善人すぎず、悪人すぎず

2018年2月4日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 19分間


 マタイによる福音書5章45節後半 (新共同訳)
 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。



▼山上の説教

 今日の聖書の箇所は、真面目な人が聞いたら怒り出すような話です。しかし、だからこそ人の意表をついてちょっとびっくりさせてやろうかといったイエスの性格がよく表れているような言葉でもあります。
 この言葉はマタイによる福音書の5章から7節にかけて集められている、いわゆる「山上の説教(山上の垂訓)」の中でも有名な箇所に収められています。
 イエスが実際に山の上でこの5章から7章のような長い説教を一気に語ったのではなくて、ある時は湖のほとり、ある時は湖を見下ろす丘の上など、いろいろなところで人びとに話した言葉の断片を集めて、マタイさんが編集したのが、この「山上の説教」ということなんですね。
 ですから、今日お読みした箇所も、印刷の上では1つの段落にまとまってはいますが、5章の43−44節の「敵を愛しなさい」の教え、その次の45節、今日の「父は悪人にも善人にも……」のくだり、そして、46節以降の「自分を愛してくれる人を愛したところで……」のくだりは、それぞれ3つの部分に分けられると考えられます。

▼独立した伝承

 もうちょっと突っ込んだ話をすると、どうも1つ目の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という文章と、46節からの「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろう……」という文章が意味的につながらないこともない。どちらも「自分を愛してくれない敵のために祈れ。天の父が完全であるように、あなたがたも完全になりなさい」という言葉づかいで一致していて、45節だけを省いても文章が成り立ちます。
 しかし、その一方で、真ん中の45節は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というのは、別にこの前後の文脈に入れる必要はないし、かえって意味がお降りにくくなるんですね。だから、この言葉はもともとは独立した1個の言葉の伝承で、マタイがここに無理にはめ込んだと考えることもできます。
 もう1つヒントがあって、真ん中の45節は単純に「父」と神のことを読んでいますが、前後の文章は「天の父」という言葉づかいになっています。おそらく元のイエスが「父は(父ちゃんは)……」と親しみを込めてシンプルに言っていた、その言葉の伝承を手に入れたマタイが、敬意を込めた「天の父」という言葉を使う自分の文章で、サンドイッチにしたんだろうと考えられます。
 とにかく、この「善人にも悪人にも……」という言葉は、独立した1個の伝承だった可能性が高いということです。この言葉が当時の人々にとって衝撃的であったので、周りの人々もこの言葉尻は覚えていたんでしょう。それで、この言葉が伝えられてきたのでしょうね。

▼律法の無意味化

 この言葉のインパクトがなぜ大きかったのかというと、「悪人も善人も、正しい者も正しくない者も、神様の待遇は一緒だよ」ということを、さらっと言ってしまっているからですね。
 これはイエスの生きていた当時の人々にとっては、とんでもない冒涜の言葉で、「は? 何を言ってんねや!」と熱心なユダヤ教徒たちからリンチを受けても全くおかしくような内容です。
 特に「正しい者にも正しくない者にも」と言われると、当時、「正しい」と言えばユダヤの律法に忠実に従って生きるということですから、このイエスの発言は「律法に忠実な人にも、忠実でない人にも、神様は同じように報いるんだよ」といったわけで。
 例えばこれは、「神の掟」とされた律法を使って、裁判を行ったり、政治や宗教を運営している祭司階級の人たちからすれば、せっかく自分たちが一般大衆を支配するために、「律法を守れ!」と教育したり、「あなたは罪を犯している」とか「悔い改めなさい」と宣告し、その罪が許されるようにと生贄の儀式を行い……といったことを一生懸命やっているのに、「そんなこと意味ありませんぜ」と、そこそこ支持者も集め始めていたイエスに言われたら、そりゃ頭に来るでしょうし、それ以上に、イエスのような神を冒涜する人物を泳がせておいたら、神が怒って、自分たちに罰を与えてしまうのではないかと、真剣に恐れたんですね。

▼残酷な平等

 また、祭司のような支配階級の人たちでなくても、例えばユダヤ人の中での真面目な人たち、ファリサイ派の律法学者たちなども、庶民の間で忠実に律法を守った生活をするよう指導する先生(ラビですね)たちがいますが、このような人たちもイエスのこの言葉を聞いたら、本気で腹を立てたと思うんですね。
 毎日、真面目に聖書を読んで、祈りを捧げ、律法を守る生活を続けることで、やがて終わりの時に、メシアと共にやってくる理想のユダヤ人国家に入れるのだと信じて、ずっとずっと「正しい」と言われていることをやってきている人たちに対して、「そんなことしても、しなくても、神様の待遇は一緒やで」と言ったら、そりゃマジギレされます。

