人生に練達し、魂を成熟させよう

2018年5月20日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 ペンテコステ礼拝 説き明かし

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 14分間


 ローマの信徒への手紙5章3−4節 (新共同訳)
 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。
 私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。



▼「マスタリー」

 おはようございます。
 新しい年度を迎えて、1ヶ月半余りが経ちました。
 私たちは今日、この礼拝後に2018年度の総会を開き、これまでの1年を振り返り、新しい1年の計画を確認して、改めてスタートする時を持とうとしています。
 その総会の場で、私は2018年度の教会指針を提案させていただくことになっていて、そこで「人生に練達し、魂を成長させよう」という言葉を提案しようとしています。
 「練達」という言葉は、私たちの普段の生活の中ではあまり使うことはないようですが、今日お読みしました聖書の言葉の中に、「忍耐は練達を」という言葉があり、これは以前の口語訳の時代から長く使われていた言葉であると思いますので、ぜひ覚えておいていただければ嬉しいなと思います。
 この「練達」という言葉を、私や元牧師の笠置くんなど、関西学院(くゎんせいがくいん、と読みます)で中学高校を過ごした人間は、かなり強固に叩き込まれているんですね。というのは、関西学院のスクールモットーが「奉仕のための練達」というものだったからです。
 元は英語で「Mastery for Service」というんですが、これの翻訳が「奉仕のための練達」という言葉に確定していました。この場合「マスタリー」が「練達」に当たるんですけれども、要はマスターするということなので、訓練によって熟達するということですね。辞書には、「熟練して深く通じていること」とも書いてあります。
 つまり、関西学院のモットーには「あなたが今懸命に勉強し鍛錬することは、すべて他者に奉仕するためのものなのですよ」というメッセージが込められているんですね。
 それで、「練達」というのは「マスタリー」、すなわちマスターすることである、と関学卒業生としては思い込んでいたのですね。

▼「ほんもの」

 この度、この聖書の言葉を読むにあたって、改めて私はこの「練達」という言葉はもともとなんというギリシア語なのか調べてみました。「練達」と訳されている言葉は、ギリシア語では「ドキメー」という単語です。
 この「ドキメー」という単語は、まず第一に「本物であることの証明」という意味があります。あるいは試験済みであると。「信仰や人物・人格が確かであることを確かめられている」という意味になります。試練を経た確かな人になるということを「ドキメー」という一つの言葉で表しているのですね。
 この人は「ほんもの」ですよ、というときの、あの「ほんもの」。それが「ドキメー」です。
 ついでに「苦難」、「忍耐」、「希望」という言葉も、一緒に調べてみました。
 「苦難」はギリシア語で「トリプスィス」、これは「苦難」とか「患難」、「圧迫」という意味。
 「忍耐」は「ヒュポモネー」で「忍耐」とか「辛抱」。
 「希望」は「エルピス」で、まあそのまま「希望」です。
 ですから、どうもこの「練達」という言葉「ドキメー」というのは、一番翻訳しにくい複雑な意味がこもっているんだなと理解することができます。実際、この言葉が英語でどう訳されているのかをチェックしてみても、かなりいろんな訳し方がされていて、混乱している様子が見て取れます。
 先ほど、調べた意味に従って、この「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉を、できるだけわかりやすく解釈してみると、例えばこんな風になるでしょう。
 「苦しみは忍耐を生み出し、忍耐は確かな人格を作り、確かな人格は希望を生み出す」と。言い換えれば、試練を経た「ほんもの」こそが希望を作り出す、ともいえるでしょうか。そしてその希望は私たちを欺くことはないのだとパウロは更に書いています。

▼逃げられない苦難

 私たちは、今決して楽な道を歩んでいるわけではないと思います。
 私たちの中には、仕事や生活に関して、たくさんの悩みを抱えている者おり、将来に不安を抱えている者がおり、病を抱えている者がおり、老いに悩む者があり、死に直面している者もおります。
 私たちの毎日は苦しみや悩みに満ち溢れています。
 しかも、私たちはこの人生における苦難から完全に逃れて生きることはできません。
 とはいえ私は、自分の人生に襲いかかってくる苦難から、絶対に逃げてはいけないとは思っていません。逃げられる苦難からは逃げていいんだと思っています。
 例えば、痛い時には痛み止め、痒い時にはかゆみ止め、しんどい時には休みなさい、仕事はできるだけ効率的に、明日できることは今日はやめときましょうというような性格です。自分でもそうですし、例えば職場においても、生徒にただ理不尽な苦労をさせることが教育だとも思っていません。
 でも、やっぱり避けられない苦難というものは、人間が生きていれば、必ずあるものなんですね。
 このような苦難に対しては、私たちは正面突破でぶつかって行くしかありません。避けられない苦しみは味わい切るしかありません。
 その時、悲鳴をあげても、泣き言を言っても構わないと思います。神さまに対して恨みつらみを投げつけましょう。あのイエスでも「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」と嘆いたのですから、私たちが嘆く気持ちは十分に神はわかってくださるはずです。

▼鍛えられる魂

 しかし私たちは、このような人生の苦しみ、悩み、悲しみを忍耐し切ることで、どんどん人間性が鍛えられてゆきます。
 経験が人を作るといいましょうか。先ほども申し上げたように、練達してゆきます。痛み苦しむ経験が人を「ほんもの」にします。そして、「ほんもの」の人間こそが、希望をもたらすのですね。
 それは一人一人個人がただ強くなって、自分の可能性が広がってくるということだけではなく、例えば私たちの教会のような人間の群れにおいても、私たちが共に人生に練達してゆくことで、みんなの間に希望がわきあがってくるということもあるのではないかと思います。
 パウロはその希望がどんなものであるかは具体的には語っていません。しかし、何らかの彼なりの人生経験があって、おそらく、彼自身が逃げることができなかった人生の苦難を思い出しながら、言っているのではないかと。そして、その体験から得たことを一言で申せばこうなりますということで、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練達を生み出し、練達が希望を生み出し、その希望は私たちを欺かないんだ」と断言することができていると思うんですね。
 彼は「苦しみ」がそのまま「喜び」だとは言っていません。また「苦しみ」が取り去られることが「希望」だと言っているわけでもありません。
 しかし、「苦しみ」の経験によって成熟した人格が「希望」を生み出すことができるんだと言っています。
 それが人生の本当の「喜び」につながってゆくと、言えるのでしょうね。

▼苦しみを生き切る
 
 先ほども触れましたように、私たちは、様々な悩みや苦しみを抱え、生きています。それらの幾つかは逃げることができません。
 しかし、この経験を生き切ることによって、パウロの言うように、練達した人間へと成長してゆきたい。
 練達によって「この人は間違いなく『ほんもの』だ」と言えるような人間になることによって、「苦しみ」を「喜び」に変えてゆくことができるような経験をしたい。
 きっとできるはずだと信じつつ、日々を大切に過ごしてゆきたいと願うものです。
 今日の説き明かしを終わります。





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