怒りのやり場に困るとき

2017年10月15日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日聖日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし21分間 + 分かち合い33分間 = 54分間

 詩編40章15-16節 (新共同訳)
  わたしの命を奪おうとねらっている者が
   恥を受け、嘲られ
 わたしを災いに遭わせようと望む者が
   侮られて退き
 わたしに向かってはやし立てる者が
   恥を受けて破滅しますように



▼詩編


 今日の聖書の箇所は、詩編の中でも、特に怒りに煮えたぎった言葉が記されている場所です。
 そもそも詩編というのは、あちこちにイスラエルの敵に対する呪いの言葉、恨みの言葉がちりばめられている文書です。
 詩編はヘブライ語では「テヒリーム」と呼ばれておりまして、意味は「賛美」ということです。昔のユダヤ教の礼拝の中では歌や楽器を伴って演奏されていたそうですが、現在ではそのメロディは失われてしまっていまして、復元を試みている人たちもいるようです。
 キリスト教が生まれてからも、この詩編は歌とともに礼拝の中で唱えられる伝統が受け継がれ、そこから正教会やカトリック教会、またカルヴァン派においても、詩編の歌はたくさん作曲され、歌われてきました。特にカルヴァンは「礼拝は聖書のみ」という信念を固く守ろうとしましたので、旧来の賛美歌を廃止し、代わりに詩編にメロディをつけて「ジュネーブ詩編歌」というものを生み出しました。
 我々の教会にもその伝統のかけらは、かすかには残っていまして、それで私たちは礼拝の始まりに交読詩編という形で唱えているわけです。

▼煮えたぎる怒り

 それにしても、この「テヒリーム」(賛美)というのは、イスラエルの敵に対する怒り、呪いの言葉が多いです。
 めくるページごとに、「敵を滅ぼしてください」、「私たちを辱めるあの者たちが、辱められますように」、「あなたを崇めないあの者たちが、あなたによって砕かれますように」といった言葉が飛び出てきます。
 それで、私たちはイエスによって「敵を愛しなさい」、「7の70倍赦しなさい」と教えられておりますので、このような詩編の怒りの言葉を読むと、これをどのように理解したらいいのか、と困るわけです。
 特に、礼拝の始めに交読詩編として唱えるために選ぶ役割を請け負ってしまうと、いったいどの詩編が攻撃性が少ないだろうかと選ぶのに苦労するわけなんですよね。
 それで、どうしても、23編とか133編といった無難で美しい詩編が頻繁に読まれがち、といったことが起こります。
 それくらい詩編の中には随所に怒りがちりばめられているのですが、今日お読みした箇所は、特にその怒りが3節連続で固められている強烈な箇所です。
 「私に害をもたらすやつらは、みんな恥を受け、侮られ、破滅してしまえ!」と言っているんですね。これが神様への祈祷文として歌われているという状況の中で、イエスが「敵を愛せ」と言うことの勇気というべきか、大胆さというべきか、あるいは空気を読んでないというか、よくも言ったなという感じです。

▼みなぎる闘志

 しかし、キリスト教の礼拝の伝統の中では、この喜びと怒りの入り混じった詩編が長いあいだ歌われ、唱えられてきた。ということは、キリスト教は、イエス、ひいては新約聖書だけではなく、旧約聖書の怒りの感情をも自分たちのものとして受け継いできたということです。
 「怒り」というか、「勝負」戦いの時に自分を鼓舞するために旧約聖書の言葉を暗唱している人もいるようですね。
 例えば、有名な人では最近引退されましたか、将棋の加藤一二三名人がおられますね。あの方は、「勝負と信仰は表裏一体である」という名言を残しておられますね。
 「私から闘いを取ったら何が残るといえよう。勝負師である限り、命が尽きるまで勝負に明け暮れるのが棋士のさだめだ」という言葉も語っておられるそうです。
 「私から闘いを取ったら何が残るのだ」と言っている加藤名人(ニックネームは「ひふみん」らしいですね)は、旧約聖書の中でも、「勇気を持て」「相手の面前で弱気を出すな」「あわてないで落ち着いて戦え」などの言葉を座右の銘としておられ、闘志をみなぎらせ、絶対に勝つ、そのために、聖書を読み、祈り、聖歌を歌う。それがひふみんの信仰なわけです。
 将棋は本物の戦争ではありませんが、真剣勝負をする人というのは、殺し合いのような気合を持って戦うものです。そして、真剣勝負をする人の支えになっている聖書の言葉は、本物の殺し合いから出てきた言葉なんですね。
 私たちはできれば殺し合いのような闘いの場面というのは避けたいものです。しかし、どうしても闘わなくてはならない時が来たならば、負けるわけにはいかないのだというのが正直な人間の思いでしょう。
 キリスト教の伝統は、そのような人間の闘い、また怒り、恨み、憎しみといったものを、完全には否定しきることはしなかったということです。

