痛々しい信仰?

2017年11月19日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日聖日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし19分間 + 分かち合い34分間 = 53分間

 フィリピの信徒への手紙4章4−7節 (新共同訳)
 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
 あなたがたの広い心をすべての人に知らせるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
 どんなことでも思い煩うのはやめなさい。
 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。



▼痛々しい信仰

 ある人に、「クリスチャンの人たちを見ていると痛々しい」と言われたことがあります。
 どういうことかというと、どう見ても不幸な状況にしか見えないのに、クリスチャンの人は何かというとすぐに「私は神様に守られているから大丈夫」とか、「私は神様を信じているから幸せなんだ」とか言う。そして、「神様を信じることができているなんて、何て私は幸せなんだろう。あなたも神様を信じればいいのに」と言う。
 その優越感に満ちた様子がなんだか見聞きしていてムカつく時がある。なんだか「あなたは神様を信じてないのね、かわいそう」と言われているようで腹がたつと。そして、幸せだ幸せだと言う割には、仕事がなかなか見つからなかったり、体を壊していたり、家族が病気だったり、決して神様に恵みを頂いているようには見えないじゃないか。その様子がまるで開き直りのような態度に見えて、痛々しい……そんな風に指摘されたことがあるのですね。
 かくいう私もクリスチャンですが、なんでその人が私にそのようなことを打ち明けてくれたのかはわかりません。私自身はあまり人に優越感をあらわにするような態度を出してなかったのかもしれませんし、ひょっとしたら、事あるごとに「しんどいよー」、「つらいよー」とすぐに口に出すタイプなので、全く羨ましいとも思えないようなダメっぷりが人間的に見えたのかもしれません。
 「神様を信じている」と言っている割には、あんまり幸せそうじゃないから、話しやすいと思われているのかもしれません。

▼幸せの洗脳

 おそらく、クリスチャンではない人に対して優越感を抱き、「あなたたちは神を信じていないから可哀想ねー」と鼻高々に見下す態度をとるというのが、神が人間に対して望んでいることなのかどうか。疑問に感じるところはあります。
 こういう態度は、若い勢いのある人たちが集まる教会によく見られるようですが、実際、礼拝の中で「私たちは特別なんだ」、「私たちは周囲の不信仰な人たちとは違う」、「私たちは神に愛されているからいつも幸せだけれど、あの人たちは信仰がないので、いつも不幸だ」ということを何度も教え込まれて、刷り込まれているようですね。
 こういう教えを刷り込まれていると、教会に属していない人に対して、「あなたもクリスチャンになればもっと幸せになれるのに」と言って相手の怒りを買うということも起こってくるのですね。
 本人にとっては信仰ほど素晴らしいものはないのであり、人に勧めるのも好意や愛情からやっているんだと主張するでしょうけれど、たいていの人は、あんなに鼻についた態度をとるような人間になるんだったら、キリスト教になんか入りたくないわ、と思われてしまうわけです。
 あえて、羨ましいと言えば、本人が世間的に見てどう考えても幸福ではない状況にいながら、いつも喜んでいることでしょうね。
 しかし、本当に喜びに満たされた人が、自分のことを誇ったり、他人を見下したり、軽蔑したりする態度を取るでしょうか。

▼孤独ではない

 そもそも苦しみにあっても常に喜んでいるというのは、どういうことなんでしょうか。世間的に見れば不幸でしかないような目に遭っていながら、なぜ喜ぶことができるのでしょうか。
 私のことに関して言えば、苦しいことがそのまま嬉しいのだという心持ちには到底なれません。苦しいことは苦しい、しんどいことはしんどいんだと言ってしまいます。
 しかし、なぜか自分が不幸な人間だと思ったことはありません。結構幸せなほうかなと思います。多分それは自分が孤独ではないからではないかなと思ったりします。
 そしてそれはまたなぜかというと、多分、自分が自分の苦しみや悩みを隠さずに言える場所があり、聞いてくれる人がいるからだと思います。それも1人の人ではなく、1つの場所でもありません。
 SNSもその中の1つであり、決して軽視することはできません。インターネットなんて、と侮ることはできません。リアルの世界で話す相手を失ってしまった人にとって、たとえ機械を介したつながりであっても、話をする相手があることはとても大切なことです。
 もちろんそのようなネットワークを悪用して、孤独な心を抱えた人を食い物にしたり、利用したり、暴力・殺害の対象にしたりという恐ろしいことも起こります。
 しかし、だからといってネットワークの利用そのものを規制したり禁止したりしても、暴力をとめることにはならないでしょう。自分にとって信頼できる相手なのかそうでないのかを嗅ぎ分けたり、自分の心や体が守るべき大切なものなのだという感覚を育てるような教育や情報提供が本当は必要なのでしょう。
 それが備わった上でのSNSの利用は、孤独な人間を救うための道具にはなり得ると思います。

