神のお気に入りの作品


2017年7月2日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし17分間 + 分かち合い36分間 = 53分間

 創世記1章31節 (新共同訳)
 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。




▼2つの創造物語

 本日お読みした聖書の箇所は、第1の天地創造の物語と第2の創造物語を分ける部分に近いところです。
 創世記の天地創造物語には2つあって、2章の4節前半で1つの物語は終わります。
 前半の物語は、神が6日間働いてこの世を作り出し、7日目に休んだという1週間の物語です。その特徴は、神が「現れよ」と声で命じると、その通りに物事が成ったということ。また、1日が終わり、1日の創造のわざが終わるたびに神は「良し」として、自分の仕事に惚れ惚れしているところです。
 これに対して、後半の物語は土の中から全てのものを作り出す主の活動が描かれています。こちらの方の特徴は、主が土から人間を作り、命の息、すなわち霊を鼻から吹き込むことによって命を与えるということですね。ここに人間の命というものに関する一つの考え方が現れています。
 そして実は、後半の土から人間を作った物語の方がより古い資料(J資料というのですが)から作られていて、前半の7日間の物語の方がより新しい資料(P資料:またの名を祭司資料といいます)から作られているというのが定説になっています。
 そういうわけですがから、今日お読みした1章の31節は、祭司資料の方の創造物語の終盤ということになります。

▼バビロン捕囚

 祭司資料の創造物語は、紀元前6世紀半ばのバビロン捕囚の時期に編集されたと言われています。
 バビロン捕囚の時期というと、聖書というものが最初に作られ始めた時期とも考えられています。
 なぜかというと、バビロニアに戦争で負けて、強制連行を受けたユダヤ人たちは、それによって自分たちの聖地や神殿から引き離され、全くの異教の地に連れて行かれて、自分たちの民族的な、そして宗教的なアイデンティティを失いそうになったからです。
 ユダヤ人たちは礼拝する場所も、巡礼する聖地も失い、異国の言葉に囲まれた中で、どうやって自分たちの伝統を守ろうかと考えた末、自分たちの言葉と信仰を保存し、後世に伝えてゆくために、聖書という本を編集することを思いついたんですね。そういうわけで、聖書のことを「動く神殿」「歩いて運ぶことのできる神殿」と呼ぶ人たちもいます。
 そうやって、それ以前からあったJ資料やその他の物語の断片を拾い集め、また祭司たち自身も物語を書き連ね、聖書を形作っていったわけです。

▼混沌と秩序

 この祭司たちの書いた天地創造の物語は、混沌の中から秩序を作り出してゆく物語です。
 創世記の1章2節は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とありますが、これは地がまだ形もなく、ドロドロのバラバラになっていて、その表面を、神の霊つまり神の息が暴風のように吹き荒れていた……という状態です。つまり、最初に何も無かったわけではなく、完全な無から世界を作り出したのではなく、ぐちゃぐちゃに破壊され、無秩序に混乱したカオスの中から、それを再び構成しなおして、秩序を生み出す営みが記されているのですね。
 そこに、バビロンとの戦争に負け、街を破壊され、自分達の精神的中心であった神殿も粉々にされてしまった荒れ果ててしまった状況を重ね合わせているのだという学者たちの説が有力です。
 そして、異国に連れて行かれて、異民族の宗教や言語・文化に囲まれて、自分達が何者かがわからなくなってしまいそうになっていた時、あえてそういう状態にこそ、秩序をうち立てねばと決心した祭司たちが、混沌の中から秩序を生み出す物語を語っていったというように言われています。
 それによって、ユダヤ人社会は分解を免れ、聖書を常に礼拝において読むことで、たとえ異国にあっても自分たちの秩序を保つことができましたし、またそのずっと後の歴史においても、ユダヤ人が結束を固く保つことができたのも聖書の物語のおかげだったということができるのですね。

▼我が国の混沌

 わけのわからない状態になってしまった社会といえば、今の世界、特に日本は混沌の中にどっぷりと沈み込んで行こうとしている、あるいは沈んでしまっているような状況に、私には感じます。
 あまりにも混沌の状態なので、時事問題のプロではない私には、とても全体を把握し、解説することなどできませんが、それでも、国家権力を握っている人々が嘘をつき、真実を隠し、責任のありかをごまかし、自分のことは棚に上げて、他人への批判ばかりを繰り返しぶつけ合っています。
 わからないといえば、何が本当のことで、何が嘘なのか、何が正しいことで、何が間違っているのか、さっぱりわかりません。素人目にはまさに混沌としていると思われます。
 少なくとも、私たちの未来を担ってゆく子どもたちに対する教育的効果は非常に悪いといえると思います。
 子どもたちの多くは、最近は大人のようにテレビや新聞中心にニュースをキャッチしません。ほとんどがネットでニュースをキャッチします。新聞やテレビは総理大臣に買収されてしまっているようですが、ネットの中にはどの閣僚や官僚がどんな嘘を言ったとか、謝らなかったとか、責任を取って辞めなかったとか、そんなニュースがあふれています。
 つまり大人の嘘つきは多くの子供達にはお見通しなのですね。そんな環境を作っておいて、嘘つきと無責任の張本人たちが、「道徳教育」を推進しろなどというのですから、ちゃんちゃら可笑しい。

▼神はすべてを良いとした

 このような混沌な社会の中で私たちはどのように生きればよいのでしょうか。
 達観したことは私には言えませんが、少なくとも一人の神を信じる者として、この祭司資料の作者たちが、「神が造られたものは、すべて神の目に良いものなのだ」と説き、伝えようとした信仰の原点に戻るべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
ヘブライ語では、「良い」という単語は「美しい」という意味もこもっているそうです。
 この世界を神は、混沌ではなく、秩序ある世界にしたいというご意志を持っておられる。ドロドロでぐちゃぐちゃの社会では人が安心して暮らせないということをよくご存知である。そして、一つ一つの神の作品に対して、すべて「良し」とされた。そして、それは「美しいものなのだ」と、ご自身の作品を見て惚れ惚れと悦に入っているんですよね。
 だから、「私たちはすべて造られたままに良いものなのだ」、「私たちは本質的には美しい者として造られているんだ」ということを信じたいと思うんです。
 今はそのような人間の良さ、美しさが押さえつけられ、踏みにじられている時代です。
 資本主義の世の中を全否定するつもりは私にはありませんが、しかし、資本主義の欠点も広がってきていて、貧富の格差が開きすぎています。子どもたちは公平なスタートラインにはとても立てないような状況にあります。
 また、企業の論理があまりに浸透してしまって、子どもは子どもらしくのびのびと遊ぶことが許されず、自由競争という言葉がいかにも万能の呪文のように使われ、子どもたちも競争と足の引っ張り合いの中に放り込まれています。
 そして今や、嘘だらけの政治家が考えた道徳教育によって、形だけ、作文だけの道徳を身につけて、互いに集団主義に同化することばかり教えられて、権力を持つ者に抵抗できない、財力を持つ者にいとも簡単に利用されてしまう子どもたちになり、そういう風に学校から大量生産された子どもたちが大人になって、使い捨ての雑巾のように働かされる。
 これが、人間が人間らしく、ありのままにのびのびと生きることができる社会でしょうか。

▼くじけてはならない

 私たちは今一度、私たちは、美しい神の作品であり、そのありのままで神に「良し」と言われているのだということを思い出さないといけないと思います。
 人間は本来良い者として作られているのですから、うまく大人たちが、ありのままの持ち味を引き出してあげれば、きっと良い大人に育つはずです。
 何が子どもの心を汚してしまうのか。それは大人の欲望や傲慢、暴力、虐待、失望、疲れ、嘘つきなど、大人社会の中で、大人自身が傷つけあって生み出してしまった垢や澱やゴミのようなものではないでしょうか。
 それで子どもたちを汚したり、傷つけたりしないためには、大人自身が自分を「私は神さまに愛された子どもだ」ということを信じないといけません。自分は、自分よりも先に生まれた人々から汚され、傷ついてここにいるかもしれないけれども、でもそれは汚されてしまったからで、本来生まれてきた時はそうではなかったのだということを信じることです。
 私たちは、この世の混沌に負けてはなりません。バビロン捕囚の危機に陥った時、祭司たちが渾身の力を込めて、自分たちの信仰を聖書にまとめ始めたように、私たちも私たちのやり方で、流れに耐えて、何か自分たちにできる限りのことをしなくてはなりません。
 私たちは本来、神のお気に入りの作品なのであり、それは大人も子供もそうなのだということを、今改めて信じて行きたいと思います。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。





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