▼抑えきれない怒り

 イエスの「敵を愛せ」とか「7の70倍赦せ」という要求は、見方によっては現実離れした教えです。それはある程度までは努力目標として達成できるかもしれないけれども、完全に実践しきることは、ほとんどの人にとっては不可能であろうと思われます。
 すべての人にとって不可能というわけではありません。敵への愛を実践しきった人として、コルベ神父、キング牧師、そしてアメリカのアーミッシュと呼ばれる再洗礼派の一派の人々は、いくら仲間や自分が殺されても絶対に自分からは殺さない、暴力を振るわない。そのような信仰を貫きました。
 しかし、それはある意味特別な信仰的偉人には可能であったとしても、ごく一般的で凡庸なクリスチャンにはとても無理ではないかと感じます。
 例えば自分のことをとっても見ても……まあ私は短気な人間ではありますが、そんなに怒りっぽい方ではありません。そんなに物事や人に対して本気で怒ることは少ない人間ですが、それでも、例えば自分の3人の娘の誰か1人にでも、少しでも暴力を振るったり、危険に遭わせたりした者がいるならば、そいつを無事なままではおかないと思いますね。場合によっては相手を殺すかもしれません。
 それくらい、私自身、完全に取り乱してしまったら、その怒りをどのように相手にぶつけてしまうかわかりません。
 敵は愛せないのです。あるいは、ある程度までは忍耐はできるけれども、愛しきることはできない。忍耐の限界を超える怒りというものはあると思うんですね。
 私はクリスチャン失格でしょうか。

▼敗北の歴史

 しかし、さらに視点を変えてみると、イスラエルあるいはユダヤ人が実際に、そんなに周囲の国に対して全面的に叩き潰すような作戦に成功したような歴史があっただろうかということも考えます。
 イスラエル王国は、確かにカナンの地(今でいうパレスティナ地方)を侵略し、征服してできたヘブライ人の国です。先住民であるカナン人の諸部族に対して、ある部族が支配する地域に対しては侵略戦争をしかけ、またある地域では先住民と交渉して土地を分割するようなやり方で、土地を手に入れて自分たちの国を作ってゆき、やがて王国を築きました。
 この王国を築くまでに、イスラエル民族が血で血を洗うような争いをしてきたことは確かです。しかし、長い目でイスラエルの歴史を見てみると、決して輝かしい勝利が続くといった様子ではなかったようです。
 ダビデとその息子ソロモンの王国はよく知られていますが、その統一王国は100年間ももちませんでした。ソロモンが死んだ後には、南北に分裂し、そのどちらでも権力争いが相次ぎ、国は弱体化し、あっという間にアッシリアやバビロニアに占領され、バビロン捕囚として知られている強制連行にも遭いました。
 バビロン捕囚は50年間ほどで終わりましたが、国は荒れ果てたまま、その後もペルシャによって支配されたり、マケドニアによって支配されたり、エジプトに支配されたり、シリアに支配されたり、その後、ほんの束の間の自治権を得ますが、またもやあっという間にひっくり返され、ついにはローマ帝国の支配のもとに下ることになります。
 そういうわけで、イスラエルの歴史というのは、ほんのちょっとの自治と、圧倒的に長く続いた敗北の時代で出来上がっています。イスラエルが長期間、周囲の国々に対して権力を誇示し、支配した場面というのは、歴史上には存在しなかったんですね。

▼恨み節

 となると、古代のイスラエルの人たちは、ずっとこの敗北の歴史を通じて、詩編の歌を歌ってきたことになります。
 実際には、実現したことのない、神による敵の全滅を願いながら、自分たちにはその力がないことを嘆き、「どうしてですか?」と神に問いながら、しかし、「あなたが」敵をやっつけてください、と願ってきたのですね。詩編は、果たすことのできない怒りや嘆きを晴らすための、恨み節、嘆き節のような歌だったと言えます。
 またそのような歌を長年歌ってゆく中で、自分たちの怒りや憎しみを神に預けて、自分からは暴力を振るわないという信仰が育ってきたことも考えられます。
 例えば実際、現代の日常生活の中で、怒りではらわたが煮えくり返るような時でも、「この怒りは神さまが私の代わりに晴らしてくれるのだ」と考えるようにしているよ、という人もいます。
 私はそういう人の1人に「そんな風に考えても、実際に神さまが相手の人に罰を加えたり、災いを与えたりしなかったら、どうするんですか?」と訊いてみましたが、その人は「その場合は、相手の人を傷つけないのが神さまの御心なんだから、それでいいの」ということでした。
 あるいは、本当に人間関係のある人で、その人を神が傷つけたり、罰を与えたり、命を奪ったりしたら、それはそれで恐ろしいことですよね。神が、私たちの思い通りに憎むべき人たちを滅ぼし始めたら、それは恐ろしい。私たちが「いや、そこまでひどい復讐を望んでいたわけではなかったです」と言っても手遅れ……ということもありえます。
 やはり、神さまが実際に動員されて、この世の敵対関係に介入するというのは、フェアではありません。
 というわけで、「神さま、どうか私たちの代わりに、あなたが敵を滅ぼしてください」と言うのは、実際に神に手を下してもらうことを期待するのではなく、恨み節、嘆き節として歌って、気持ちを鎮めるという効用に限って歌うべきではないかと思われます。
 人間の間の問題は、人間で解決するしかなく、しかし人間だけではその憤りに感情を晴らすこともできず、神に嘆きや恨みを訴えながら、その歌で思いを吐き出しながら、同時に自分を鼓舞し、またこの世の問題に立ち向かって行くということなのだろうと思います。

▼怒りつつ微笑む

 この世の問題で、腹を立つ出来事は頻繁に起こります。
 私に関して言えば、政治家が約束も守らず、息を吐くように嘘をつき、暴言を放っている様子を見た時、腹が立ちます。
 経済状態が少しも良くならず、支払いばかりに追われて、生活の余裕がなくなる時、腹が立つと同時に嘆かわしくなります。
 また、理不尽で身勝手な言いがかりをつけられたり、私の覚えのないことを有る事無い事話を膨らまして私を侮辱したりとか、あるいは自分に都合の要求ばかりをまくしたてて、こちらの話を聞かない人に出会うとか、腹の立つことは無数にあります。
 しかし、そのたびに怒りをあらわにして、その人と真っ向から対決していては、争いが絶えず、血が流れる可能性もあります。共に神が創造した命なのですから、私たち人間がお互いに傷つけあうことは、神は望んでおられないでしょう。
 お互いが平和に生きるためには、そして大人としての生き方をするためには、怒りや憎しみを抱きつつも、笑顔で声をかけ、謝ることができることが大切なのでしょう。
 私たちの怒りの感情は簡単に消すことはできません。そういう感情を持ってはいけないのだと思う必要はありません。しかし、その怒りを形にするのは、神さまに任せた方がいいのでしょう。今日の詩編の言葉のように、私の怒りは神がわかっていてくださる。
 「わたしに向かってはやし立てる者が、恥を受けて破滅しますように!」
 この叫びは私は否定したくないと思います。神に、この怒りの声を聞いていただきたい。しかし、自分ではこの怒りを拳に表すことはやめておきたいと思います。敵を愛するということは、敵意を持ちながらも可能なことだと思われます。
 本日の説き明かしは以上です。皆さんの思いをお聞かせいただければありがたいです。





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