▼愛される権利

 完全な孤立、誰も手を差し伸べる人のいない孤独、それこそが一番恐ろしいことなのではないでしょうか。
 人生に苦しいことや悲しいことは、個人差はあっても必ず起こります。しんどいことや辛いことが生まれてから死ぬまでない人などいないでしょう。
 その苦しみや悩みは、同じ苦しみを体験した者でなくては、完全に理解することはできないかも知れませんが、それでも誰かに話すことができて、それを共感的に受け止めてもらえたら、それだけでも少しは痛みはやわらぐはずです。
 しかし、誰にも受け止めてもらえないとしたら、苦しみは倍増します。自分がもともと抱えている苦しみに加えて、自分は孤立しているという悲しみが加わります。逆に、孤独ではないというだけで、苦悩を抱えている人も、少しは救われます。
 考えてみると、人は理解されているかどうかということも大事ですが、それよりも大切に思われているかどうかということのほうが、もっと大事なのではないかと感じることがあります。
 もちろん自分の悩んでいることなどを、100%理解してもらえたら、それに越したことはありません。しかし、そんなことは突き詰めれば無理なのではないかと思うのですね。
 完全に他者のことを理解しきることはできない。そもそも自分のことだって100%は理解できないのに、人のことを100%理解するのは無理です。自分にも他人にもどこかわからないところがあるのが人間です。
ですから、「自分のことを誰もわかってくれない」と言っても仕方ないというか、そこは諦めざるを得ないのでないでしょうか。
 しかし、たとえ理屈として理解してもらうことがてきなかったとしても、少なくとも自分は辛いんだ、苦しいんだという気持ちを人に受け止めてほしいと願う権利はじゅうぶんにあると私は思っています。人は人に共感的に受け止めてもらうことが全くなかったら、生きていても仕方がないと思ってしまいます。消えたいと思ってしまいます。本当にこの世から消えてしまおうと行動に起こす人さえいます。
 だから、自らが生きるために、愛されることを他者に要求してもいいんじゃないかと思うんですね。
 一言で言えば、「愛される権利」です。人が「私を愛してくれ」と求めるのは当然ではないかと。
 「私の悩みを理解してくれとは言わないが、せめてつらいと思っている気持ちくらいは受け止めてくれ」と、人は要求してもよいのだと私は思います。

▼愛されているからこそ

 フィリピの信徒への手紙を読んでいると、パウロがフィリピの教会の人々を大変高く評価していることがわかります。たとえばコリント教会の人々への手紙と違って、フィリピ教会の人々に対してはパウロは心を開き、そのままの努力を続けなさいねと言っています。
 今日読んだ箇所でもそうです。パウロはどの手紙においても、いつも若干高飛車なものの言い方をしていて、それはこの手紙でも変わらないのですが、それにしても彼が上機嫌で書いているのがわかります。
 「あなたがたの広い心を」というのは、「あなたがたが様になっているのを」と訳す説もありますが、いずれにせよフィリピ教会のことを褒めているのは間違いありません。それを人々に知らせたらいいのに、とパウロは言います。
 「何事も思い煩うのはやめなさい。何事も感謝して、願いがあれば何でも神様に知らせなさい。そうすれば神の平安があなたを見守るでしょう」と言っていますが、こういうことは、相当気分がいいから言えることです。
 そして、なんでパウロが気分がいいかというと、それはフィリピの信徒の方々がパウロに対して協力的で、パウロを受け入れてくれているからです。
 私はこのパウロの「クリスチャンの広い心を人々に知らせよう。何にも思い煩わなくていい。何でも感謝しよう。何でも神様に打ち明けたら、神様に平安を与えられるよ」という言葉に、やや最初にお話しした、高飛車な鼻に付く態度のクリスチャンたちと似たものを感じます。
 素直な心の持ち主ではない私は、こういうハイテンションな物言いを聞くと、「何を調子のいいことを言ってやがんだい」とつい思ってしまうのですが、ちょっとパウロの側に立って考えてみると、こんなにパウロが喜びにあふれているようなのは、彼がフィリピの人々に愛されていたからではないかということに思い至るのですね。
 苦労の多かったパウロの人生ですが、それでも「いつも喜んでいようじゃないか」と言い、実際彼自身喜んでいるのは、実は彼が愛されているからに他ならないわけです。
 彼は別の手紙でも「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と述べています。偉そうに教えている彼ですが、こういうことが書けるのは、彼自身、喜びを共にしてくれる人がいたり、泣いている彼に寄り添って泣いてくれる人がいたからでしょう。
 そして、思えば一見高飛車に見える、というか、本当に思い上がった態度で鼻持ちならないクリスチャンも、ただ若くて人間的に未熟なだけで、そういうところに目をつぶれば、要するに自分が愛されていることを実感できて本当に喜んでいるんだな、と受け止めることができます。
 こちらととしては、その上から目線を内心鬱陶しいなと思いながらも、「あなたが愛されていると実感できているのなら、それは本当によかったじゃないか」と受け止めてあげることはできるのであります。

▼私のために祈ってください

 繰り返しになりますが、私たちは生きていくためには、愛されることが絶対に必要です。愛されているからこそ生きていけるのであり、誰からも共感的に受け止められる事のない人生は、生きたいという思いをも奪ってしまいます。愛されることこそがの栄養です。
 教会というのは、そのような栄養を与え合う場所ではないかと思います。人が寄り集まって、喜びを共に喜び、悲しみを一緒に悲しむ場所です。
 この場所では「私を大切にしてくださいね」と私たちはお互いに求め合って良いのではないかと思います。「私のために祈ってください」というのは、「私のことを心にかけて、私と共に神様に思いを知らせてください」ということですよね?
 ですから、そういう意味でも、互いに祈り合うというのは本当に大事なことだなと思います。いつもいつも、私たちは互いのために祈り合う仲間でありたいと思います。
 「私のために祈ってください」と、いつでも、いつまでも遠慮なく言い合える教会でありたいと願います。





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