このような愛がある

2018年2月25日(日) 

 日本キリスト教団 周防教会 主日礼拝 説き明かし

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る





ライブ録画はありません。


 マタイによる福音書5章45節後半 (新共同訳)
 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。



▼正直者は馬鹿を見る

 今日お読みしました聖書の箇所、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という言葉は、一見、神様はどんな人にも同じように愛しているので、すべての人に恵みを与えてくださるという、素晴らしいことを説いている言葉に見えます。
 しかし、少し見方を変えると、「正直者は馬鹿をみる」とか「真面目に生きている方が、アホらしくなる」と読み取ることも可能です。
 と言いますのも、悪人にも善人にも、そして正しい者にも正しくない者にも、同じような天からの恵みがあるのなら、日々悪いことはしないように気をつけている人とか、またなるべく人様に後ろ指を指されないようなまっとうな生き方を心がけている人も、神様からの報いは何もしていない人と一緒なんやで、と言っているわけですから、真面目にやっている方が馬鹿みたいやんかということになります。

▼努力は報われるとは限らない

 こういう話はイエスのたとえ話などを読んでみてもよく出てくる話で、例えば私は「ぶどう園の労働者」のたとえ話が個人的には大好きなんですが、あの話では、夜明け頃に雇われて1日働いていた労働者と、夕方にぶどう園にやってきた労働者も、日没前に給料をもらう時、みんな同じ1デナリオンをもらったということになっていますね。
 すると、朝から働いている労働者が、後からやってきた連中と同じ金額しかもらえないのを不満に思って、ぶどう園の主人にクレームをつけます。
 ところが、ぶどう園の主人は逆ギレして、「これはわしのお金なんじゃから、わしが好きなように支払いたいんじゃ。お前はわしの気前の良さを妬むのか!」と怒るんですね。
 この話を例えば私が普段教えている中学生や高校生の生徒さんに教えてあげると、「絶対におかしい」という人がほとんどです。
 そりゃそうですよね、朝から働いていた人と夕方きた人では勤務時間が違うから当たり前だ、と。これが普通の考え方です。
 けれども、イエスは「多く働いても、少なく働いて一緒。それが神の国」と言い張ります。

▼真面目にやっても浮かばれない

 また、こういう話もあります。
 ある羊飼いに2人の息子がいて、その弟の方が財産の半分をくれと、この父親に言います。まだ生きているのに財産分与をしてくれという厚かましい男です。しかし、この父親は気前よく財産の半分を分けてやります。すると、この弟は旅に出て、酒だ女だギャンブルだと財産を使い倒して遊びまくり、ついにもらった財産を使い果たしてすってんてんになり、食べるものにも困るようになります。そこで彼はハッと気付きます、「父のもとに帰ろう」。遅すぎた回心とも言えますが、とにかく彼は父のもとに戻ってきます。
 さて、帰ってきた息子を見て、父親は遠くにいる段階から彼を発見し、「死んでいたはずの子供が蘇った!」と喜んで迎えに行き、彼を歓迎するパーティまで開いて、大はしゃぎです。
 これを見ていて面白くなかったのは兄の方ですね。何のために今まで頑張って汗水たらして働いてきたんだ、と怒ります。怒る方が当たり前ですよね。私の教え子たちもそう言います。
 ところが、父親は言うんですよね。「弟は死んでいたのに蘇ったんだ。お前はいつでも肉を焼いてパーティができるじゃないか」と。
 こんなこと言われたら、兄としてはやってられないです。でも、イエスにとっての神の国のイメージはこういうものです。

