イエスを孤独から救った人

2018年3月18日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 18分間


 ルカによる福音書23章39-43節 (新共同訳)
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。



▼イエスはメシアか

 キリスト教の教祖、と言っても、生前「キリスト教」という宗教を生み出そうとして活動していたわけではありませんが、キリスト教の大元になったのは、何と言ってもナザレのイエスという人そのものであります。
 その宗教の大元になった人が、犯罪者として処刑されたという経歴で生涯を閉じたというのは、世界の大宗教の中では非常に珍しいパターンであろうと思われます。
 私たち現代人の人権意識から考えると、このようなイエスへの死刑宣告と執行は明らかに冤罪であり、このような証拠不十分の裁判に対しては、抗議・反対しなければならないところです。
 事実、私たちの教団においても、部落解放センターを中心に粘り強く、石川一雄さんの冤罪事件についての再審請求が行われ続けていますが、これはイエス自身が冤罪によって死においこまれたということを重く受け止めて、二度とこのような冤罪事件を起こしてはならないという痛みから、石川さんを支援するということにつながっています。
 
▼さらに低みへ

 しかし、イエス自身はさらにその低みへと自分を落とし込んで行きます。彼は自分が冤罪であるということを訴えたり、無罪を主張したりしていません。その代わり、できるだけ沈黙を守り、自分の正体も動機もなるべく悟られないようにしながら、おとなしく刑を受けるに甘んじていったように感じます。
 彼が自分の正体を尋問されるとき、「お前は来るべき方、神の子なのか!?」と訊かれて、「私がそうだ」という答と「それはお前さんが言っておいでだ」という答の2種類が福音書には記録されています。
 実は裁判の様子を描いた福音書の記事は、すべてがフィクションだという説がありまして、私はその立場に立っています。と言いますのも、イエスの弟子集団のメンバーが、イエスの裁判を行なったユダヤの最高法院などの場に入り込めるはずがないからですね。目撃者、証言者になるべき人がいない、ということで、裁判の様子を知っている人がいるわけがないと。それで、裁判の場面は全部福音書記者か、福音書記者にこの伝承を伝えた教会の作品ではないかと思っているわけです。
 ですから、「私が(終わりの時に)来るべき神の子だ」とイエスが言っても、「それはお前が言ってることだ」とイエスが言っても、どちらも信憑性は薄いと思っています。これは福音書記者が「まさにイエスは神の子だ」と証したいか、「いや、それはイエス自身が思っていたことではない」という意見を持っていたか、その間で揺れているか、その姿勢が表れているだけだと思うのですね。

▼イエスの絶望

 イエス自身が、自分は「来るべき者」、「油注がれた者」すなわち「メシア」であると思っていたのかどうかは、リベラルな学者の間では否定的な見方が多いです。イエスは自分で自分をメシアだと思っていなかったのではないかと。
 私は、推測ですが、彼は「来るべき方は……」とか「人の子が雲に乗って来るとき……」という言葉遣いをしていたようなので、自分がそのメシアだとは、その活動の最初の頃は思ってはいなかったように感じます。
 しかし、イエスの最期のとき、十字架の上で、みんなにはっきりと聞こえる声で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったんですか!」と叫んで死にました。これはおそらくイエスが本当に十字架で人に聞こえる大声で叫んだ可能性が高い言葉です。
 その言葉から推測するに、イエスは、最期の段階では「自分はひょっとして最期の瞬間に神に助け出され、天に上げられるのではないか」と期待していた可能性があるんですね。そして、神が助けてくれるのを今か今かと待っていた。その土壇場のど最期になって、「ダメだ」と絶望した言葉が「わが神、わが神」。いつもの「お父ちゃん」という呼びかけではなく、「わが神!」という距離を感じた呼びかけ。そして、「どうして私を見捨てたんですか!」。
 ですから、イエスは「自分が救い主だ」と確信を持っていたわけではないけれども、「ひょっとしたら」という期待を抱いていた可能性はある。そして、最期はその期待も裏切られて絶望のうちに死んだということであります。

▼最低の死に方

 これほどまでに残酷な一生涯の終わり方があるだろうかと思いますね。
 よく西洋の古典的な絵画では、イエスの腰に布が巻いてあるものがほとんどですが、あれは絵の都合上、鑑賞の都合上そうなっているので、実際には、処刑される人は、女性ならば布が巻かれていたけれども、男性の場合は素っ裸に剥かれてしまったようです。全裸状態で、これ以上恥ずかしい格好はないという格好をさせられます。
 手足は木の杭に釘付けにされますが、手のひらが裂けてしまって体が転落してしまうので、実際には手首に釘を打ったんだとか、釘を打つだけでなく縄で手を杭に縛っていたんだとか、いろいろなことが言われておりますが、要するに、いろいろな十字架へのかけ方があったということらしいです。イエスの場合どうだったかは細かいところまではわかりません。
 とにかく、杭に釘で打たれて、両手を広げたまま吊り下げられておりますので、次第に出血多量で体力が無くなってくる上に、呼吸困難にも陥ってきます。痛みと体重を支えきれず体を位置をずらそうとしても、痛みのためにどうにもならない。さらに、ずっと厳しい直射日光にさらされておりますので、脱水症状にもなります。
 そうやって、恥の極致、苦しみの極限で、精神的にも肉体的にも追い詰められて、一瞬たりとも安らぐことなく生涯の最後の瞬間を迎える。
 こんな死に方だけは死にたくないなというような死に方です。

