新しいことはもう始まっている

2018年1月7日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 新年礼拝 説き明かし

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし(20分間)+分かち合い(24分間)=計45分間


 イザヤ書43章18−20節 (新共同訳)
 見よ、新しいことをわたしは行う。
 今や、それは芽生えている。
 あなたたちはそれを悟らないのか。
 わたしは荒れ野に道を敷き
 砂漠に大河を流れさせる。
 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
 荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
 わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。



▼ジハード

 みなさん、あけましておめでとうございます。新年をどのような思いでお迎えでいらっしゃいますでしょうか。
 私は、個人的には「今年こそは少しでも痩せたいなあ」と思っているくらいで、あとは仕事においても教会においても、これまで続けてきた努力を……努力はそれなりにゆっくりとではありますが、一応していたつもりでしたので……その努力をこれからも地道に続けて行きたいなと思っているだけでございます。
 突然、イスラームの話になりますが、イスラームで「努力」というのは、アラブ語で「ジハード」というのですね。しかもこれはムスリム(イスラームを生きている人)の間で、非常に大切にされている勤めです。
 イスラームでは「六信五行」と言って、6つの要素を信じ5つの行いを義務にすると言われます。「六信」というのは、アッラー・天使・啓典(つまりクルアーン。あるいはコーランとも呼ばれますが)などの6つを信じる。「五行」というのは、信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼の5つを行う。これがムスリムの基本であるとされているわけです。まあ、5つの巡礼というのはサウジアラビアのマッカ(あるいはメッカ)に行って礼拝するということなので、ある程度経済力がないといけないし、一生に一度行けたら良い方というのが現実ですけれども、それがムスリムの夢なんですよね。
 そして、ジハードというのは、その5つの行の次に来る6番目の行と言われているものです。
 よく「聖戦」と日本のマスコミなどでは訳されていて、誤解を招いていますけれども、もともとジハードには「戦争」の意味は含まれていません。あれは間違った翻訳だと言い切るムスリムの方もおられます。

▼努力・奮闘

 本来、ジハードというのは「努力」あるいは「奮闘」を意味していて、「神のための努力」・「神の道のために奮闘する」ということを指す言葉としてクルアーンに記されています。
 例えば、私は最近のニュースの中で、日本イスラーム文化センターの事務局長クレイシ・ハールーン・アフマドさんという方が、東日本大震災の被災地での炊き出しや、東京の池袋での野宿者のための炊き出しを長くやっていることについて、「これが本当のジハードですよ」と語っている記事を読みました。
 この方のお父さんは仕事を引退したのちに、「これから何をするんだい?」と聞いてみたら、「今度はジハードをする」と答えたそうです。そのジハードは何であったかというと、「自分が住んでいる地域の貧しい子どもたちに教育を提供したい」ということだったそうです。
 またジハードには他にも、自分の心の中の良くない欲望と戦う、自制するという意味もあります。目に見える行動だけではなく、自分の内面の努力のことを指すんですね。
 私が一度マレーシアでイスラームの勉強をしに行った時に、案内から訪問先の手配から一手に引き受けてくださった日本人ムスリムの方がいらっしゃったんですが、その人も「私がこうしてあなたに奉仕しているのも、ジハードなんだ」とおっしゃっていたことが印象深く思い出されます。

▼行

 というわけで、ジハードというのは「神の道のために努力・奮闘する」ということ。
 話が回り道になりましたが、自分なりにそのような努力は、ゆっくりではあるけれども続けてはきたつもりです。だから、これからも続けて行く。今年の目標です。今年の目標といえば今年の目標ですが、去年も目標だったし、多分来年も目標であり続けるだろうと思いますので、今年で終わるような努力ではありません。生きている限り、ジハードは続くのではないかと思います。
 このジハードをキリスト教的な用語で言い換えるなら、どのような言うかなと考えてみたのですが、これは私の全くの私見ですけれども、「証しを立てる」という言葉で表現できるのではないかなと思います。
 「証しを立てる」というと、「このクリスチャンの少ない日本の社会の中で、模範的と思われる人生を歩む」という意味で捉えている方が多いようですけれども、やはりここでは見かけ上の品行方正であるとか、上品であるとか、行いが立派であるとか、そういう意味ではなくて、ただ自分が神に愛されていることを表したいと思って、内面であれ外面であれ、努力・奮闘するということではないかと思います。
 しゃかりきになって体や心をつぶすほど奮闘はしたくないですが、地道に自分にできる努力を積み上げてゆくということは、ムスリムだけではなく、私たちクリスチャンにとってもとても大切な行ではないかと思います。

▼民族の独立

 さて、本日の聖書の箇所に戻ってみますと、本日はイザヤ書43章の18節からお読みいただきました。
 この説は、聖書のページをご覧いただければお分かりになりますように、16節から続くひとまとまりの詩になってます。
 そのひとまとまりを、前半も読んでみます。

