その先を行くイエス

2018年4月1日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 イースター礼拝 説き明かし

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 20分間


 マルコによる福音書16章1-8節 (新共同訳)
  安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、秋の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
 若者は言った。「驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。



▼本来のイースター

 みなさん、イースターおめでとうございます。イエスの復活をお祝いする日がやってきました。それは同時に春という芽生えの季節を改めて覚えて、命というものを与えてくださった神様に感謝し、また私たち自身の命をお互いに祝福し合う日でもあります。
 しかし、日本の商業界の中に次第に浸透してきたイースター・フェア、イースター・セールといったものには、イエスの受難と復活の意義がすっぽり抜けており、単なるタマゴ・セールと化している感があります。
 ただ、私は最近、タマゴの生産農場で、どんなにニワトリに対する虐待がなされているかという記事を読みまして、同じ神様に作られたはずの命が、ニワトリにおいては昨日も今日も明日も受難を味わわされているということの理不尽に、人間の罪を自覚することがあります。
 そして、人間というものは、自らの利益、欲望を満たすためには、他の存在に対して、どんな暴力でも自分に許す面があることを心苦しく思うのであります。
 それでも私たちは生きて行くためには食べなくてはなりません。タマゴやニワトリに限らず、あらゆる生き物たちから私たちは命を奪い取っていますから、私たちは自分たちが生きるためには、たくさんの命を殺さざるを得ないのだ、生きるということは罪深いことだ自覚し、痛みと敬意をもって感謝するべきではないかと思います。
 昔のイエスの弟子だった人たちも、イエスの受難と復活を、十字架と聖餐で象徴することを選び取ったのも、この「食べる」ということの背後に隠された罪性への連想が(それが意識的なものであったかどうかはわかりませんが)あったのではないかと思います。
 生け贄にされて屠られたイエスの身体を、私たちがいただくことによって、私たちの体内においてイエスが再び立ち上がる、すなわち復活するのだという発想がここにあったのだと考えます。
 ですから、本来のイースターというのは、苦しみを受けることによって、人に命を与えるということの、深い意義を感じようとすることによってしか味わうことはできない、ということを教会としてははっきりさせておかなくてはいけないでしょう。

▼復活を根拠にして信仰するな

 さて、今日お読みしました聖書の箇所は、マルコによる福音書の元来の結びの部分で、それ以降の部分は後の付け加えであるというのが定説になっているということは、ここでも何度もお話ししてきました。
 つまり、最初に書かれた福音書には、蘇ったイエスは描かれていない。描かれているのはお墓が空っぽであったということ。白い衣を着た人がいて、「イエスにはガリラヤで会える」と言ったこと。そして、それを見聞きした女性たちが恐怖にかられて逃げていったこと。それだけです。
 ここでは、まずマルコはイエスが肉体をもって蘇生したわけではないのだと言っていることがわかります。肉体が蘇生するということをマルコは信じていないのです。もっと言うなら、そういうことに寄りかかって自分の信仰を組み立てることを支持していません。
 マルコはだいたいイエスが奇跡を起こしたあと、「このことは誰にもいうな」と教える姿を描いていますが、これも「奇跡を理由にして信仰すること」への批判であり、この批判は今日読んだイエスの墓の場面でも貫かれていて、「肉体の蘇生を理由にして信仰するな」というメッセージをマルコは発しているのだと考えられます。

▼ガリラヤに行けば

 それでは、イエスの復活の意義というのはどこにあるのでしょうか。
 それは、空っぽの墓にいた白い衣を着た人による、「イエスは復活して、ここにはもういない。ガリラヤに行けばふたたびイエスに会える」という言葉に集約されています。
 もう肉体をもって話し、行動したイエスに会うことはできません。そのような生前のイエスに依存することはできないのです。しかし、ガリラヤに行けば、イエスに会える。
 ガリラヤはイエスが活動を始めた土地です。
 ユダヤのような都会から見下され、日々の暮らしを貧しく過ごしていたガリラヤの人たちの間で、イエスは神様の赦しと愛を説き、病気の人に癒しを与え、食べるに困る人と食事をしようと努力しました。
 イエスの活動はユダヤの地、特にエルサレムでは、ファリサイ派や律法学者たちとの論争のほうがメインのようですが、エルサレムに出かけて行く前は、もっぱら人助けと神の愛の証に集中していたように感じられます。
 そのガリラヤでこそイエスの原点があるのだ、その原点に帰りなさいというメッセージを、墓の前の白い服の男が指し示しているのではないでしょうか。
 そして、それは、イスラエルにあるガリラヤ地方に旅行して、実際に足を運んでみなさいという意味ではなく……といっても、実際にガリラヤに足を運んでみても得られることは大変多く、素晴らしいのですけれども……そうでなくても、皆それぞれの「自分のガリラヤ」「私のガリラヤ」に行きなさい、そしてそこでイエスと出会いなさい、ということを指し示しているのであろうと思われるわけです。

