召されることについて

2017年11月5日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日聖日礼拝 説き明かし

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る






聖書朗読と説き明かし18分間 + 分かち合い43分間 = 61分間

 コヘレトの言葉3章18−22節 (新共同訳)
 人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。
 神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。
 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。
 同じ霊を持っているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。
 すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
 すべては塵から成った。
 すべては塵に返る。
 人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。
 それが人間にふさわしい分である。
 死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。



▼身も蓋もない

 コヘレトの言葉は、虚無主義的な面や、享楽主義的な面があります。
 例えば「すべては空しい」と言ってみたり、「人間にとって幸福なのは、この世で楽しみを得ることだ」と言ってみたりします。
 今日の聖書の箇所も、そんなコヘレトらしい言葉と言えるでしょう。
 「あれも死に、これも死ぬ」……人間も動物も行くところは一緒。すべては空しい。すべては塵からできたのだから、塵に返るだけ。人間にとって一番幸せなのは、働いて、その成果を飲んで食べて、家族や仲間と楽しく過ごすこと。死んだ後のことなんか誰にもわかりませんよ。そういうことを言っているんですね。
 身も蓋もないというか、元も子もないというか、どこか突き放したようなところがありますね。
 死んだ後のことなんか考えたってわからない。それよりも今の人生を精一杯に生き、手につけたことは何でも一生懸命に取り組み、この世の生活を楽しめ、と前向きに捉えることもできます。

▼眠る

 今日の聖書の箇所で、私が個人的に気に入っているのは、「人間も動物に過ぎない」というところですね。人間に臨むことは動物にも望み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を持っているに過ぎないというところですね。
 昔風のキリスト教の解説の中に、「動物には霊が無いとキリスト教は考えている」というものがあります。人間には霊があるけど、動物には霊が無いと。なんでそういうことになったのかよくわかりませんが、多分罪との関係でそう考えられたのでは無いかと思うんですね。罪に落ちるのも人間だが、その罪から救われるのも人間である。そういうプロセスが人間以外にあるとは考えられないので、犬には霊の堕落も救いもない、というような論理ではないかと推測します。
 しかし、多分犬と生活したことのある人ならわかると思うんですが、犬にも間違いなく心というものはあります。感情があります。嬉しがったり、悲しがったりします。ひょっとしたら、犬の心の方が人間よりもはるかに優れているのではないかと思うこともあります。人間が悲しんだり寂しがったりしている時にも、喜んでいる時や興奮している時にも、それに共感してくれますし、人間とのパートナーシップは抜群です。
 私は、離婚によって家族と離れて暮らすようになりましたが、犬とも離れて暮らすようになって、やはり何か大事なものを失ったような気がします。犬のほうが多分、無邪気で罪が無く、むしろ人間よりも神に近い存在ではないかと思うことがあったんですね。
 死んだらそのような犬と同じところに行くんだと言われると、まあ何というか、ちょっと嬉しいなと思うこともあります。
 死んだらどうなるかはわかりようがないとはコヘレトは言いますが、そうは言っても、私たちは死んだ後について考えないで済ますのは難しいです。そして動物は死んだらどうなるのか。昔からいろいろな人が想像してきました。そういう想像には科学的根拠はありません。
しかし、今、私達が生きている時代では、科学や医学と関係なくそのようなことを考えることはできないようになっていると思います。
 今、ここにこうして私がいるという感覚は、おそらく脳に由来するものでしょう。ということは、もし脳が死んでしまったら、私がここにいるという感覚も消え去ってしまうのではないかと思われます。
 もちろん私は脳科学の専門家ではありませんが、例えばお酒に酔っただけでも物事の認識や記憶がおかしくなったりしますし、事故などで脳に怪我をした場合も、同じことが考えられます。
 そのような脳が死んでしまった場合、もう二度と「私がここにいる」という感覚は失われると考えた方が良いのではないかと私は思っています。
 私自身そういう状態に対する恐怖がないといえば嘘になりますが、その反面、夢も見ないで熟睡しているようなものだと思えば、そんなものかと思うときもあります。

▼赦してください

 あるアメリカ人の救急救命士の演説を読んだことがあります。救急救命士ですから、人が死ぬ瞬間その場に居合わせるという経験をたくさんしておられます。その人のお話によれば、人間は死ぬ時に(もし人と話をする余裕があれば、ということですけれども)あることを確認したくなるんだそうです。もちろん人によって違うのですが、大まかに言って3種類のことに分けられると言っています。
 1つは「赦しを乞う」ということです。いざこの世を去るという時になって、様々に後悔することが胸をよぎる人はたくさんいるそうです。自分が今まで迷惑をかけた人、傷つけた人、争ったまま和解できなかった人に対する心残りが湧き上がってくるのでしょうか。そのような人生の様々な悔いについて、「赦してほしい」という思いが湧き上がるといいます。
 同志社の創立者新島襄の遺言の中には、このような一言があります。
 「私は普段から敵を作らない決心をしていた。もし皆さんのなかであるいは私に対してわだかまりを持つ人がいるならば、そのことを許していただければ幸いである。私の胸中には一点の曇りもない」。
 このように、胸中に一点の曇りもないと言いつつも、ひょっとしたら自分に対してわだかまりを持っている人もいるかもしれない、赦してほしいと、新島襄でも感じていたということですね。
 私もこのような思いが強く湧き上がるだろうな、と自分で予想しています。たくさんの人を傷つけ、迷惑をかけていますから。
 このような人間にとっては、少なくとも神が私を赦してくださっているのだろうと信じることが大きな慰めになっています。

