イエスの奇妙な系図

2017年12月3日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 アドヴェント第1主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし25分間+45分間=70分間

 マタイによる福音書1章1節 (新共同訳)
 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。



▼奇妙な系図

 おはようございます。今日はアドヴェントの第1日曜日ということで、いよいよ今日からクリスマスの準備が本格的に始まってゆきますよという日ですね。クリスマス・ツリーの設営ありがとうございました。今年は12月24日のクリスマス・イヴがクリスマス礼拝になりますが、その日に向かって、イエスの誕生を迎える心の備えをしてゆきましょう。
 さて、このクリスマスというのは、イエスの誕生の祝いなわけですが、新約聖書に記されているイエスの誕生の物語は、あくまで伝説として語り伝えられたものを記録したもので、それぞれ意味やメッセージは込められていますけれども、事実をそのまま報告しているというわけではありません。
 今日はマタイによる福音書の一番最初の一言をお読みいただきましたが、これに続くこの長い系図も実際の先祖と子孫を忠実に記録した系図というわけではありません。
 だいたい系図というのは、ある目的があって製作されるもので、例えば日本の天皇家の系図でも、天照大神から続く神々の時代の間は、誰それの子は誰それという具合に1本になっていますけれども、歴史的に確認できる人物以降は、兄弟・姉妹が何人いて……という具合に突然枝分かれを始めます。
 男の子の名前ばかり、それも1本の線だけで結ばれる系図というのは、事実の報告ではなく、偉大な先代の系統であるといことを言いたいだけのために作られた場合が多いのですね。このマタイによる福音書の最初に置かれている系図も、そのような単純な1本線の形になっており、主要な人物の兄弟・姉妹の枝分かれがほとんど(2箇所「兄弟たち」という言葉が使われていますが、それも特に名前は記されず)描かれていない形です。
 しかも、3つの段落ごとに14代を数えるように計画して描かれています。14というのは、「ダビデ」という名前をヘブライ語のアルファベットで書くと、古代ではヘブライ語は数字もアルファベットで書いていたので、「ダビデ」という文字は「14」を表すのですね。それで、14代を3回繰り返す形にすることによって、ダビデの子孫であるということを強調していると言われます。
 アブラハムの子であるダビデの子、というのはイスラエル民族の子孫であるということの協調であると同時に、救い主(メシア)というのは昔イスラエルを異国の支配から解放し、王国を打ち立てたダビデの家系から出るという言い伝えが当時のユダヤ人の間に広まっていたのですね。そこで、ダビデの子孫であるということが協調されているわけです。

▼見落とされた女性たち

 しかし、この系図には、他の古代にありがちな偉大な男性たちの系図にはない大きな特徴があります。
 それは4箇所にわたって、女性の名前が入り込んでいるところです。
 ほとんどの部分で男性の名前が繋がった系図ですが、5節に「ラハブ」と「ルツ」という2人の女性の名前が入れられています。また、6節の後半、段落が変わったところには、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とありまして、「ウリヤの妻」という名もない女性が入れられています。そして4人目は16節のイエスの母マリアです。
 この女性たちの共通点は、いずれも何かイスラエル民族の歴史の中で華々しい功績を挙げた人々とは言えないことです。むしろイスラエル社会の常識から見れば、マイナスの要素を抱えている女性たちです。
 例えば、5節のラハブは旧約聖書のヨシュア記に出てきますが、この人はエリコという町で客を取っていた娼婦です。けれども、このエリコの町を攻略するためにヨシュアが送った2人の偵察兵をかくまったことで、イスラエルの味方として聖書に記録されることになりました。娼婦というのはユダヤ法では禁じられていた仕事ではありましたが、そのような罪人によってイスラエルは救われたことを忘れるなということなんでしょう。
 また、同じ5節のルツは、ルツ記のルツです。ルツは神さまの決めた運命にどこまでも従順について行き、自分が添い遂げようとした人には最後まで寄り添ってゆく愛に満ちた模範的な人物だというふうに描かれていますが、彼女はモアブ人の娘であり、本来はイスラエル人からは見下げられた異民族です。ということは、この系図は、神が必ずしもユダヤ人純血主義ではないということを示していることになります。
 そして6節のウリヤの妻。ダビデの忠実な部下であるヒッタイト人ウリヤの妻で、歴代誌とサムエル記に「バト・シェバ」という名前で登場します。彼女も男社会の被害者と言いますか、自分の夫を戦争の最前線に送られている間に、王に関係を迫られて、妊娠させられて、挙げ句の果てに夫も戦死させられて、王の妻にされた女性です。そして、ダビデ王は、この他人の妻の子どもを自分の後継ぎにするというスキャンダルですね。神の子の系図のなかには、このような犠牲者も存在することを忘れるなということでしょう。
 そして、系図の最後、16節に記されているマリアにしても、世間的に見れば決して恵まれた結婚とはいえません。結婚前に婚約者以外の誰かによって妊娠したことが発覚したわけですから、これは当時の社会においては一大事なわけですよね。そのような通常ではない子どものでき方をしたわけで、私たちは物語の結末を知っていますけれども、マリアにしてみれば、自分の妊娠がわかった時というのは、普通に考えたら夫から離縁されたり、婚外子をもうけたということで処刑されてもおかしくなかったわけで、やはりスキャンダル。
 そういうわけで、この系図には、いずれもイスラエル社会の中では、ストレートには脚光を浴びるような存在ではないような女性たちが交えられている。イエスが生まれてくる背景、そしてイスラエルの救い主が生まれてくる背景には、このような罪人、異邦人、男性の暴力による被害者、結婚におけるスキャンダルを経験した人など、世の中から見落とされがちな人々が存在していることを忘れてはならんぞ、というメッセージが読み取れるわけです。
 むしろ、世を救うというならば、このような人を無視して救いなどありえないだろうというメッセージです。