▼私のガリラヤ

 では、「私のガリラヤ」とはどこなのでしょうか。
 それはどこなのか、というのは、きっと人によって違うのでしょう。
 私たちの教会の指針として、「愛される喜びを伝えたい」という言葉がありますが、私はまさにこの言葉どおりに私たちが実行できる場所が、「私たちそれぞれのガリラヤ」ではないかと思います。
実態としては、とても自分が愛された存在だと感じることができている人なんて、この世にはそんなにたくさんいないわけです。どちらかというと「なんで私の人生こんなことになっちゃってるんだろう」と嘆きつつ生きている人が多い。
 その人に「そうではない。あなたは愛されているんだ」と伝えること。といっても、「あなたは愛されているんだよ」と口だけで説得しても仕方がない。むしろ、相手の人を「神に愛された人」として取り扱うことではないか。相手の人を「神に愛された、神に作られた大切な魂」として対応することが大切なのではないかと思うのです。

▼イエスを殺した罪

 そのためには、まず自分が愛されているということを信じないといけません。これも、「自分は愛されている、愛されている」と無理に自己暗示をすればいいというものではありません。
 そうではなく、まず自分のためにイエスは死んだということを自覚しましょう。
 イエスは、私たちに宿っている罪と同じ罪を宿した2000年前の群衆によって殺されました。2000年前、人々はイエスが自分たちの世界を救ってくれることを期待して持ち上げ、祭り上げ、やがて自分たちの期待をかなえてくれないと知ると、今度は嘲り、憎しみをぶつけ、処刑にすることを支持しました。
 これは、2000年前の他人の罪ではなく、今の私たちが相変わらず抱いている罪的な体質です。自分にできることをやろうという意志ではなく、カリスマや権威に依存して利用しようとしたり、物事がうまくいかないと責任をなすりつけるという無責任な体質です。
 つまり、イエスを死に追いやった罪は、私たちの罪と同じものです。もしイエスが今の世の中に現れたら、私たちはおそらくイエスを死に追いやろうとするのではないでしょうか。
 ですから、イエスを殺したのは、私自身も持っている罪の性質なんだと自覚することは必要ではないかと私は思います。

▼スケープゴートを食する

 それと同時に、私たちは、2000年前のイエスの命が、今の私たちをも生かすということも知っておきたいと思います。
 初期のキリスト教徒たちは、イエスの死は自分たちの罪に対する罰を自分たちの代わりに受けてくださったことを意味する。すなわちイエスは罪の贖いのための生け贄だったんだと解釈しました。
 その解釈が正しいかどうかには議論が残ります。イエスがそんなつもりで十字架についたかどうかは、聖書学的には最終的にはわからないとしか言いようがないからです。イエスが「私は生け贄になるのだ」と思っていたかどうか、わかりません。
 しかし、弟子たちが「私たち人間はイエスをスケープゴートにしてしまったんだ」という自覚は的を得ていると言えるでしょう。イエスがどういう思いを持っていたかに関係なく、人々がイエスを生け贄の山羊や小羊のように殺してしまったことは間違いありません。
 だから、彼らは生け贄の小羊の肉を食べるという、ユダヤの習慣を応用して、イエスを食べる儀式、すなわち聖餐を考え出したのでしょうね。
 そういうわけで、聖餐というのは感謝をもってイエスの体を食べ、イエスの血を飲むことで、神の前に罪を悔い改めるということ。また、自分の中にイエスを受け入れることによって、イエスの命によって今の自分も活かされるということを表します。そして、私の中に今も生きているイエスの命が、イエスが復活しているという状態であり、証明なのだということなのですね。
 だから、古代の礼拝は聖餐式が中心であり、毎週聖餐式を行なっていました。

▼救いは「現場」で起こっている

 さて、こうして私自身がまずイエスの命に活かされた者として、聖餐によってイエスの命をいただいたことを忘れないで、それぞれの生活の現場に戻って行きます。
 「現場」。それは、私たちが人への愛を試される場所でしょう。
 それは職場なのか、家庭なのか、路上なのか、病院のベッドの上なのか、それはどこであっても、私たちの現場であり、私たちのガリラヤであります。
 そして、白い衣の人が言うには、「もうイエスは先にガリラヤに行っている。そこに行きなさい」ということなのですね。
 「もうイエスは先に現場に行って、活動を再開しているぞ。さあ、グズグズしないで、あなたもイエスのあとを追いかけて、イエスのわざを続けなさい!」と言われているのであります。
 私たちは私たちのそれぞれのガリラヤで、イエスが愛したように、自分も人を愛せるだろうか。皆、神様に愛された人として、他の人を大切に扱うことができるだろうか。働くことができているだろうか。祈ることができているだろうか。
 もし、それができていなくても、トライする私たちをきっと神様は赦してくださるでしょう。
 しかし私たちは、イエスが今も生きて私の中に住んでいるのだということを自分のエネルギーとして、生きていきたい。それももちろん神様に喜ばれることだと思うのです。
 イエスはここにはおられず、もう先に行って、愛のわざを行なっておられます。
 私たちは小さくても自分にできることを、ささやかながらでもコツコツと、失敗を恐れず実行することで、私たち自身がイエスの復活の証人となります。
 そして、イエスが先を行かれる、その後に従って生きたいと願う者であります。





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