▼自己責任の世の中

 このような神の国のイメージは、もちろんイエスが生きていた時代にも驚きを持って受け止められたでしょうが、現代の世の中では、ますます受け入れられにくくなっていると思います。
 いまの日本は、新自由主義の路線で経済が回されています。これは人の心の中まで支配する社会態勢です。社会のあり方は大人から子供に至るまで、ものの考え方や価値観まで支配してゆくのですね。
 新自由主義の合言葉は「自己責任」です。あなたが豊かな生活をできるのは、あなたの努力の結果、しかし、あなたが生活に困っても、頼る人がいなくなっても、それもあなたが努力をしなかった結果。
 すべては自己責任ですから、自分で自分の損を引き受けてくださいよ、ということですね。
 新自由主義に続いて、昨今話題に上っているのが、「特別な教科」として「道徳」という科目。これを、小学校は今年度から、中学校は来年度から文部科学省が加えていっているのですが、この「道徳」で子供達に教えるべき徳目は、だいたい個人の尊重よりは、学校や会社組織、市町村や国といった集団の意志決定に自分を合わせるようにしなさいという内容の方が大幅に強調されています。
 つまり、何か困ったことがあった時には、世の中が悪いんじゃなくて、あなた自身の努力が足りないんだと思いなさいよ。という教育なのですね。
 宗教的な言葉で言えば「自業自得」の世の中ですね。社会や政治や神様などを批判しちゃいけない。悪いのは全部私。だから私が罰を受けても仕方がない。そういう風に思わせる方が、組織や国などを支配している側にとっては都合がいいわけで、それをさらに強化する教育をやっていこうというのが、今の世の中なのですね。

▼罪の教育のカラクリ

 イエスが生きていた古代のユダヤ人社会も、そういう自業自得の価値観で支配されていました。
 その社会のキーワードは「罪」ですね。例えば、あなたが病気になったのは、あなたが障がいを持って生まれたのは、あなたが貧しいカーストに生まれついたのは、すべてあなたの罪か、あなたの先祖が犯した罪のせいですよ。その罪の報いとして神から裁きを受けて、そうなっているのだから、それは全部あなた自身の責任なんです、と。つまり「罪」という自己責任ですべてを説明するやり方です。
 エルサレムの神殿を中心に、ユダヤ人社会を支配していたのは祭司階級の人たちでした。そして、この祭司階級の人々の収入の多くが、生贄の動物(ヤギや羊や鳩など)を売って、それを人間の罪の身代わりのために殺す儀式をやることによって賄われていました。
 つまり、「人間は罪深い」、「罪深い人間の自己責任」という考え方を国民全員に教育しておくことがベースにあって、その上で、その人間の罪を「贖ってあげよう」と言って庶民からお金を巻き上げる、それが祭司階級の儲けのカラクリだったわけです。

▼真面目な人々

 こういう自己責任論や自業自得論というのは、実は真面目な人たちによって絶対的に支持されます。
 真面目な人たちは、努力した人は成功すると信じますし、自分がもし成功していれば、それは自分の努力が報われたのだと思っています。
 あるいは神に祝福をいただいたのだと思っていたとしても、それは日頃から神に対する礼拝と捧げものをしっかりとやっているからだという、やはり自分の普段の努力が報われたのだと思っています。
 そして、真面目な人々は、成功しているとは思えない人生に対しては、「それは本人の努力が足りなかったからではないか」とあるいは「何か呪われるようなことをしたか、罰が当たるようなことをしたのではないか」という理由を、つい求めてしまいます。
 逆に、本人に何らかの落ち度や罪が見当たらなければ、「なんでこんな罪のない人に、こんな酷いことが起こるんだ」と義憤に燃えて、「だから神も仏もいないんだ」と言ってしまうわけです。
 こういう人たちは、因果応報、自業自得を信じ、真面目で正しい努力している人には幸福を、不真面目で性根が悪くて、なんの努力もしてないような人には罰や禍を与えるのが、神様仏様の役割だろうと思い込んでいるわけです。

▼イエスの挑戦

 イエスはこのような自己責任論や因果応報論に真っ向から挑戦したといえるでしょう。
 彼は自然界の現象や生き物を使ってたとえ話をするのも得意です。
 彼は、「悪人にも善人にも、同じように太陽の日は昇るわなあ。正しい者にも正しくない者にも、同じように雨が降るわなあ」と言いました。
 こういうことを言うと、一番腹を立てるのはおそらく先ほど紹介した祭司階級の人たちでしょうね。人の善悪や正しい、正しくないを裁いたり、贖ったりするのは祭司階級たちの本業ですから、「神はどちらにも同じように恵みを与えてくださる」などと言えば、彼らの仕事を頭から否定したことになります。
 真面目な一般庶民も納得がいかないでしょう。毎日汗水垂らしてきつい仕事をしている人間でも、適当に遊んでいるような人間でも、あるいは犯罪を犯してしまったような人でも、神様からの報いは一緒なんだよ、と言えば、アホらしくて真面目にやってられるかと言いたくなるのが本音ではないでしょうか。
 しかし実際、太陽が誰の上にも昇りますし、雨も誰の上にも降ります。自然の恵みは万人に対して平等ですから、確かにイエスの言った通りです。この話を直に聞いた人たちは、反論の余地もなかったのではないでしょうか。
 それだけに、努力は報われると信じている真面目な人ほど、イエスのものの言い方に腹を立てたはずです。

▼応報思想を破る

 イエスの言葉には、病気や障がいや貧困や孤立、差別などを受けていたりなど、あらゆる生きにくさを感じている人たち、また実際に人に対して罪を犯してしまった人も、「え?」と思ったかもしれません。
 人は苦しみを抱えている時、その苦しみの原因を見つけると安心するところがありますから、自分が苦しんでいるのは自分の罪のせいなんだという理由も、必ずしも納得せずとも他の理由が見つけられないために、それで泣き寝入りしている人が多かったのだろうと思います。
 そんな人々に対してもイエスは、「それはあなたの罪のせいではない」と宣言して回りました。「なんなら、私が罪の赦しを、今、宣言してやろうか? よし、あなたはもう赦された」。そうやって祭司の許可も得ず、罪の赦しを宣言して回ったイエスの姿に、苦しみを抱えていたはずの人たちもびっくりしたのではないでしょうか。
 他の聖書の箇所でも、イエスはこんなことを言っています。
 目の見えない人がいた時、イエスの敵が「こいつの目が見えないのは、本人が罪を犯したせいか、先祖が罪を犯したせいか」と訊きますが、イエスはその両方とも否定して、「この人の目が見えないのは、ここに神のわざが現れるためだ」と言いました。

▼神のわざが現れるため

 「神のわざ」とはなんでしょうか?
 イエスが言いたい「神のわざ」というのは、善人や正しい人を祝福し、悪人や正しくない人を罰する、そういうわざではないのは明らかです。
 彼においては、何か善いことや正しいことをしたから祝福されるとか、何か罪を犯したから罰されるということはないのです。人にそのような喜びや禍が起こるのは、全くの偶然であると。
 しかし、神は苦しみを抱えた人のことを放ってはおかない。誰に対しても同じように恵みを与えてくれるのが、神様だ。もし神がいるのならば、この世で省みられていない人にこそ神の愛が降ってくるのでなくては間違いだろう。
 そうだ、今この世で生きづらさを抱え、苦しみ悩んでいる人こそが神に愛されるのだ。それを私が実行してやろうじゃないか。神の愛のわざを私が証しよう。
 そうやって、イエスは病を癒し、罪からの解放を宣言し、因果応報を説く祭司たちと闘い、そして討ち死にしたのでした。

▼このような愛がある

 そんなイエスの遺志を今なお受け継いで、因果応報の世界観を打ち破り、病んでいる人、苦しんでいる人こそが愛される世界を作ってゆくのが、キリスト教会であるはずです。
 が、残念ながら、キリスト教会は、かつての祭司階級のように、真面目で勤勉で努力家で道徳的にも正しい生き方をする人を「神の証をする人」としてもてはやす傾向が強いのです。そして、善良にはなれない者、過ちを犯す者などを排除して、教会の清らかなイメージを守ろうとします。
 しかし、イエスはそのような善良ではない者、過ちを犯す者、そういう者こそがまず神に愛されなくてはならない。病や傷を抱えている者こそが愛されなくてはならない。それを生涯にわたって訴え続けています。
 教会や教会に忠実な僕たち、クリスチャンによって、傷つけられ、排除される人はたくさんいます。しかし、たとえ神の存在など信じられないと思っても、教会の牧師た信徒たちが後ろ指をさしたとしても、「それでもあなたは愛されている」という、そのような愛があるんだと明かししてくれた聖書の記者たちには本当に感謝したいと思います。
 神の愛、イエスの志は、教会を超えて、クリスチャンを超えて、伝えられてゆくものなのであります。
 祈りましょう。

▼祈り

 すべての命の源である、神様。
 今日、ここに周防教会のみなさんと一緒に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
 誰もが努力の結果でなく、罪の結果でもなく、あなたに愛されている大切な魂であることを、イエスを通じて私たちにお知らせくださったことに感謝いたします。
 願わくばあなたのこの全ての人への愛を、私たちが生活の中で実現させてゆけますように、どうか私たちを強め、導いてください。
 愛されない人ほど愛される。そのような愛を証しすることができますように。
 この祈りをイエス様の御名によって、お聞きください。
 アーメン。




Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール