心は燃えているか?

2018年4月15日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 家庭礼拝 説き明かし

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 20分間


 ルカによる福音書24章28-35節 (新共同訳)
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心をは燃えていたではないか」と語り合った。そして時を移さずして出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。



▼ルカの復活物語

 おはようございます。今日はこうして家庭集会という形で主日の礼拝が実現しましたことを、心から喜んでいます。ご家庭を開放して教会の仲間を迎え入れてくださったことを感謝いたします。
 さて、本日の聖書の箇所は、イースターの日に起こったと伝えられている物語で、「エマオ途上でのイエスと弟子たち」として良く知られ、幾つもの絵画にも描かれています。
 最初の福音書であるマルコには、肉体で蘇ったイエスは一瞬も出てきませんが、今日お読みしたルカによる福音書(マルコよりおよそ20年から30年後に改訂された福音書)でも、お墓のところではやはり肉体のイエスは現れません。
 しかし、お墓以外の場所で、まるで亡霊のような現れ方で弟子たちに存在を示す場面が描かれています。1つは今日お読みしたエマオへの道中で弟子たちに現れた話。もう1つは、その後に記されている、エルサレムで隠れていた、ユダを除く11人の弟子たちに姿を表すという話です。
 復活物語というのは、福音書が新しく出るたびにだんだんと発展してゆくもので、マルコではイエスは現れない、マタイではイエスはガリラヤで現れる、ルカではエマオとエルサレムで現れる(だんだん、早く、近くで現れるようになってゆきます)。そして一番後に書かれたヨハネでは、お墓の前にイエスはいましたという具合に、話がどんどんリアルになるように、発展させられているのですね。
 ルカは、そのような福音書の復活物語の中では、発展段階としては中間的な位置づけになる作品です。
 そして、今回のエマオへ行く道の途中でイエスと出会った2人の弟子の話は、ルカによる福音書だけにしか収められていない物語です。

▼暗い顔をした2人の弟子

 エマオというのは、エルサレムから11キロほど西に行ったところにあったとされている村ですが、現在、どこにそれがあったかというか、遺跡で確認できているわけではありません。
 とにかく、エルサレムよりダイレクトに西に向かって旅を始めた2人の弟子がいたということで、そっち方面に進んでいくと地中海に面した港がありますから、船で異国に行こうとしていた2人の弟子がいたのだということなのかもしれません。
 この弟子たちは、12人の弟子グループとは別の弟子です。1人の名前をクレオパという。もう1人の名前はわかりません。クレオパという弟子が率いていたグループで言い伝えられていた伝説を、ルカが取り入れてこんな風に自分の福音書に書き加えたのかもしれません。
 この2人は、イエスが亡くなってから3日目に、女性の弟子たちが空の墓を発見して、それを聞いた男性の弟子の何人かが確認しに行ったということを聞いた後にエルサレムを出発している、ということで、エルサレムを急いで脱出したというわけでもなさそうだし、この2人の目的はよくわかりません。
 わからないことだらけで申し訳ありません。
 とにかく、この2人の弟子は暗い顔をして歩いていたのですね。自分たちが慕っていた先生が、何の罪もないはずなのに、いきなり逮捕されて、あっという間に十字架で処刑されてしまった。しかもその遺体も行方不明になったままであると、そのような状況で「イエスは生きておられる」と聞いたけれども、そんなことは信じられない……そう言って暗い顔をしていたわけです。

▼その先を行くイエス

 こうして改めてこのあたりの箇所を読んでみると、このクレオパの物語は、注意深く「イエスの肉体のよみがえり」という考えを避けているように感じますね。「遺体は見つからない」、「墓が空っぽであることは確認済みだ」、「イエスは生きておられる、と言われても信じられない」という弟子たちがいたということが強調されています。
 しかも、イエス自身がこの2人に近づいてきて、一緒に歩くようになったのに、イエスだということがわからない。普通だったら、一緒に歩いていて会話もしているのだから、直接顔を知っている相手なら誰かわかるはずですよね。しかし、そうじゃない。
 ということは、この弟子たちはイエスを見たことがなかったのか? それもありそうもない。イエスが面と向かって彼らに、聖書が自分のことを証ししているのだということを、言って聞かせているのに、まだ話している本人がイエスだということがわからない。
 やはりこの物語は不思議です。謎が多すぎる。やはり事実の記録というよりは、何か別のメッセージが隠されていると考えたほうが良いと思われます。
 2人はエマオに到着して宿に泊まろうとしますが、「イエスはなおも先へ行こうとされる様子であった」と書いてあります。
 この「先へ行こうとするイエス」という描かれ方は、マルコやマタイにも記されている、「イエスはあなたがたより先に行かれる」という言葉と似ています。イエスは、私たちと共に歩んでくださる方であると同時に、さらに私たちよりも先を行かれる方なんだということが、象徴的に語られています。

