あなたらしく信じる権利


2017年6月4日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 ペンテコステ礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし23分間 + 分かち合い29分間 = 52分間

 使徒言行録2章1-4節 (新共同訳)
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。




▼ペンテコステおめでとう

 みなさん、ペンテコステおめでとうございます。
 「ペンテコステ」とは、日本語では「聖霊降臨日」と言われますね。
 僕は「聖霊降臨」という言葉が、天皇の代替わりの時の「天孫降臨」を思い出す……というか、「降臨」という言葉自体が天皇制に影響を受けた言葉である可能性が高くて、ちょっとこの言葉を使うことに心理的に抵抗があるので、あまり「聖霊降臨」という言葉を僕自身は使いません。
 そういうわけで、もっぱら僕は「ペンテコステ」といいますが、ペンテコステというのは、この聖書に書いてあるように、「五旬祭」とも言います。「50日目のお祭り」という意味です。何から数えて50日目かというと、過越の祭から50日目です。
 過越はエジプトからユダヤ人の先祖のイスラエル民族が解放されたことを記念するお祭りですが、その日から数えて50日目。もともとユダヤ教の「シャブオート」という春の大麦の収穫祭のことなんですね。この「シャブオート」の祭りをギリシア語に訳したものが「ペンテコステ」です。
 このシャブオートの日に、神の霊がイエス派の一同に入り、一同は皆他の国々の言葉で喋り出した。その内容が、神の偉大なわざに対する賛美であったことで、人々が驚いたという事件。そういうわけで、このシャブートの日から弟子たちは、帝国全域に対する伝道を本格的に開始したのだということで、この日を「教会の誕生日」であるという人もいます。

▼物語る民

 本当にこのような事件があったのかというと、書かれた通りのことがあったとは言い難いですが、何らかの元になった出来事はあったのだろうと思われます。
 僕が最近読んだ本の中で、「人間には『物語る生理』のようなものがあるのだ」という話がありました。
 「物語る生理」という言葉の使い方が適切かどうかはちょっと疑問ですが、要するに人間というのは、長い時間をかけて、少しずつ変化し、実現したことを、1つの劇的な出来事として物語化して語ってしまうということはあるんですね。
 あるというか、聖書の中のかなり多くの物語が、そのような形で語られていると言えるでしょう。
 例えば、時々ここでの分かち合いの場でも話題に上ることがありますけど、イエスがペトロとアンデレを弟子にする場面ですね。あんなに簡単に一言、「私についてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう」と言っただけで、一人前の大人がホイホイついて行くということが通常では考えられないわけですね。
 しかし、実際にイエスとペトロたちの最初の出会いが湖のほとりであったとして、その後、彼らが時間をかけて人間関係を深め、互いのことをよく分かり合う時が流れて、けれども、最終的に決定的にペトロたちの心に残ったのは「人間を取る漁師にしよう」という一言だったんでしょう。あの言葉が彼らの心臓をぐっと鷲掴みにしたんですね。
 そして後々ペトロは他の弟子たちに「わしはな、あの一言でイエスさまについていこうと心に決めたんじゃー!」と言っていたんでしょう。それがああいう物語にまとまって、人々に伝えられたと考えるのが自然なわけです。

▼12人以外の人々から

 同じように、このペンテコステの出来事も、実はこの五旬祭の日に突然起こったことではないけれども、やはり決定的な瞬間は五旬祭の日にあったということは推測できるわけですね。
 イエスが亡くなった直後の弟子たちは、突然イエスが自分たちから奪われてしまったことのショックや、なぜイエスが殺されなくてはならなかったのか、またなぜ神はイエスを救わなかったのかという疑問などで心がいっぱいになってしまって、パニック状態にあったでしょう。
 また、イエスの弟子だということで、自分たちもイエスと一緒に命を狙われるだろうという恐怖感に怯えてもいたでしょう。
 そして、いくらか長い時間が流れるに従って、彼らは懸命にパニックや恐怖と戦いながら、イエスの言葉や行いを反芻し、イエスの死に対して神が与えた意味は何かということを、必死になって聖書を調べたり、自分たちで考えたりしながら、謎を探っていたのでしょう。
 ここで僕が気になるのは、この2章1−13節の聖霊に満たされた人たちの話の主語が「一同」という言葉になっていることです。
 その前の物語を読むと、11人の使徒にマティアというくじ引きで決まった人が加えられて12人に戻ったという話があったり、後の方の物語を読むと、ペトロが他の11人とともに立って説教を始めたという話があったりするわけですが、この前後の物語から独立して、この聖霊が降るという物だけ、「一同」あるいは「皆」と訳される言葉が使われているんですね。
 昔から12人の弟子たちの頭上に炎が灯って、その12人が聖霊に満たされて、各国の言葉を話し出したことになっていて、西洋の名画にもそういう絵が多いですけれども(一番有名なのはおそらくエル・グレコという人の絵ですね)、僕が推測するに、実は12人ではなくて、もっとたくさんのイエスを信じるたくさんの人たち、「一同」、「皆」の間に、イエスの言葉や行いの意義が広まっていったことを示しているのではないかと思うわけです。
 なぜルカが、ここで「12人」あるいは「使徒たち」とは言わずに、あえて「一同」あるいは「皆」という言葉を使い分けているかというと、それはこの出来事が暗に12使徒とは無関係に、草の根の信徒たちの間で広がった運動があったことを示しているのではないかと考えられます。
 
