空の鳥に聴け、野の花を見よ

2017年11月26日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日聖日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と宣教22分間

 マタイによる福音書6章26−29節 (新共同訳)
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値ある者ではないか。
 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。



▼拍子抜け

 お久しぶりでございます。今日枚方くずは教会のみなさんと一緒に礼拝ができますことを感謝します。
 Facebookを通じて、こちらでもイスラエルに旅行された方がおられることを知り、嬉しくなりました。私も今年の8月にイスラエルに旅行してきたからです。
 イスラエルに行ってきましたと言うと、いろんな人が「ようあんな危ないところに行ってきたね」と開口一番に言います。確かにイスラエルはいつも銃撃戦や自爆テロが行なわれている中東の国、といったイメージを持っている人が多いです。パレスティナ自治区とは常に一触即発、ちょっと前までガザ地区に爆撃をしていた記憶も新しい。
 私が行った8月下旬は、ちょうど1ヶ月前にライオン門というところで警官殺しがあり、神殿の入り口に設けられた金属探知機をめぐってイスラエル人とパレスティナ人のにらみ合いが続いているとニュースで聞いたばかりでしたので、かなりカチカチに緊張して現地に入りました。
 ところが、実際にイスラエルに行ってみると、旅行会社のバスは平気でヨルダン川西岸のパレスティナ領に入って行くし、検問所の兵隊はコーヒーを片手にスーツケースをざっと見るだけで、すんなり通してくれるし、エルサレムの繁華街では夜遅くまで多くの人が酔っ払って道で踊ってるような有様ですし、全く緊張感が感じられない様子に、逆に拍子抜けしたような気分でした。

▼涼しく爽やかな土地

 もう一つ、イスラエルと言うと、砂漠地帯でどこまで行っても砂と岩ばかりが転がっているカラッカラの大地という印象を持っている人が多いんではないかと思います。
 確かにイスラエルの国土にはそういうところが多いです。
 イエスが断食の修行をしたと言われるユダの荒れ野に降り立った時は、身体中の汗腺からどっと汗が噴き出す感覚を味わいました。サウナのような熱気と乾燥に包まれて、「こりゃあきついわ」と思いました。
 そして人っ子一人いない荒れ野で、孤独にさまようイエスを想像しましたが、同時にこんなところをさまよって修行をしていても、人を救うことはできないと悟り、結局イエスはガリラヤに戻ったのかもしれないなとも考えました。
 イエスが生まれ育ったイスラエル北部のガリラヤ地方は、ちょっと暑いけれども、湿度が少なくて過ごしやすく、湖はあるし、緑も豊かですし、非常に心が和む地域です。
 ガリラヤ湖畔をめぐる中で、マグダラという街の遺跡を訪れたのですが、そこの教会から見えるガリラヤ湖の緑色の湖面はとても美しかったです。そこは有名なマグダラのマリアの出身地ですが、イエスも教えたであろう、そしてマグダラのマリアと出会った場所かもしれないシナゴーグ(ユダヤ教会堂)の跡を見た時は感慨無量でした。

▼野の花、空の鳥

 私がガリラヤ地方で一番気に入ったポイントは、ガリラヤ湖のほとりから緩やかな斜面を登った丘の上にある「山上の説教の教会」と呼ばれている教会でした。
 その教会の周りには、人間の背丈をちょっと越すくらいの高さの木に、色とりどりの花が咲き溢れ、小鳥がチュンチュンとあちこちで鳴く声が響いていました。
 その花を見ながら、鳥の音を聞きながら歩いていると、まるで天国というのはこういう所ではないかという気さえしてきました。
 そこはイエスが人びとに教えを語った場所とされているところなのですが、まさにイエスはこのような「野の花、空の鳥」を具体的に指差しながら、人びとに話をしたんだなとわかります。
 「野の花」と聞くと、私たちはつい日本の野原によくある背の低い草花を思い浮かべがちなのではないかと思うのですが(少なくとも私はそうだったのですが)、彼が見ていたのは、背の高い、花をいっぱいにつけた色とりどりの木々だったのですね。
 イエスが「空の鳥を見なさい」、「野の花を見なさい」と言ったのは人の目と耳を通して目一杯自己主張してくるような豊かな自然の風景だったんですね。

▼働かなくてもいい

 イエスは、それらの植物も動物も「働きもせず、紡ぎもしない」、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」、にも関わらず、「神は鳥を養ってくださる」、「花を着飾らせてくださる」。「ましては人間はなおさらではないか」と語っていますね。
 つまり、私たち人間がもし労働をしなかったとしても、神はそんな私たちを見捨てたりはしない。人は生きている限り価値がある存在なのだよと教えてくれているのですね。
 これは生きてから死ぬまで労働しない人生など考えたこともないような当時の人びとにとっては、最初は何を言っているのかわからない言葉だったのではないかなと思います。
 生まれて、物心ついた時から親の手伝いから始めて、14歳で成人して、結婚して、子供を作って、やがて年老いて、と言っても貧しい庶民の平均寿命は30代半ばだったようですが、その短い人生を働きづめで終わる。働けなくなったら、まもなく死ぬ。人生なんてそんなもんだと思っていた人びとにとって、働かずに神様が養ってくださるような世界があるとしたら、それはこの世ではないのでありまして、まさに天国というしかなかったでしょう。
 実際、イエスは他の聖書の箇所でも、ぶどう園の労働者たちにたとえて、労働時間と関係なく養ってもらえる天の国の話をしていますね。夕方の5時まで雇ってもらえなかった日雇い労働者というのは、要するにどんな作業をさせても役に立たないと見なされた人たちだったわけですが、そんな人たちを1時間だけぶどう園に連れてきて、それで1日分の賃金を上げたというのですから、これは要するに働かなくても、役に立たなくても食べる権利は同じだ。それは神のご意志なんだということをイエスは言っているんですね。
 
▼人の上に人を作らず

 なぜこんなことをイエスは言ったんでしょうか?
 ガリラヤの湖のほとりを行き来しながら、彼の目に入ったのでは、物心ついてから死ぬまで働きづめの庶民の生活だったでしょう。彼が生まれて育った大工のヨセフの家もそういう暮らしだったでしょうから、イエスも最初は「人生そんなものだ」と思っていたのかもしれません。
 しかし、何かが違うぞ、と彼に思わせたんでしょうね。
 彼ら大工に仕事を家や家具を発注する金持ちたちの暮らしから、世の中がいかに不公平であるかということを思い知ったのかもしれませんし、農民から年貢を取り立てて明日のパンも食べられるかわからないような状況に追い込んでいながら、自分たちは働かずに暮らしているエルサレムからやってきた大地主たちの様子を見たり、神殿税を取り立てて儀式をやっているだけで豊かな暮らしをし、献げ物をしなければ神の罰が下るぞと庶民を脅して偉そうにしている祭司たちを見ていると、「何かがおかしい」と彼は感じたんでしょう。
 身の回りを見てみれば、野の花や空の鳥は、労働することもないままに着飾り、自由に飛び回って鳴いている。この花や鳥たちよりも人間が神に愛されていないなどということがあるだろうか。そう考えると、同じ人間のくせに、その人間が神の名を語って、人間の上に君臨している。そんな神殿の祭司たち、貴族たちの体制が間違ったものに感じられて仕方なかったのではないでしょうか。
 そこで、イエスはガリラヤののどかな町々に収まっていることができず、エルサレムの都に上って行って、神殿に殴り込みをかけずにはおられなかったのであろうと私は考えます。

▼殴り込み

 イエスは弟子達一行と共にエルサレムに入り、エルサレムの庶民に最初は非常に歓迎されたようです。でも、身の危険は感じていたらしく、エルサレムで夜を過ごすことは避けて、毎晩都の近くのベタニアの村に引き上げて、そこにあるマルタとマリアの家を根拠地にしていたようですね。
 そのように用心深く行動しながらも、過越の祭の夕食をエルサレムの街中で行ったためなのか、居場所が割れてしまい、オリーブ山で捕まったとされています。
 神殿の権力というのは、現在でいうところの三権分立という概念もなく、ユダヤの律法を中心に司法も行政も統合されたようなところですから、逆らいようがありません。
 最初の頃は、庶民の不満を吸い上げて、神の力によって変化をもたらしてくれると期待され、もてはやされたイエスも、いざ当局に逮捕されてしまうと誰も味方になってくれる人はいません。みんな自分自身が権力に反抗して声を上げるのは怖かったんですね。
 ですから、一般大衆はいとも簡単にイエスを裏切って、彼が十字架につけられて殺されるのを、見世物として好奇心いっぱいで見つめていたんですね。そして、イエスについてきていたはずの弟子達もみんなイエスを裏切って逃げてしまいました。
 
▼儚いながらも愛される命

 このように、イエス一行の神殿への殴り込みはあえなく失敗したわけですが、イエスの故郷のガリラヤの人びとの間には、イエスの語っていた言葉が残りました。イエスが殺されたという知らせを、ガリラヤのイエスを愛する人びとはどんな思いで受け止めたでしょうか。
 ガリラヤの人びとの心に残っていたのは、豊かな自然や、農民の暮らしなどをたとえ話にして嬉しそうに語っていたイエスの姿だったでしょう。そのイエスが無残な殺され方をしたことを聞き、さぞかしガリラヤの人びとは心を痛めたことであろうと思います。
 今日お読みした聖書の箇所、「野の花」の話に続いて、イエスのたとえ話はこのように続いています。
 「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(マタイ6.30)。
 「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる」というイエスの言葉に、人びとはイエスが自分の運命を予言したように感じたかもしれませんし、また聞いた人たちも「自分の人生も同じような儚いものだなあ」と改めて心を巡らせたことでしょう。
 そして、儚い人生であったとしても、神は一人一人の人生を、花をたくさんつけた木のように装ってくださるのだと語ったイエスの愛に慰められたのではないかと思われます。
 私たち人間の命は儚いものですが、どのような状況に陥ったとしても、神は私たちを最期の瞬間まで、空の鳥のように養い、野の花のように装ってくださると、イエスは伝えます。
 私たちは、このイエスの言葉に信頼して、神に愛された者として、自らの人生を、歌うように、装うように、生き切りましょう。









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