▼聖餐の席で初めてわかる

 さて、宿に入って、夕食の席に着いた時、さあ食べようとすると、「イエスはパンを取り、祈りを唱え、そのパンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(24章30-31節)と書かれています。
 もう皆さんお察しだと思いますが、これは「主の晩餐」の再現、すなわち聖餐式のことを表しています。
 イエスが共にいるということが、全然わからなかったのに、一緒に聖餐の場に与ったことで、初めてそこにイエスがいるということが分かった。しかし、イエスの姿は見えなくなった。
 イエスが目に見える存在として私たちと共にいるわけではない。しかし、聖餐の場に与る時、イエスも共におられるのだよ、ということをわかりやすく示した物語ですね。
 ここで、私たちが礼拝に参加している人は、誰でも自由に聖餐を受けることができるとしている教会であることとの関連でいえば、大変重要なのは、ここでルカが、あるいはクレオパ派(?)の教会が、イエスに関する話をいくら聞いても、イエスの存在を感じることができなかった人が、パン裂きの儀式に参加した時に感じることができたということを描いているということですね。
 つまり、信じるようになってから聖餐に与ることができるのではなく、聖餐によって気付かされ、信じる気持ちに目覚める場合もあるということを否定していないということです。

▼心は燃えていたではないか

 イエスが今も共に生きているということを、心で悟ったクレオパともう1人の弟子は、思い返せば、道で話している時、聖書の話をしている時、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。
 イエスは死んでもういないと諦めて、暗い顔をしてとぼとぼと歩いていたクレオパたちは、当初は、イエスが死んでしまえばもう人も社会も変わらない、希望は失われた、と思っていました。
 しかし今や、実はイエスの話したこと、生き様、そして死に様が旧約聖書に書かれてきたことの実現なんだということを説き明かされて、「実はすべてのことに意味があったんだ!」と気付かされたんですね。
 その心からの喜びを、彼らは「心が燃える」体験として感じたのだよということです。
 この「心が燃える」体験が、「信じる」という気持ちの根っこになるものです。
 だから、信仰というのは、あんまり理屈として難しいものではないと思います。イエスが人を愛するその愛し方、イエスが人のために命を削るその尽くし方に、感動したり、納得したりすること、つまり「心が燃える」思いが基本にあって、そこから、もっとイエスについて知りたいと願うことが信仰の始まりと言えるでしょう。
 そして、その「心を燃やし続ける」燃料を補給することが、教会の礼拝であり、聖餐であり、愛餐であり、交わりでありましょう。

▼体は弱くても

 ところで、「心は燃えているが、体は弱い」という言葉があります。イエスが逮捕される直前、ゲツセマネの園で、自分のために祈って欲しかった弟子たちが眠り込んでしまっているのを、3回も注意した時の話です。そこで、自分を戒めるための言葉である、と厳しく捉えていらっしゃる方もおられます。
 けれども、たしかにイエスはそう言ったと伝えられておりますが、それはどうしても人間眠い時には寝てしまうし、病気の時には休みたいし、仕方がないことは仕方がないと私は思うんですね。この言葉によって自分を裁く必要は全くありません。
 ここにはお医者様もいらっしゃるので、あまり知ったようなことも言うのも何ですが、人間には大きく分けて、交感神経優先型と副交感神経優先型の2つのタイプがあるそうなんですね。
 それで、交感神経型の人は、大きなストレスがかかると目が冴えてくる。だから眠れないんですね。それに対して副交感神経型の人は、大きなストレスがかかると眠たくなるんですね。
 なんでこんなことを話しているのかというと、僕は阪神淡路大震災の時に、震災後離婚した人が大変多かったと聞いたんです。その時になんでかと聞くと、震災が起こった直後、ヘナヘナと腰が抜けたように何もできなかった。あるいは、そのような一大事の中で、眠気を催して寝てしまった。「なんて頼り甲斐のない」と思われて、「もうこんな人と一緒にやっていけんわ!」と、別れられるということがあったらしい。
 そうやって、あの大災害の中で眠くなってしまった人が意外と多かった、その人は実は副交感神経型の人だったらしいという話があるんですね。
 それを考えると、眠ってしまった弟子たちは副交感神経型の人たちだったのかなと。
 もしそうだったら、「なぜ眠っているのか。心は燃えていても、体は弱い。誘惑に陥らず、祈りなさい」と言うイエスも、教師としてはちょっと配慮に欠けるのかなあと思ったりもします。まあ、2000年前の古代人が交感神経だ副交感神経だというような知識がなくても仕方はありませんけどね。
 まあ、話が遠回りになりましたが、要するに「心が燃えていても、体が弱い」と言われても、別に気にすることはありませんよということなんです。
 そしてむしろ私たちは、今日の聖書の箇所で、改めて「体は弱いかもしれないが、心は燃えているではないか」と宣言することを教えられるのではないかと思います。
 疲れているかもしれない。病気を抱えているかもしれない。しかし、イエスに出会って心が燃えた、それが必要であり、それで十分なのではないかと思うのです。みなさんはいかがお感じになりますか?
 私自身は、イエスを知り、イエスと共に歩み、さらにイエスが自分よりも先を行かれる生き様、死に様について行ければと。まだまだどこまで達したかも言えない者ですが、この道を行きたいと思います。
 説き明かしは以上とさせていただきます。





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