▼実際にあったこと

 つまり実際にあったことは、イエスが亡くなった直後、12人の男性のリーダーたちはパニックと恐怖に右往左往していた。また、イエスの死の責任をユダになすりつけたり、12人を補充するための選挙をやっていたりしている。
 その一方で、草の根の何人ものイエス派の人々、もちろん女性のリーダーたちも含む「皆」と呼ばれる人たちの間で、イエスの生と死を受けとめ直し、一同で心を合わせて熱心に祈っていた。その中で、聖霊体験ともいうべきものが広がっていったということなんでしょう。
 その聖霊体験がやがて大きな運動となり、イエス派の人々の間で無視できないほど大きなものとなった。あるいは公のものとして認められたのが、ある年の五旬祭の日であったということなのではないでしょうか。
 そのような、イエス派の中に次第次第に盛り上がってきた運動が、物語として伝えられる時には、五旬祭の日に大いなる聖霊体験の出来事が起こり、それが世界伝道の始まりとなったのだ、という話になったのではないでしょうか。

▼聖霊体験

 さて、では聖霊体験とはどのようなものだったのでしょうか。
 この体験について知るために私たちに与えられた手がかりは、本日の聖書の箇所の中に記されている「風」というキーワードでしょう。
 みんなが一つになって祈っている時に、激しい風のような音が天から起こったと書いてあります。
 以前にもお話ししたことが何度かあると思いますが、「風」というギリシア語は「プネウマ」という言葉で、これは「息」という意味でも「霊」という意味でも使われる言葉です。つまり、風のような音というのは霊の音であり、神の息吹の音だとも言いたいわけですね。
 そしてこの霊の音が「家中に響いた」という。ここの箇所は直訳すると、「家全体を満たした」という日本語になります。
 そして「炎のような舌」が「一人一人の上にとどまった」ということは、おそらく神を語るエネルギーなり才能が与えられたということでしょう。大事なのは「炎」も「舌」つまり言葉を発する力も、風や息によって活動をするということですよね。
 そして、「一同は聖霊に満たされた」。「満たされる」という言葉が再び使われます。
 ちょっと余談になりますが、今日読んだ箇所の最後の「新しいぶどう酒に酔っている」という言葉も、直訳すると「新しいぶどう酒で満ちている」という日本語になるんですね。
 お酒というのも「スピリッツ」という言葉があるくらいで、人間の霊に何らかの変調をきたすものとされているので、これに人間が「満たされる」「満ちている」という言い方も出てくるわけです。
 しかし、この後16節でペトロが、「この人たちは酒に酔っているのではありません」と言います(「この人たちは」と言っているので、聖霊体験をしているのは12使徒ではないことが、ここでも明らかです)。「この人たち」は酒の霊に満たされているのではなく、神の息吹に満たされているのです。
 自分の呼吸している息が、神の息に取って代わったように感じるくらい。バッサリと味気ない言い方をしてしまうと、それほどまでに、神の霊に自分がいっぱいに満たされたと思われるほど自己暗示が高まった状態になる。そのような精神状態が、イエス派の中で無視できないほど、抑えきれないほど極度に高まるような現象があったのでしょう。
 そして、多くの人が「異言」と呼ばれる、意味不明の声を発したりしたのか、あるいは、単にあちこちから巡礼してきた各地のユダヤ人たちの集団改宗が起こって、それぞれの地域の言葉で証を始めたということであったのかもしれません。
 そしてさらに、これに勇気付けられた12使徒がこの動きに乗じて、新しい宗教団体を立ち上げて行くことになった、というのが実際に起こったことではないかと僕は推測しています。

▼お互い、たがい(違い)を大切に

 世界の各地の言葉で証がなされるようになったという物語のベースにあるのは、旧約聖書の創世記に収められている「バベルの塔」の物語であろうと思われます。
 大昔、神様が人間の言葉をバラバラにしたために、世界中の人々は言葉が通じなくなったんだよ、という原因物語なんですが、このペンテコステのお話は、このバベルの塔の語り直しの意味も含んでいるのですね。
 神様はかつては世界中の人々の言葉をバラバラにされたけれども、今度は神様のほうが、各地の言葉に合わせて神の良い知らせを告げ知らせることを促したということなんですよね。
 私は言葉が違うということは、悪くないことだと思います。
 先日もインドネシアからエフライムさんが私たちの教会にやってきてくれて、私たちは言葉の壁を乗り越えて、一生懸命にコミュニケーションをとり、そして喜びを分かち合ったわけですけれども、その体験を通じて僕が改めて感じたのは、「言葉が違っている方が、私たち人間は違いに仲良くなれるのではないだろうか」ということです。
 言葉が違っていると、私たちは細かい違いを乗り越えて、一生懸命にお互いの同じところ、似ているところを探して、それを確認しあって仲良くなろうとします。そうやって確認できたことというのは、お互いが同じ人間であること、同じクリスチャンであること、といった大きな部分です。言葉が違う方が、私たちは大きな基準でお互いが同じであることを確かめることができます。
 しかし、不思議なことですが、言葉が同じであると、お互いの意思の疎通がスムーズであることに、あまりに無意識になってしまって、逆に細かい違いが目について、そこに目くじらを立てて、争ったりしがちです。
 言葉が違うクリスチャンと仲良くできるのに、言葉が同じクリスチャンとの間で、まるで言葉が通じないかのように考えが違うところばかりが目についてしまうのです。
 僕は、今日の聖書の箇所を読んで、神様が我々の言葉をバラバラにされたことの恵みを感じますし、またバラバラであっても同じ信仰なのだということを神様自らが示したペンテコステの出来事にも感謝をしたいと思います。
 皆、細かい違いは気にせず、神を頼りにしているというその大きな一致点を大切にして、それぞれの自分なりの信仰を、自信を持って生きて行けと、神様ご自身が示してくださったような気がするからです。





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