▼異教徒から来る不安

 クリスマスは喜びの季節です。そして神の子が生まれた時、神の栄光が顕わされた時だと言われます。
 しかし、神の子の誕生がどのような人々に最初に知らされたかを、クリスマスの物語をたどってみると、今日振り返ったイエスの奇妙な系図に込められたメッセージから読み取れるものと共通するものが浮かび上がってきます。
 例えば、マタイによる福音書においては、イスラエルよりも東方のペルシアにいた占星術の博士たちに救い主の誕生が告げ知らされたと記されてあります。
 イスラエルの救いが訪れるのならば、イスラエルに真っ先に知らされそうなものですが、それはないんですね。むしろ、ユダヤ教とは敵対しているような異教徒の、しかも、ユダヤ教ではいかがわしいとされている占星術の専門家たちから、救いの訪れが知らされると。
 そしてむしろ、その博士たちからユダヤの王の誕生を知らされて、ヘロデ王だけでなく、エルサレムの人たちもみんな不安を抱いたというんですね(マタイ2:3)。喜ぶよりは不安を抱く。イスラエルの人たちが、実は心の底から救い主の誕生を喜んでいなかったんだ、というショッキングな報告をマタイはしているわけです。
 そういう報告を受けると、私たちは、神が与えようとしている救いとは一体なんなんだろうと、ちょっとわからなくなるんですね。神の栄光というのは、決してイスラエル民族、すなわちユダヤ人、しかも首都に住んでいる中心的な人々が、もろ手を挙げて賛成するような形ではやってくるわけではない、むしろ門外漢から告げ知らされる不安な知らせのようなものなのだ、ということだけはうっすらとわかってきます。

▼「コウノトリのゆりかご」

 さらに言うならば、先ほども言いましたが、イエスは父親なしで生まれてくるスキャンダラスな子供です。
 夫ヨセフが最終的に自分の子として育てる決心をしたから良かったものの、そうでなかったらマリアは夫以外の男性の子供を宿したという罪で石打ちの刑にあうか、それともナザレの村を逃亡して路頭に迷うかといったところです。
 初めて妊娠を知った時、マリアは何を思ったでしょうか。
 マタイによる福音書には、大天使ガブリエルは登場しませんし、受胎告知の出来事もありません。マタイはマリアがどのような経緯で聖霊によって身ごもったのかは詳しくは知りませんし、マリアが自分の妊娠を知った時、どう思い、どういう反応をしたのかを書いていません。
 おそらくマタイさんはそういうことは関心なかったんでしょうね。マタイさんにとっては、系図にもあるように、イエスがイスラエル民族の出身であり、ヨセフさんの決断によってダビデの家系に入った者だということを示すことができればそれで良かったみたいです。
 とにかく自分が妊娠していることを知ったマリアさんが何を思ったかは、マタイによる福音書ではわかりません。しかし、普通に考えたら、「許嫁のヨセフに何と伝えたら良いのだろう?!」とパニックに陥ってもおかしくないと思います。ヨセフから見れば、そしてもちろん当事者以外の人間から見れば、彼女は知らない人の子供を宿した未婚の母ですね。
 そして案の定、ヨセフは彼女を密かに離縁しようとします。自分とは関係のない子供を婚約者が身ごもったのだから、彼としては当然だと思っていた。ところが彼は眠っている時に夢を見て、その夢の中で天使が自分に真実を告げるのを聞き、それを信じてマリアを妻として迎え入れる決心をするんですね。
 この物語は、現代でいうところの「コウノトリのゆりかご(通称:赤ちゃんポスト)」のような話ではないでしょうか。
 現代の「コウノトリのゆりかご」には賛否両論がありますが、このクリスマスの物語は、予期せぬ妊娠をした女性を天使のお告げが救ったというお話に私には見えます。
 予期せぬ妊娠をした女性、子供を育てることができるような状況にはない女性、しかし生まれ出てくる子供の命は救いたいと思う人のために「コウノトリのゆりかご」はあるのではないかと思いますが、いわば天使はヨセフに「お前がコウノトリのゆりかごになってやれよ」と命じ、ヨセフはそれを引き受けたということなんですよね。
 残念ながらここでは、マリアとヨセフの話し合いの結果、二人はこの子供を産んで育てることにしました、とはなってないし、全部神様のお膳立てで、まるで二人の若い夫婦は神様の道具として使われただけのように読めないこともないですが、そこはマタイさんの限界であったにしても、未婚の母の宿した小さな命を、神はなんとか守りたがっているんだという思いがこの物語から伝わってくるような気がいたします。

▼目を留められていない人に目を留める

 そういうわけで、今日は、マタイによる福音書の始まりの部分を取り上げて、イエスの誕生にまつわるお話をしましたが、最初の1ページから読み取れることだけでも、救い主の誕生は一筋縄ではいかなかったということであります。
 救い主の誕生を思う時、私たちは、この世で見捨てられそうになっている人や、小さな弱い命、そして異邦人、異教徒、世間から卑しいとされている人々、そんな人たちのことを特に心に留めておかないといけません。
 クリスマスは喜びの時、栄光の時ですけれども、この世の中で、最も心細い立場にいる人を迎え入れる時にしなければ、神は喜んではくださらないでしょう。
 普段は気に留めていない人に、心を寄せる。そのようなアドヴェント、クリスマスの時にしたいと思います。





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