▼覚えていてください

 2つ目は「覚えていてください」ということだそうです。もし自分が死んだとしても、残された人たちの間で自分が生き続けているのだということを確認したくなるのですね。自分が生きていたことを思いに留めておいてほしいと願うんです。
 私の恩師の神学部教授であり、カウンセラーの先生が亡くなった時、その葬儀で配られたカードにこんな言葉が書いてありました。
 「私の魂は召されても、人の心の内に生きる」。
 この先生にはそのような確信があったのか、「私の魂が召されても、私は人の心の中で生き続けるのだ」と言い切ることができるのは、それだけたくさんの人の魂のお世話をしてきたのだという自負があったのかなと私は想像しています。
 普通の人なら「皆さんの心の中に覚えておいてくださいね」とお願いするのが精一杯という気がします。
 それと同時に、これから世を去る人には、必ずあなたのことを覚えていますよと宣言したいと思いますね。永眠者記念というのは平たく言えばそういうことだと思います。
 覚えてもらえる友がいない人、孤独な人は本当につらいと思います。ルカによる福音書に、イエスと共に十字架につけられた囚人が「イエスよ、御国にお出でになるときには、私のことを思い出してください」と言ったのは、この孤独な思いの吐露ではなかったかと思います。イエスはこの人に、「あなたは今、私と一緒にパラダイスにいるよ」と言いました。いつでも私はあなたを覚えている、と。そして、この福音書を書いたルカは、イエスがあなたをいつまでも覚えているのだということを私たちに伝えようとしています。

▼認めてください

 3つ目は「私の人生は意味のあるものだった」ということを確認したくなる人がいるといいます。自分は与えられた時を無駄に過ごした訳ではなかったということを確認したいものだというのですね。ちゃんと意味ある人生を私は過ごしたんだろうか、と。
 死が眠りだとするならば、私たちは毎日1日を終わるごとに死んでいる、朝を迎えるたびに生き返っていると考えることもできます。1日を締めくくる時に、私たちは「今日は意味のある1日だったかな?」と振り返ることがあるでしょうか。
 私は今日、神さまに自分の時間を捧げることができただろうか?
 今日出会った人と良い時を過ごせたと言えるだろうか。
 今日傷つけた人と、いつ和解できるだろうか、赦してもらえるだろうか。また私は人を赦すことができているだろうか。
 そんなことを思い巡らせてみて、自分なりに納得して1日を終わることができているでしょうか。
 その1日1日の積み重ねがあって、それで一生の意味が満たされるのかもしれません。一生を終わるとき、自分はやるだけのことをやったと、ひとまずは満たされるような終わり方ができれば、言うことはないのではないかと思います。
 しかし、大きなもの、例えば仕事や家族、友人とのつながりなど、大きなものを無くした喪失感を抱えたまま終わりを迎えるのは大変つらいことでしょう。
 教会は神の家族であると言われますが、このような時のためにも、私たちはつながりを持っておかなくてはなりません。すなわち、誰一人の命も意味なく存在しているのではなく、皆同じ神さまに結ばれて、神の霊に包まれて、共に永遠の神とつながっている命なのだということを確認し、血縁や同僚というつながりとは異なる魂のつながりがあるのだということを宣言しなくてはなりません。

▼召される

 私たちは、よく死を迎える時に「魂を召される」、「天に召される」と言います。「召される」というのは、「呼ばれる」という意味ですが、私たちはこの世を去る時だけ呼ばれるわけではありません。生まれてくる時にも、神の呼び声によってこの世に目覚めるわけです。
 要するに「召命」(しょうめい)ということですね。召されるの「召す」という漢字と「命じる」という漢字が合わさって、「召命」です。
 「召命」というと、つい牧師たちだけが自分たちの仕事について「召命」とか「召命感」ということを言いがちですが、実はプロテスタンティズムの思想では召命を受けているのは、すべての人なんですよね。
 すべての人が神に呼ばれてこの世にやってきて、神に与えられた命を生き、神に与えられた仕事をし、そして神に呼ばれてこの世を旅立ちます。この世に生まれるも、あちらに旅立つも、神の導き、神の御心のままです。
 神の御心によって生まれてきたということは、すなわち、生きている私たちの人生には一人残らず意味があるということです。私たちの誰一人、無駄な命を与えられている者はいません。
 感謝してこの命を生き、時が来たら感謝して眠りにつく、すべて神に信頼し、御心のままに任せましょう。





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール