労働することと仕事すること

2018年4月29日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 家庭礼拝 説き明かし

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 25分間


 コリントの信徒への手紙(一)9章3-18節 (新共同訳)
 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。
 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。
 耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。
 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。
 しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。
 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分のその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。
 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。



▼ギリシア人の労働観

 本日お読みしましたのは、パウロが自分の働きと収入について、コリントの教会の人々に対して、熱く語っているところです。
 なぜこの箇所を取り上げたのかというと、今日は日本キリスト教団の暦では労働聖日ということになっているからなんですね。まあ、これはメーデーが近いからで、そういうことになったらしいんですけども。
 そして、働くことという話題になると私が思い出すのが、少し前に聞いた、ギリシア人の労働に関する考え方ですね。これが実はとても聖書的である、ということで非常に羨ましく思っているからなんですね。
 なんでも、平均的なギリシア人は夜の10時半には寝てしまって、朝の6時に起きてくるらしいんですね。大変健康的ですね。そして、だいたい1時間半ほどかけて朝の支度をする。7時半から仕事を始めて、午後1時半頃に店じまい。それから2時間かけてゆったりとお昼を食べ、3時半頃から夕方まで昼寝をして、6時から9時頃まで余暇を楽しみ、好きなことをして、9時頃から1時間かけて夕食、そしてまた10時半頃寝る、というサイクルだということなんですね。
 それで経済が回るのかとちょっと疑問に思う面もあるんですが、しかし、これは欧米人の子供の過ごし方と似ていると感じました。

▼ドイツ人の労働観

 つい最近、ドイツ出身の英語の講師が、日本の学校を辞めて、というか辞めさせられてドイツに帰るというので、送別会を催しました。知り合いの知り合いというつてで、たまたま顔を合わせたのがその人との付き合いの始まりなんですが、日本の教育現場は忙しすぎるという話題で大いに盛り上がって、仲良くなった人です。その人の勤めている私立学校が、英語の授業の大半をAI(人工知能ですね)のロボットに置き換えて、人間の講師をクビにするということを始めたものですから、仕事を失い、この4月にドイツに帰ったんですね。
 その人にドイツと日本の学校の比較を聞いてみました。すると、ドイツの教師や子どもと比べると、日本の教師も子どももクレイジーだ、これじゃあまるで奴隷だ、と散々な言いようでした。まあ散々コキ使われた上に、機械に仕事を任せるから君はクビだと言われて、相当腹が立っているというのもあったかもしれませんが、それにしても、ずいぶんな言われようでした。
 日本の学校、例えば中学、高校はといえば、部活の朝練が7時頃からあって、8時から9時までの間に授業が始まって、午後の3時か4時くらいまで授業があって、その後また部活で、それが6時か7時。家に帰ると8時か8時半。それから風呂に入って、ご飯を食べて宿題をやって、ゲームをやったり、テレビやYouTubeなどを見ている間に、あっという間に1時、2時……。私がよく耳にする子どもたちの生活はというと、そんな多くがそんな感じです。
 それで、少なくともその日じゅうには寝なさいと諭すわけですが、諭している本人がその日じゅうに寝ていないというのが現実です。
 それに比較して、ドイツの学校は朝7時半に始まるというんですね。これは私が見たことのあるアメリカの東部の方の学校もそうでした。朝が早いんですね。そして、昼過ぎには授業が終わってしまう。
 私は「じゃあドイツの子供たちは昼から何をやっているんだ?」と聞きますと、大笑いで「遊んでるよ!」と言われました。子供は十分に遊ばないと頭が良くならないよ、と。「じゃあ、先生は何をやってるんだ?」と聞くと、「授業の準備をして、夕方には帰るよ」と。「定時になったら、さっさと帰って自分の時間や家族の時間を過ごすんだよ。休まないと働けないだろ。当たり前だよ」と。
 「そりゃそうだなあ」と言って、普段から残業、休日出勤も当たり前。もともと労働というものがあまり好きではない私は、大いに共感しました。日本を脱出したいな。でもそんな勇気はないな。と思っていたら、ドイツ人の友人は「日本なんかさっさと脱出しろ」と笑っていました。

▼労働と仕事

 労働すること(labor)と仕事をすること(work)とは違うという話
 ギリシアの都市国家(ポリス)では、労働は奴隷のすることで、仕事は職人や彫刻家、陶芸家のような、本当に自分のやりたいことをやる人のやることを指しているらしいのですね。
 この定義によれば、今は一応は奴隷制はありませんけれど、労働というのは生活費を稼ぐために最低限やらなければいけないことで、仕事というのは、本当にやりがいがあって、自分自身の自己実現や充実のためにやっていることということになります。
 そして、理想を言えば、この労働と仕事が一致している人。自分のやりがいのあること、生きがいがそのまま自分の収入になっている人が幸せなんだろうと思われるわけです。
 こういう考え方の根底にあるのは、やはり旧約聖書の創世記の天地創造物語で、アダムとエバが神との約束を破ったために、罰を与えられたんだということがあるようですね。
 つまり基本的に労働というのは、神がアダムにあたえられた罰なんだと。本来人間がするものではないという発想ですね。だからできる限り避けることができれば避けたい、と。いうわけです。

