イエスにとっての「父」


2017年7月16日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし25分間 + 分かち合い34分間 = 59分間

 ヨハネによる福音書5章19-23節 (新共同訳)
 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。




▼虎の威を借る狐

 今日お読みになった聖書の箇所は、前にM岡さんが説き明かしの時に引用されたということで、「僕もこの箇所に出会ったら、どんな説き明かしになるのかな?」ということを考えてみて、そのお話をしてみたいなと思いまして、それで同じ箇所を引用してみることにしました。
 私はこのヨハネによる福音書の今日の箇所を読んで、第一印象として感じるのは、「ずいぶん偉そうだな」ということです。ここで「父」と呼ばれているのは、明らかに神様のことですし、「子」と呼ばれているのは、イエスのことですけれども、イエスはこの天の「父」の全権を委任されていて、この父の代わりになんでもできる。特にすごいのは、死者を復活させたり、お前たちが死んでいるような状態の時にも、命を与えることも、裁きを与えることもできるんだぞ、というふうに偉そうに言っているのですね。
 しかし、偉そうではありますけれども、一番最初のところで、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」とまず言っていますので、イエス自身には実は全く主導権がないようにも思われます。
 主導権は完全に父の方にあるんだけれども、全部父は子にやるべきことを教えていて、子は父の代わりに命を与えたり、裁きを任されたりもしているということなんですね。
 ここでの「裁き」というのは、この世の終わりの時に行われる最後の審判のことを指しています。22節で「父はだれをも裁かない」(22節)と言っていますが、その代わりに「裁きは一切子に任せておられる」と。つまり、イエスが信じるかどうかで永遠の命を得るかどうかは決まるんだよということを、この福音書を書いたヨハネさんは言っているんですね。
 こういう記事を読んで、生真面目なクリスチャンの方々は「ああ、すごい。やっぱりイエスさまは神様の子供だから、神様の全権を委任されているんだわ」とか思うのかもしれませんが、私はこの箇所を読んで、あまり良い印象を抱きませんでした。
 非常に口の悪い言い方をしますと、「虎の威を借る狐」?
 と言いますか、「父親の権威を借りて、人前で偉そうにするボンボン息子」という印象を抱いて威しまうんですね。父がいなくては何もできないけど、父から権威は全部任されているから、父と同じように振舞おうとする。
 こんな奴がイエスなんだ、と言っているヨハネの感性がよくわからないというのが私の素直な感想なんです。
 もっとも、ヨハネがそのように言ったからといって、私自身が「聖書読み」としてショックを受けたり、自己矛盾を起こしたりするかというとそうではなくて、私は「なるほど、ヨハネさんはそう考えたんだな」という感じでワンクッションおいて受け止めますので、あんまり困らないんですね。
 そもそもイエスが亡くなってから40年か50年ほど後になってヨハネの福音書が書かれていますし、その間にも随分教会も、教会を取り囲む状況も変化していますし、信徒の大多数も世代交代していますし、イエス自身が「父」をどう捉えていたのかということと、ヨハネが「父」をどう捉えていたのかということが全く違ってきたとしても、そういうこともあるだろうと思うんですね。
 だから、あまり私は聖書の中に矛盾や不一致があっても困りません。

▼決死の派遣

 しかし、振り返ってみると、私がこの箇所を、「まるで『虎の威を借る狐』のようだなあ」と感じてしまうのも、私自身が父親とか、権威といったものをネガティブにとらえたがる傾向があるからということは言えます。
 聖書を読むときにも、絶対に客観的な解釈というものはないんであって、必ず主観や、自分でも気づいていない自分自身の心の問題を投影してしまうことが、頻繁にあります。
 それも別に困ることではないので、要するに、聖書をどう読むかということで、自分自身の心の問題に気づいてゆくことができるのですから、聖書を共に読んで、説き明かしや分かち合いを行うということは大変意義のあることなんですね。
 で、私はこの聖書の箇所をネガティブな印象で捉えたのですが、おそらく私が知っているある歴史的な人物、例えば同志社の創立者である新島襄だったら、この箇所を読んだら、感動しつつ深い気持ちで受け止めるのではないかなと思うんですね。
 それはなぜかというと、彼のおそらく一番大切にしている聖書の言葉は、同じくヨハネによる福音書の3章16節、非常に有名な言葉ですが、こういう言葉ですね。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3.16)
 「神はその独り子をこの世に与えられた」。神は人間を救いたいと思う激しい愛情から、ついについに大切な我が子を派遣するに至った。たとえそのたった一人の息子が殺されることがわかっていたとしても、彼を派遣しなければならない。そのような決死の使命を我が子に与えたのだということなのですね。

▼天の父からの使命

 これに新島襄はぐっと来たと思います。
 なぜなら、新島は祖国日本の人々を救おうとして、単身、死を覚悟して海外に飛び出した人だからですね。
 その海外脱出の決心に先立って、新島はキリスト教に強い関心を持ったんですけれども、彼がキリスト教に強く惹かれたのも、「天の父」こそが自分の「真の父」ではないかという気づきから来ているんですね。
 自分の実の父でもなく、新島家の親方様で、特に自分を愛してくれた祖父でもなく、主君である安中藩の板倉家でもなく、また大親方としての幕府徳川家でもなく、それら全てのものを超えた、しかも全てのものの造り主である「天の父」という存在があるのだと聖書から教わった新島は、自分が武士として命をかけて仕えなければいけないのは、この「天の父」なのだと思うに至ったんですね。
 ですから、今や祖国の存亡の危機にあって、祖国を救うためには、今私が命をかけて冒険しなければならない。私はキリストのように「天の父」の使命を帯びて、見知らぬ土地へと出かけてゆくのだ!
 そのような決死の使命感が新島襄にはあったわけです。
 ですから、おそらくそんな新島襄だったら、ここからは私の推測で助けれども、今日の聖書の箇所を読んだら、全ての人に命を与えるような父なる神の権威を神の独り子が与えられて、いざ死地に乗り込んで行くのだというイメージで捉えて、非常に気に入ったかもしれないな、とも私も思ったりはします。

▼イエスの父はどこに

 では、イエス自身は「父」という言葉をどのような思いで使っていたのでしょうか。
 イエスが神のことを「アッバ」と呼んでいたのは有名な事実ですね。これは「お父ちゃん」とか「パパ」と言った親しみを込めた呼び名です。このような呼び方で神に祈りを捧げるので、イエスは当時のユダヤ教の指導者たちから「神の名を貶めている」とか「自分が神の子だと自称している。神への冒涜だ」と言われて、憎まれたんですね。また、憎むとまではいかなくても、イエスの周囲にいた人たちも、神に向かって「パパ」と呼びかけるイエスの姿を見て、「この人は何者だろう?」と驚いたと思います。
 なぜイエスは神のことを「パパ」と呼んだのでしょうか。その正確な理由はたぶん誰にもわかりません。本当に彼は自分が神の子だと思っていたのかもしれません。
 わかりませんけれども、ひょっとしたら、彼の父親がはっきりしないことと関係があったのかもしれません。
 彼の父親は「大工」または「木工業者」の「ヨセフ」ということになっていますが、これが本当かどうかというのは、ある立場の聖書学者によればかなり疑わしいとされています。
 イエスの父親が出てくる聖書の箇所は、マタイによる福音書とルカによる福音書にしかなくて、しかもクリスマスの物語と、ルカの中にある、「神殿で学者たちと議論ができたほど賢いイエス」という少年時代の話に出てくるだけで、それ以外にはどこにもその存在を記されていません。
 クリスマスの生誕物語は奇跡的な神話の一種ですし、少年イエスのエピソードも、正典に入っていない外典の福音書は少年イエス物語によく見られる、「この子は幼い頃から不思議な能力がありました」的な伝説の一種と見られますから、そこに描きこまれている父親の姿もフィクションである可能性が高いです。