▼因果応報

 世の中の多くの人は、真面目に生きていた人が得をし、不真面目に生きていた人が損をするのが当然だと思っています。
 例えば、身近な誰かが何らかの不幸や被害に出会った時に、よく私たちは「あんなにいい人が、どうしてこんな目に合うのかしら」と言ったりします。理不尽な災害に見舞われた時も、「なぜこんな罪のない人たちが」という言い方をする時もあります。
 この「いい人や罪のない人が災いに遭うのは許せない」という物言いは、裏返せば「悪人や罪深い人は災いに遭っても仕方ない」という考え方と表裏一体です。
 これは要するに因果応報の考えなんですが、人は決して、みんなが神の前に、あるいは運命とか人生において平等であることを望んではいないんですね。努力した人や真面目に生きた人はそれなりに報われ、不真面目で行いの良くない人はそれにふさわしい悪い報いを受けるのが当たり前だと思っています。そして、そうでなければ真面目にやっている方が損ではないか、と。
 しかしイエスは、「そんなもんだよ、人生は」と言うわけです。
 この点で言えば、イエスは徹底したリアリストだったと言えます。真面目に苦労したからといって、必ずしも報われるわけじゃないんだという人生の現実を、彼自身のそれまでの半生で、嫌というほど体験していたのでしょう。

▼宗教に反して

 だからイエスは、気休めの宗教を語りません。
 善人は必ず救われるとか、真面目に生きた人が報われるとか、生きてる間に報われるとか、死んだ後に報われるとか、そういうことはイエスは言いません。
 けれども、その一方で、彼は絶望を煽っているわけではないし、真面目に生きたって仕方がないよと言っているわけでもありません。
 彼の立ち位置はどこにあるのか。それは、この因果応報の思想が浸透してしまっている世の中で、「あいつがあんな不幸な目に遭ったのは、何か行いが悪かったに違いない」とか、「あいつがあんな状態に陥ってしまったのは、本人の努力が足りなかったからだ」と言われて蔑まれる人がいる。そんな人のそばに来て、「そんなことはないよ。関係ないのさ」と寄り添ってくれる。それがイエスの立ち位置です。
 信仰がいかに深いかとか、善行をいくら積んだかといった曖昧な基準で人を測り、望んでいた恵みが得られないと「あなたの信仰が足りないからだ」と決めつけられたり、あるいは「この世ではなく死んだ後、天国に入ることを願いなさい」とごまかされる人たちに対して、イエスは「今、私があなたのそばにいるから」と寄り添ってくださるんですね。

▼宗教への挑発

 このようなイエスのメッセージは、聖書の他の箇所でも、いくつも見ることができます。
 例えば、イエスは「空の鳥や野の花は、蒔くことも狩ることも紡ぐこともしない。それなのに神様は、それらを大切に養っている。まして、人間である我々は何をか言わんや」と言います。労働をしたかどうかによって、人に注がれる神の愛に変わりはないと言っているのですね。
 また、「ぶどう園の労働者」のたとえは、夜明け頃から働いた労働者も、日没前にやってきた労働者も、同じ賃金をもらうことになり、先に来た労働者が怒り出したというお話ですが、ここでもイエスは、労働の量や、役に立つか立たないかによって人に与えられる恵みに差はないというのが、天の国というものだよと説いています。
 また、「放蕩息子」のたとえもそうです。放蕩の限りを尽くして逃げ帰ってきた弟をめぐって、真面目に父親に仕えてきた兄が怒りますが、父親は弟の帰還を喜んでパーティーを催します。禁欲的に節制し、努力を積み重ねてきた人が、「馬鹿を見た」と言って怒り出す。特にこの「放蕩息子」のたとえ話の場合、「父親」というたとえが神を表している可能性もあり、もしそうだとすれば、「父なる神」に一生懸命仕えてきたといって報われるとは限らないんですよと、ずいぶん挑発的なことをイエスは言ったもんですよね。

▼善人にはなりきれない者

 こういう考え方は、真面目に努力すれば人生は成功すると考えたり、教えたりしている人には嫌われますし、「そういう考え方ではどんどん人間がダメになる」という人もいます。
 確かに善人も悪人も神から見れば一緒だとか、正しく生きようとする者も正しく生きようとしていない者も神から見れば一緒だといわれたら、善人であろうとしたり、正しくあろうとするほどアホらしいと思う人も出てくるでしょう。
 しかしイエスは、善人になれるとか、正しい生き方があると思っている人の側ではなく、善人にはなりきれない者、正しく生ききれない者の側に立ってくれた人なんですね。

▼イエスの立ち位置

 だいいち、実際にこの世に生きている人間の中で、完全な善人など、どこに存在するでしょうか。
 また、正しい生き方というものが仮にあったとしても、その生き方を思った通りに達成した人が、一体何パーセントいるのでしょうか。
 自分の人生をよく見つめた人ほど、いかに自分が未完成で、不完全な存在であるかを思い知っているのではないでしょうか。
 イエスの立ち位置は、この未完成で不完全な人間の現実です。
 彼のメッセージは、「あなたには欠けている部分があるし、弱さを抱えてもいる、問題だらけの人間かもしれない。けれども、神はそのままのあなたを愛しているんだよ」ということです。
 神の愛に条件はありません。資格も必要ありません。誰でも求める者が与えられるのです。
 もっとも条件を満たしていない、資格もないような人間のところに、イエスの立ち位置が有ります。
 このイエスの導きを信じ、今日も明日もイエスについて行きたいと思うものであります。





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