地層に埋もれたままではなく


2017年9月24日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日聖日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし15分間 + 分かち合い34分間 = 49分間

 ヨハネによる福音書20章24−29節 (新共同訳)
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵をかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」



▼イエス・ファン


 私はイエスのファンです。
 ファンと言っても、ただイエスの言動を見聞きしてきゃあきゃあと騒ぐファンではなく、イエスの言動がその時代に人々にどのような影響を与えるようになったのか、彼の存在の意味はなんだったのか、それを学んだ上で、彼が私たちの間に今も存在し続けていることを信じ、彼と共に生きるとはどういう実践をすることなのかを追求することが、人生の最大の課題であると言ってもいい、筋金入りのファンであるということは自負したいと思います。
 そのような熱烈なファンにとって、彼を実際に見てみたいと願うのはごく当然のことではないかと思います。特に復活したイエスを自分に肉眼で、この現代において見てみたいと思うのであります。イエスを求める人すべてが、とまでは言いません。あえて見たくないという人もいるでしょう。しかし、私は見てみたいと思っています。分かりやすいことが大好きなのです。
 しかし、実際にイエスを今私たちが肉眼で見るということはできません。もし見たという人がいるなら、それが何らかの幻覚でしょう。あるいはある種の病気の症状の一つかもしれません。今日の聖書の箇所にあるように、「見ないで信じるものは幸いである」と言われてはおりますので、確かに私たちは見ないで信じようとしているわけですけれども、それは「見たいと思ってはならない」という意味ではありません。「見たい」というのが人情というものです。

▼イエスの歩いた道

 もちろん、エルサレムを旅行したからといって、イエスが完全にわかるということはありません。生身で動くイエス、肉声を発するイエスは、明らかに約2000年前に生きたのであって、今そのイエスを見たり触れたりすることは当然ながらできません。
 しかし、イエスの歩いた道、道というのは、文字どおり道路のことでありますが、その道路を歩いたり触れたりすることはできます。
 遠藤周作の小説に『死海のほとり』という作品があります。
 その小説の中で、イエスの足跡を求めてやってきた主人公に、その主人公の友人である聖書学者が皮肉っぽく言うんですね。
 「イエスの足跡なんてものはないんだ。そんなものは2000年もの間に、現在の地面のはるか下、地層の中に埋もれてしまって、跡形も無くなってしまっている。今我々が見ているものは、全部地層の上に建てられた偽物だ」。そのようなことを言い切る場面があるんですね。
 確かにその通りなんです。
 例えば、エルサレムの旧市街の中に、「ヴィア・ドロローサ(嘆きの道)」と呼ばれている、イエスが十字架を担がされ、歩かされたという道があります。けれども、それは実際にはイエスの歩いた道なんかでは全然なくて、ただの巡礼客向けの観光ルートなんですね。
 イエスのいた2000年前の地面はおよそ10メートルほど下に埋もれていて、実際イエスがどのルートを歩いたのか、なんてことはわからないわけです。
 イエスが処刑されたと言われているゴルゴタの丘という場所も、「ここがそうだ」といわれている場所が2カ所あって、どちらが本物なのかも決定的な決め手はありません。
 まあそういうことはだいたいは知っていたので、私も特にエルサレムで何か特別なものが見られるだろうということは期待はしていませんでした。
 ところが、考古学者たちの努力や、キリスト教会(と言っても東方正教会、あるいはカトリック教会の方々が中心ですけれども)のサポートもあって、今は、ほんの一部ではありますけれども、イエス時代に家の跡や道路の跡などが発掘されているんですね。10メートル下のエルサレムの道路が掘り出され、保存されているんです。
 その道……と言っても、ほんの5メートルもないような発掘跡ですけれども、そこは写真のような場所です。これはいわゆるベテスダの池(新共同訳では「ベトザタの池」)の近くにある、地下の遺跡です。
 当時の道路は(これは今のエルサレムの旧市街の通路も同じですけれども)、石をインターロッキングのように敷き詰めた形に成っています。そして、馬車や荷車の滑り止めとして、どの石にも溝が彫りこんであります。それが何百年もの間、多くの人に踏まれて、表面はすり減ってツルツルになっています。
 この道の遺跡の上を、本当にイエスが歩いたという証拠はありません。しかし、イエスがエルサレムに、彼が処刑される前の一定期間通っていたことは確かですし、この遺跡がイエスの時代のものであることは確かなのんで、この道の上を歩いた可能性がゼロであるとも言えません。
 私は思わずしゃがんで、その道に触れてみました。
 そんなことをしながら、頭の片隅では、そういうことをやっている自分は、イエスに近づいたような自己満足に浸っているだけ、錯覚しているだけなのではないかという冷めた声も聞こえていましたけどね。

▼ファンであることと共に生きること

 私たちは生身のイエスには、もう会えない。そういう意味では、今日の聖書の箇所に出てきたトマスと同じ状況にいます。
 時折私たちは、イエスが復活して、私たちと共におられるという証拠を見せて欲しいと、トマスと同じような思いを持ってしまいます。それが人間としての素直な欲求だと思います。
 聖書の物語では、もう一度イエスは現れ、トマスはイエスに会ってもらえて、その傷ついた体に触れることは許されたとあります。
 しかし福音書を書いたヨハネは、イエスに「見ないで信じる人は幸いである」(ヨハネ20.29)と言わせています。ということは、ヨハネにとっては、「イエスの姿を肉眼で見ることや、肉声を聞くことは、そんなに大事なことではないよ」ということなのではないでしょうか。
 ヨハネがそういうのは自然なことでしょう。既にヨハネが福音書を書いたのは、イエスが死んでから60年ないし70年近くも経っていますからね。ですから、今は亡きイエスをただ偲ぶよりも、もっと大事なことがあるだろうというのがヨハネの本意なわけです。
 少し遡ればイエスの墓の前のエピソードについても、ヨハネはマグダラのマリアとイエスの再会の場面で、イエスの遺体を探し回るマグダラのマリアに対して、イエスに「私に触ってはならない」という言葉を言わせています。大事なのは、イエスの遺体を探し回ることでもなく、イエスの衣に触ることでもない。そんなものは残っていないのです。
 そういうものはイエスのファンにとってはとても大切なことかもしれない。
 イエスが歩いた道を、地層の下に見つけて、感動することは悪いことではない。
 しかし、本物の筋金入りのイエス・ファンはそこを越えて行かなくてはなりません。
 イエスのファンであることと、イエスと共に生きることは、似ているけれども違います。けれども、イエスのファンであることを極めようとする延長線上に、イエスと共に生きる生き方が待っていると思います。
 イエスと共に生きるとは、イエスの思いを継ぎ、イエスの愛を実行することではないか。
 弱く、小さい存在と共に生きること、すなわちイエスと共に生きることではないか。
 人を愛し、人と共に平和を作り出すことが、イエスと共に生きることではないか。
 地層の下のイエスではなく、自分自身の生き方において、イエスと共に歩む努力をすることが、地層の下のイエスを本当の意味で現代に掘り起こし、今の私の人生に意味を与えることになると思われるのですが、皆さんはいかがお考えになりますか?
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。





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