▼イエスのオカン

 まあそれを言い始めると母親のマリアの方も、父親よりは多少は多く名前が出てくるように思われますが、ちなみに名前で検索してみると、やっぱりイエスの母としてのマリアという名前が登場するのはクリスマスと少年イエスの場面に集中しているんですね。だから、ヨセフと同じようにマリアも実は作られたキャラクターかもしれない。
 イエスの母親が登場する他のドラマチックな場面といえば、マルコによる福音書に記録されている、イエスの兄弟たちと一緒にイエスを連れ帰ろうとしてやってくる場面、それからヨハネによる福音書に記録されている、十字架につけられるイエスを最後まで追いかけてきて見守る場面ですけれども、これどちらも、「母」と書いているだけで、名前は書かれていないんですね。
 もう1箇所、使徒言行録(使徒行伝)に、イエスの亡くなった後、残された11人の弟子たちと共に祈っている場面がちょっと出てきますけれど、まあ使徒言行録はクリスマスを盛大に描いたルカ福音書の続編ですから、ルカが別に「母マリア」の名前を使っても別に不思議はないです。
 そういうわけで、イエスの母親がマリアであったという話も、父親がヨセフであったという話も、どちらも実は歴史的にはっきりしていない、どちらかというと後から作られた伝説ではないかということになります。
 特に最初の福音書であるマルコには、イエスの若かりし頃も、両親のことも書いていないことには注目すべきではないかと思います。本当はイエスの周辺の人たちもイエスの両親のことはよく知らなかったんじゃないか。まあでも、これも当然といえば当然で、本人があまり語らなかったら、人の両親のことなんか、普通よく知りませんよね? 
 つまり、イエスという人は、洗礼者ヨハネの弟子として忽然と姿を現した、孤独な一人の男でしかなかった。家族と縁を切ってナザレからユダヤの荒野にさまよってきたらしい。が、それ以上過去のことは他にも話さないし、誰も知らない。
 ただ、1回だけ田舎から「イエスのオカン」と名乗る女の人が息子たちを引き連れてやってきて、イエスを連れて行こうとしたけれど、イエスの方は「あんなのは俺のオカンでも兄弟でもねえ! 俺のオカン、俺の兄弟姉妹は、ここにいるおめえたちなんだよ!」と言った出来事があったらしい(マルコ3.31-35)。それだけは弟子たちの記憶にも残っていたみたいですね。そうやらオカンとはうまくいってなかったらしい。それくらいが彼の家族に関する情報のすべてです。

▼「パパ」

 ただ……彼は神さまのことを「パパ」と呼びました。
 神さまだけが本当の俺のことをわかっていてくれる。神さまだけは俺のことを可愛がってくれている。神さまこそが、俺の本当のパパなんだ。そうイエスは思っていたのではないでしょうか。
 多分、これは推測ですが、イエスは父親のはっきりとした記憶を持っていなかったのではないでしょうか。少なくとも物心ついて以来は、父親の思い出というものがなかった。そうでないと、神を「パパ」と呼ぶことはなかったはずです。
 彼には父がいない。だから神さまを「パパ」と呼んだのです。
 あるいは、父親に対するおぼろげな記憶があったとして、それが虐待に満ちたおぞましいもの、あるいは頼りなくて、とても父とは呼び難いような人でしかなかった。だから代わりに、天の父を「パパ」と呼んだという可能性もあって、これは新島襄のパターンに近いですが、私はそういうのではないと思います。
 私は、イエスにははっきりした父親の記憶というものはないけれども、父親に与えられた愛は彼の無意識の中に、彼の脳の中にハッキリと刻まれていると思います。
 そうでなかったら、彼はあんなに人を愛することはできなかったはずです。父なる神がただ恐ろしい裁きの神だと信じられていた時代、社会にあって、「そうではないんだよ。神は俺たちのパパなんだ」と言って、人々を自らも父なる神の愛を実行しようとしたイエス。
 その原動力としてのイエスの魂の中に、慈しみ深い父の愛を刻み込んだのは、イエス自身も憶えていないイエスの父親だったのではないかと私には思われます。
 イエス自身が愛された人でなかったら、どうしてあんなにイエスが人を愛することができるでしょうか。
 これで本日の説き明かしを終わります。





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