってくるというわけです。そして、それを早めてくださいと願っているのですね。
 神の国がやってくるとこの世はどのように変わるのかというと、それは例えばイエスが「神の国はこのようにたとえられる」と言って話し始めるたとえ話に何度か表されています。
 中でも私がお気に入りのたとえ話は、「ぶどう園の労働者のたとえ」ですね。ご存知の方が多いのではないかと思いますが、朝から働いた人も昼から来た人も、夕方に雇われた人も、同じ賃金をもらったという話ですね。
 元気に生きてゆける人も、誰からも雇われないで仕事にあぶれて何を食べればいいか途方に暮れていた人も、同じだけの食い扶持を与えられるという話。それが神の国のようなものだなと言ったイエス。
 異議ありと言われそうな内容の話ですが、働ける人はそれなりに、働くことができない人もそれなりに食べる分の給付を受けることができるというのは、現代人だったら「福祉の行き届いた社会」と言う言い方をするでしょうけれど、古代人の言葉づかいで言えば、「神の国」、「天の国」という言い方になるだろうと思うんですね。
 イエスは、「神の国」という言葉で、どんな悲惨な状況に陥っている人の暮らしにも、神は強い関心を持っていて、その人が毎日食べて行けるような世の中になることを神も望んでおられる、ということを伝えようとしていたんですね。

▼飯のこと、負い目のこと

 毎日の飯のことを神の国の問題の筆頭に気にかけているイエスのことですから、当然人間のことに関するお願いは、まずは飯のことになります。
 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。
 必要な糧でいいんですね。ただ毎日は欲しい。「今日与えてください」ではなく「毎日与えてください」です。これはただ今日明日の食料を確保したいだけでなく、毎日安定して食べて行けることを望んでいるわけですね。これは人間としての基本ですね。
 そして、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」とあります。
 罪というのは、当時のユダヤ人の宗教生活の中では、そう簡単にこのような短い祈りで済まされるようなものではなかったはずです。
 旧約聖書を読む限り、主なる神は、ご自身の気に入らない言動をした人間は、容赦なく命を奪うという面が強いです。俗に旧約の神は「怒りの神」だということがよく言われますが、確かにそんな恐ろしい面ばかりを見せているわけではないにしろ、イスラエル民族の歴史を描く中では、主がたくさんの敵も、また味方でさえも、殺している場面がたくさん描かれています。
 主(ヤハウェ)に逆らう者はいつ命を奪われてもおかしくないというのが、この時代のユダヤ教の一般的な感じ方なので、それで彼らは生贄をささげたり、焼き尽くす献げ物の儀式を神殿でやってもらったり、ということに非常に熱心になるんですね。ヤハウェに命を奪われたくなかったら、ちゃんと身代わりの生贄の動物の命を献げなさい、というわけです。
 しかし、イエスは新約聖書のあちこちで、「私が求めるのは憐れみであって生贄ではない」と言ってみたり、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛することは、焼き尽くす献げ物よりも大切だ」という人の言葉に同意したりということをやっています。
 つまりイエスにとっては、人間の身代わりに動物の命をささげる必要はないし、ということは、人間もそもそも罪の罰としてヤハウェに命を奪われる必要なんかないんだと考えていたということになります。
 そもそも、神に殺されなくてはならないような罪なんかなく、それは人間同士の「負い目」のようなものだ。「負い目」というのは人間社会における借金のことを指していて、イエスが相手にしていた貧しい人たちは、いつも借金や給与の前借りの返済などで苦しんでいたので、これは分かりやすい話だったと思います。
 「私に誰かが借金をしていたら、遠慮なく赦してやりますから、私たちの借金も赦してください。また、神様に負い目がありましたら、それを赦してください」ということなんですね。イエスにとっては、人間が神様に対してその御心に反していたとしても、こうやって正直に祈ることで神様は赦してくださるよ、ということを教えてくれているわけです。

▼人の世は誘惑だらけ

 そして最後に「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」。
 私たちは様々な誘惑に遭います。それは、金銭的な誘惑であったり、権力や支配欲を満たす誘惑であったり、性的な誘惑であったりします。それらはひとくくりに単純に考えると、自分の欲望に負けるということであるとも言えるでしょう。
 私たちの身の回りで最も欲望を刺激し、誘惑を仕掛けてくるのは、インターネットの世界でしょう。
 ネットにつながる人にはメールやSNSなどの様々なメディアを通じて、凄まじい量の広告が流れてきますが、開いているパソコンやスマホの画面を見ていると、最近自分の見ている画面には、やたらと健康関係、それも「朝が爽快に起きられるますか」といった話だけでなく、性的な意味で「最近元気が無くなっていませんか?」とか、お節介な内容のものが増えている。
 他にも、頭の毛を増やす方法についての広告、出すぎたお腹を引っ込める方法についての広告、クサい体臭を抑えるための広告、そして、若い女の子にモテるにはといったような広告の中に「これで52歳だなんて信じられない!」といったキャッチコピーが入っていたりすると、「ああ、やはりこれは52歳のオヤジに向かってピンポイントに表示される広告なんだな」ということがハッキリとわかるんですね。
 自分のプライバシーについてはもちろんのこと、自分がどのような欲望や願望を持っているかも、ネットでの記事を提供する側の業者には全部お見通しなんですね。
 つまりこのような広告の誘惑は、私がどのような欲望・願望を持っているかの写し鏡のようなものです。そして、それに手を伸ばすと、大して効き目のない薬品を売りつけられたり、いかがわしいビデオなどを売りつけられたりして、有り金をむしられるというだけのことなんですよね。
 イエスの時代には、インターネットなどはありませんでしたが、その代わり、リアルな世界の中で、同じような誘惑がいくらでもあったと思います。
 ボロ儲けのうまい話の中に罠が隠されていたり、猥褻や浮気の誘惑があったり、いくらでも自分の身を持ち崩す機会はあったでしょう。人の世の中、昔も今も、あって当たり前だと思います。
 そのような誘惑だらけの世間を生きる中で、そういうものに本気で入れ込んだりしないように、神様守ってください、と祈るわけですが、そう祈ることで、自分から誘惑に近づかないように気をつけるという教育的な効果も考えてのことだったのではないでしょうか。
 ここでもやはり、毎日の生活を安定して、安心して生きてゆくことができますように、という庶民の願いが反映されていると言えます。

▼祈らずにはおれないこと

 というわけで、イエスのシンプルな祈りに対して、ずいぶん長い話になってしまいましたが、要するに、イエスに言わせれば、祈りというのは、こんな簡潔なもので十分なんだよ、ということです。
 もっとも私の学校の生徒に言わせれば、「これを覚えてね」というと、「これでも十分長い!」と文句を言われますけれども。
 神様への信仰の思い、神様の支配への願い、安定して食べてゆけること、罪の赦し、誘惑からの守り、それだけをそれぞれ短い言葉で祈ればそれでいいんだよということなんですね。
 「長々と祈る必要はないよ」と言ったイエスらしい指導です。
 では、祈りは短くしないといけないと決まっているのかというと、そういう義務があるわけでもありません。
 私たちは、長い祈りをしたいと思ってなくても、自然に祈りが長くなってしまうこともあります。
 神様にお願いしたいことがたくさんあればあるほど、お祈りは長くなっても自然なことだと思いますがいかがでしょうか。
 肉親の病気や事故などに対する癒しの願いの祈り、自分の痛みや苦しみの和らぎを願う祈り、大切な人を守ってくださるように、離れた人々を覚えての祈り、お願いしたいことが多かったり、大きな内容であるほど、願いの祈りは長くなります。
 あるいは、「神様、あなたは本当にいらっしゃるのですか?」、「いらっしゃるのなら、なぜこんなことが起こるのですか?」という祈りをぶつけたくなる時もあるでしょう。
 祈らずにはおれないこと、短い祈りでは祈りきれないことがある場合、祈りは自然に長くなりますが、それは仕方がないことです。遠慮なく長い祈りを捧げれば良いのではないでしょうか。

▼祈りは自然に

 祈りは自然に祈らずにはおれないことを祈ればいいんです。
 もし、祈るべきことが特に浮かばなければ、主の祈りのように、神様の御意志がこの世に行き当たりますように、ということと、毎日の食事を与えてくださいますように、罪を赦してください、誘惑に遭わせないで、安定した暮らしを与えてください、といったことを祈ればいいんです。どの要素が欠けていればいけないんだ、ということでもありません。
 そして、それ以上のことは、祈らずにはおれないことを、浮かんでくるままに祈ればいいんですね。
 親しい友に向けて語るように、神に話しかけつつ、平安な人生を求めて、神様と共に歩んで行きましょう。





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