▼憶えておいてください

 ところが、イエスはひとりぼっちで死んだわけではなかったと聖書に書いてありますね。彼の両側には別の犯罪者の男たちが十字架につけられていました。つまり、イエスは完全なる孤独のうちに死んだのではなかったというわけです。恥と苦痛の極限の中で、それだけがイエスの慰めになったかもしれません。
 1人の受刑者は、群衆と同じような言葉でイエスを罵りましたが、もう1人の受刑者は、イエスが冤罪で処刑されているということを知っていて、イエスを罵った方の犯罪者を叱りつけます。
 そして、彼はイエスに言うのですね。
 「イエスよ、御国においでになるときには、私を思い出してください」。
 自分が救われるとか、復活するのではないかという期待は、ここには微塵もありません。ただ、イエスがメシアであることを信じて、「私を思い出してください」「私を憶えておいてください」とお願いしたのですね。自分の一生はこれで終わってしまい、自分は消えてしまうけれども、「私のことを忘れないで、記憶にとどめて、思い出してください」とイエスに願った。それくらいは望んでもいいじゃないかという一縷の望みですよね。
 するとイエスは、「私が雲に乗ってくるときには……」とは答えないのですね。やはりイエスはもう自分が神に救われてメシアとして天に昇って……などというような希望は持っていなかったのかもしれません。
 彼は「今なんだ」と言います。恥と苦しみの極限です。
 「今、この苦痛の極限で、私とあなたは一緒に楽園にいるんだ」と彼は言いました。
 これを聞いた犯罪人は、そして彼らの処刑を見守っていた人たちは、何を思ったでしょうか。わけがわからなかったのではないでしょうか。

▼パラドックス

 私は、ここしばらく宗教における「逆説(パラドックス)」というものをよく考えます。考えるといっても、明快な答えが出て、悟りを開くというわけでは全くないのですが、キリスト教信仰には、時折、不思議なパラドックスが出てくるのです。これが信仰の最大の謎です。
 例えば、今日のこの場面のように、「恥と苦痛の極限にある状態」が「楽園にいる状態」になるのです。
 また、ローマ帝国の処刑法の中で最も残虐なものによる死刑、「全面的敗北の状態」それが「神さまの逆転大勝利、栄光に満ちた瞬間」になります。
 そして、「全くの弱さの中にある」人間に対して、神さまは「私の力は弱さの中にこそ現れるのである」ということも聖書には書かれていますし、宗教改革者たちも「私たちは自由だからこそ、自由に奴隷になれるのであり、本当の奴隷でありつつ本当の自由人なのだ」と言っているのですね。
 この、「敗北こそが勝利」、「恥こそが栄光」、「弱さこそ強さ」、「奴隷こそ自由人」、「貧しい者こそ幸い」、そして「苦しみの極限にあることが楽園にいることになる」という、そして「死こそが永遠の命への扉である」と。
 これがキリスト教信仰の最大のミステリーであるとともに、おそらくキリスト教信仰の最も重要な部分だと思われます。多分このパラドックスに到達することが、キリスト教の最高目標ではないかと、今は思っています。
 イエスは、将来も自分を思い出してくださいと言った受刑者に、「今、ここで私とあなたは楽園にいる」と声をかけたということは、この境地に至っていたのですね。

▼共にいる

 また同時に、「楽園にいる」ということだけでなく、「共にいる」ということも大事なポイントです。
 イエスは、私たちの味わうかもしれない最大の恥と最大の苦痛を味わってくれた。それも隣にいる2人の人と共に味わったということを再認識したいと思います。
 イエスは最悪の死に方をする人と一緒に死んでくれた人です。
 イエスなら、人間として味わう可能性のある苦しみをとことん知っている方です。
 イエスが今私たちと共にいると信じることは、「イエスなら私の苦しみをわかってくださる」ということを信じることです。イエスの知らないような苦しみはないはずだから、イエスなら私の苦しみをわかってくれるはずだと。だから私たちは独りぽっちにされないのであります。
 そして私たちは、私たち自身お互いも、独りぽっちにしないように、共に楽園に参りましょうと言って、励まし合いながら、それぞれのこの世での最後の日まで共に生きて参りたいと思うのであります。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。





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