▼パウロの労働観

 そして、本日の聖書の言葉に戻ってくるわけですが、パウロもそういう発想を心のそこに秘めていたように感じられます。
 例えば、今日お読みしたコリントの信徒への手紙(一)の9章の4節から6節なんですが、こう書いてありますね。
 「わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか」(1コリント9.4-6)
 パウロは、自分は本来は自分で働く必要はなく、そんなことをしなくても飲み食いする権利があるのだと主張しているんですね。これはローマの市民権を持っていて、「自分は奴隷ではなく自由人である」という誇りを持っているパウロとしては当然だというところなんでしょう。
 私たちがよく「食べてゆくために働く権利」を主張しますけれども、そんなものはパウロにとっては奴隷根性でしかないのであって、彼にとっては「働かなくても食べる権利」が自分にあって当然だという思いなんですね。
 さらに読み進めて行きますと、7節では「そもそも、いったい誰が自費で戦争に行きますか」。彼は自分の伝道のわざを戦争にたとえています。伝道の戦いに出るものの費用は教会が負担するべきだと主張しているんでしょう。
 しかし、その続きを読んでみると、どうもこの人の教会に対する考え方はどうなんだろうなと思えたりもするんですね。

▼労働と分け前

 「ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか」(7節後半)。
 つまり、教会を成長させたら、その分け前にあずかれるのは当然だろうと言っているわけですね。10節の後半には「分け前にあずかることを期待して働くのは当然です」と、パウロ自身言っていますが、ものは言いようと言いますか。
 私たちは、確かに伝道者がその働きに対して、然るべき謝儀が支払われるということは当然だろうと思いますが、それを「俺が育てたんだから、分け前をよこせ」という言葉遣いをもって表現されると、どうなのかなあと感じますね。
 また、教会の中には、牧師の衣食住を全て支えることができる教会とそうでない小さい教会があるわけです。
 しかし、パウロは自分が伝道者として専任で食べてゆくのは当然。つまり、先ほどのギリシア人の労働観でいえば、伝道という「仕事」に専念したいのであって、テント作りという「労働」なんかしたくないんだということになります。

▼パウロの仕事観

 ところが、そうは言っておいて、パウロは今度は、自分の主張を翻すように、12節の後半で「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリスト教の福音を少しでも妨げてはならないと、耐え忍んでいます」と述べます。
 さらには「報酬なんか要らないんだ。なぜなら、この宣教という仕事は、自分としてはやらない方が不幸なんだ。やらずにはおれないんだ」と言い切るのですね。
そして、「かえって無報酬でやることが自分の誇りなんだ」とまで言います。
 こういうわけで、パウロの手紙の記事は、一方で「伝道者はそれに専念し、教会から供え物の分け前にあずかる権利がある」と述べ、もう一方で「私はその権利を決して使わない。無報酬で働くことが私の報酬だ」と言って、報酬をもらうことを否定するのですね。
 何が言いたいの。じゃあ実際わたしたちの教会はどうすればいいの。ということになります。
 パウロが権利として主張していることを本意であると受け取ると、教会はやはり専任の伝道者の生活を支えなくてはいけないのではないかということになるでしょう。
 しかし、パウロが無報酬で働くことを誇りにしているという点が大事なのだと受け取ると、だから牧師は教会から何の報酬もあてにしないで無報酬で奉仕するべきだということになるでしょう。
 こういう考え方を美化する傾向があるために、地方の小さな教会の牧師が経済的困窮に行き詰まるということも少なくありません。

▼どちらも喜び

 私はパウロが、さきほどから申し上げていた「労働」と「仕事」というような暫定的な区別をしておいてから、話をしていたら、もっと整理がついていたのかなと思います。そして、報酬をもらう働きも喜ばしいし、無報酬で働くのも喜ばしいという、前向きな観点を持てば、なおわかりやすかったのかなと思います。
 今日のパウロの前半の言葉のように、私たちは働いたことの評価を報酬という形でいただくのは、とても嬉しいことです。細かい金額はともかく、自分の働きを形あるもので評価されることで、やっと自己実現が達成できるという面がある。パウロも実際、それは当然の権利だと言うわけですね。
 そしてまた、パウロの後半の言葉のように、私たちには物理的な報酬なんか関係なしに奉仕したいという気持ちもある。お金のための労働より、お金をもらわない方がかえって身が入る、力が入るという人が実際いらっしゃいます。純粋に奉仕することが嬉しいんですね。「そうせずにはおれないから」というパウロの言葉どうりです。
 だから、物は言い様で、私にとっては報酬を得られるのは大変ハッピーで嬉しい、感謝すべきことです。でも、報酬が得られなくても、やらずにはおれない仕事でもあるんですよ。くらいの言い方なら、もう少し同じことでも伝わりやすかったのかな、と思います。
 まあしかし、そこはこの高飛車なパウロさんの性格、人間性もありますから、そういう口の利き方は無理だったのかもしれません。
 人間にとって、他者から自分を評価していただくこと、自分で自分を評価できること、これらはどちらもとても重要なことです。願わくば、どんな働きであっても、両方が融合した人生の過ごし方ができれば、ハッピーではないかな、と感じます。
 みなさんはいかがお感じになりますでしょうか。





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