 
「主はこう言われる。
  海の中に道を通し
  恐るべき水の中に通路を開かれた方
  戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
  彼らを倒して再び立つことを許さず
  灯心のように消え去らせた方」(イザヤ書43章16−17節)


 お分かりになった方もおられると思いますが、これは出エジプトの出来事のことを描いていますよね。海の中に道を開いて逃げ道を作り、強大な軍隊を倒したというのは、エジプトから逃亡してゆく奴隷たちのために海を割って逃げ道を作り、追ってきたエジプト軍を沈めて滅ぼしたということを思い出させているわけです。
 これは、イスラエル民族の先祖たちをエジプトから脱出させて、民族独立の基礎を与えた過去の出来事のこと言っているわけですね。

▼預言者イザヤの絶望

 ところが、後半を読んでみますと、今度は未来に何を神さまが計画しているかを述べる話に移っているわけです。
 これも再びになりますが読んでみます。

 
「初めからのことを思い出すな。
  昔のことを思いめぐらすな。
  見よ、新しいことをわたしは行う。
  今や、それは芽生えている。
  あなたたちはそれを悟らないのか。
  わたしは荒れ地に道を敷き
  砂漠に大河を流れさせる。
  野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
  荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
  わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ」(同18−20節)


 これを預言者イザヤが書いたのは、バビロン捕囚……すなわち、新バビロニア帝国に国を滅ぼされたイスラエルの子孫:ユダの人びとが、バビロニアに強制連行されたわけですが、そのバビロン捕囚から解放されることになり、元のイスラエルの土地に帰ることを許されたと。
 そして、故郷に帰って自分たちの国をもう一度立て直すために、おそらく先遣隊として派遣された人びとの中に預言者イザヤが混じっていたと考えられているのですが、そのイザヤが見たものはというと、荒れ野と砂漠と、崩れ果てた神殿や跡形も無くなってしまった街の廃墟だけだったんですね。
 何も無くなってしまった、ただ暑い暑い砂漠と、ペンペン草一つも生えてない荒れ野という、まさに死の世界でしかないようなところに、何をしに戻ってきたんだろうという絶望がイザヤを襲った。その時に、この預言の言葉が彼に降ってきたというわけです。

▼民族の再生

 イザヤに降ってきたイメージというのは、ボロボロの荒れ野に道ができ、カラカラの砂漠に大きな河が流れるようになるであろう、という映像です。また、この荒々しい土地で生きている野生の動物たちと共に、我々の民も皆、この大きな河の水を飲むことができるであろうというビジョンです。
 道を作り、水を治めるというのが、この旧約聖書に何度も描かれているヤハウェの神様のイメージですが、ここでもそういうイメージで神様が描かれています。このひとまとまりの詩の前半部分でも言及されていたような道と水を支配する神が、今度は新しい救いの業を始めるぞ、再びイスラエルをこの砂漠の真っ只中で救い上げるぞということが宣言されているわけです。
 そこに、イザヤは「我々の民は必ず再び立ち上がるぞ」という確信を得る。そして、それを人びとに伝えるために、そして今こそヤハウェの神に信仰を集めなければならないと呼びかけるために、この預言書を書き記しました。

▼荒れ野に道を、砂漠に大河を

 そして、今この預言者を手にしている私たちも、私たちが何故今この書物を手元に抱くことができたのかを思い巡らせてみたいと思います。
 それはイザヤが絶望に覆われそうになった時に、神が希望を与えてくれたのだということを思い起こすためではないでしょうか。
 人間の目では何の希望も見出せないように見える時にこそ、神の目からは希望が見えているのだということを思い出せと、そのために私たちは預言書というものを読むのではないかと思うのですね。
 新しい年を迎えて、私たちが生活しているこの世の社会情勢を見れば、あまり明るい喜びの話題はありません。景気が良くなったと大手のマスコミは言いますが、草の根の情報では、生活が豊かになったと実感している人はほとんどいない。震災の被災者の生活再建はほったらかし、生活保護は削られ、税金は上がる。戦争の足音がすぐそばにまで近づいている予感がする……。
 しかし、私たちの小さな群れは、そういう時こそ、心の中に希望を抱くべきです。
 神の新しい計画は始まっているのだ、と信じるべきなのは、世の中に絶望が広まっている時においてです。
 その計画は、たとえでしか語られていません。「荒れ野に道を、砂漠に大河を」という言葉で象徴されている、何かが私たちの間に実現するだろう。それが具体的に何かはわからないが、しかし、今すでにそれは芽生えている。そのイメージを大切に心に抱きながら、この1年も過ごして行きたいと思います。
 「荒れ野に道を、砂漠に大河を」そして、その砂漠にはすでに芽が生えていると。
 この神の計画に、私たちも参加して行きましょう。





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