キリスト教のこれから

2018年5月27日(日) 

 日本キリスト教団 枚方くずは教会 主日礼拝 宣教

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ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 14分間


 コリントの信徒への手紙(二)4章8−9節 (新共同訳)
 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。



▼おはようございます

 おはようございます。本日もまた枚方くずは教会の皆さんと共に礼拝をおささげすることができる恵みを感謝したいと思います。
 今日の宣教は「キリスト教のこれから」という大仰なタイトルですが、要するに、私が学校と教会を兼任している中で、キリスト教がこれから変わらなければならないと感じること、また、これからキリスト教がどんな試練に合わなければならないのか、予想のつくところをお話ししてみたいと思っているわけです。

▼教義や神話の時代は終わる

 まず私は、教義や神話を信じる時代はすでに終わっていると思っています。
 例えば、神は三位一体であるとか、イエスは処女降誕によって生まれたとか、3日目に死人の中から蘇ったとか、何日後かに昇天したとか、そもそもイエスは人間の罪の贖いのためにこの世に降りてきたのだといったことは、すべて教義であり、神話です。
 これらは全部、今から2000年近く前に、まだ科学というものが浸透していなかった時代、奇跡と事実と混ざり合っていて、区別されていない時代の、古代人の物語です。それを、今でも「おかしいな」と思いながらも一生懸命信じようと努力しているクリスチャンの方が非常に多いですが、そんなことが今から必要でしょうか?
 また、教義というのは、科学を知らない人たちが、喧々諤々の論議を行い、公会議の多数決で決めた理屈です。そして、そもそも公会議の多数決というのは、何が正統で、何が異端かであることを決める多数決で、負けた少数派は異端として追放されたけれども、追放されながらも生き延びて、別のキリスト教の教派として受け継がれたりしているわけです。
 宗教改革によってプロテスタントが生まれてからは、この教義や神話の解釈をめぐっての神学論争は、そのままキリスト教同士の分裂、さらには新しい教派・教団の誕生ということになって、キリスト教は無限に分裂してゆくようになったわけですね。
 つまり、キリスト教の教義というのは、一つではありません。細かいところでちょっとずつ違う、似たような教義を掲げた多くのキリスト教がこの世にはたくさんあるというのが現実だということです。

▼正しいものはない

 今でもキリスト教の教会、特にプロテスタントは、非常に仲が悪いです。これは教派や教団どうしだけでなく、同じ教団の個別の教会どうしでも仲が悪かったりしますよね。
 自分のところで信じている教義や神学を唯一の真理だと思い込んでいて、他の信じ方や他の儀式のやり方は認めない、異端だ、悪魔だと主張するクリスチャンは少なくありません。
 そのようなクリスチャンは、人間的には非常に穏やかで優しい人が多い。しかし、自分たちの信じ方と違う信じ方をしている人は天国に行けない。地獄に落ちるんだと、にこやかに言い切ります。
 でも、そのような人が自分で信じていると思っているのは、神話であり、教義であり、神学であって、それは同じキリスト教だといっても、実は世界にある無数の違う信じ方、考え方の一つにしか過ぎません。
 勉強というほどのことでもありませんが、ある程度いろんな本を読み、いろんなクリスチャンに会うようになると、キリスト教というものがどんどんわからなくなります。あまりにも違う種類のクリスチャンがいるからです。
 いうなれば、キリスト教には「これが唯一の真理だ」という共通点がないのですね。神の存在自体を信じないクリスチャンだと言い張っている人もいるくらいですから。
 ですから、私たちはこれから、「キリスト教に統一性はない」という事実を受け入れてゆかなくてはなりません。
 クリスチャンどうしで「お前は異端だ」、「お前は地獄に落ちる」と裁きあっている場合ではありません。クリスチャンどうしがまずこの世に平和を作り出さなくてはなりませんが、そのためには、キリスト教には自分が信じているスタイル以外にも、ありとあらゆる形があるのだということを受け入れなくてはなりません。
 神学や教義を学ぶのも自由、学ばないのも自由。難しいことは考えるのも自由、考えないも自由。しかし、自分の信じ方・考え方を他人と共有するのは非常に難しい。私たちは完全に一致している、という思い込みは実は幻想です。
 クリスチャンは自由だけど孤独。そんな現実を受け入れざるを得ないのが、これからのクリスチャンの運命ではないかと思っています。
 そんな時代の中で、何をもって私たちは、共に生きてゆくのか。それは、何を信じているのか、どんな信条を唱え、どんな儀式をやっているか、もっと深い、互いに命のある存在である。愛を求める存在であるというところで繋がってゆくしかないのだと思うのですが、いかがでしょうか。

▼距離も国境もない

 次に私が感じているのは、クリスチャンのメッセージは距離を超えたものにならざるをえないということです。
 日本人が国内外、あちこち頻繁に引越しをするようになり、外国人も日本に入ってくるようになり、人口の流動化が進んでいます。
 地方部の教会では、人々が都会に流れ込んで、過疎化が進んでゆくために、教会の存続自体が危うくなっているところがありますが、都会の教会でも、もう地域に根ざした共同体作りには限界があるようには感じています。
 初めて教会に来られる方というのは、たいていインターネットであらかじめ教会についての情報を得た人ではないでしょうか。そうでなければ直接人づてに教会について聞いて興味を持たれた方ではないかと思いますが、今はだいたい教会のウェブサイトを見て、下調べをしてから教会に来られる方が増えました。
 思えば当然のことです。いくら門前に立っていても、教会の中で何が行われているかはわかりません。しかしウェブサイトを持っている教会については、少なくとも怪しいことをやっているのではないことはわかるし、自分に合う教会なのかどうかという感触も得られます。
 レストランでも美容院でも同じですが、今はたいていの人はウェブを見て、だいたいのところは把握して、教会の牧師の顔もちゃんとわかって上でやってきます。
 加えて、人々はスマホやタブレットを使って、LINEやTwitterやFacebook、Skype、zoomなど、ありとあらゆるインターネットを使った手段で、日常的に頻繁に連絡を取っています。
 そこには距離は全く関係ありません。
 そうなると、教会のメッセージも距離を超えたものになってゆく可能性があります。
 例えば、教会にわざわざ行かなくても、自宅は出かけた先で、礼拝のメッセージを見たり聞いたりすることができます。国内でも海外でも全く問題はありません。
 もともと、国土が広くてとても毎週は通えないほど教会員の散らばっている国では、テレビ礼拝というものは珍しくありませんでしたし、今なら、スマホ一台あればそれは可能になります。遠隔地でのオンライン礼拝に対応して、個人用の聖餐キットもあるくらいです。
 そのような時代になって、距離を超えたメッセージの発信力がない教会は、これからどうなってゆくのか。皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。
 つい先日行われた英国のロイヤル・ウェディング(ハリー王子とメーガン・マークルさんの結婚式)でも、その結婚式の礼拝の様子は、テレビやインターネットを通じて、世界のほとんどの地域に配信され、その英国聖公会の礼拝堂に招かれた米国聖公会の主教の礼拝説教が、海を越えて感動の渦を巻き起こしていると言います。
 日本のほとんどのマスコミは、キリスト教の結婚式が礼拝であるということも知らず、主教の説教は「長すぎる結婚式のスピーチ」と伝えました。
 そんな日本を取り残して、今やネットを通じて、距離を超えた場所で一緒に礼拝をするということは当たり前になりつつあります。
 私たちはこの時代に、どのようにしてまだ教会に来たことのない人を、教会に招くことができるでしょうか。

▼伝える相手が山ほどいる

 最後にみなさん、靴のない国に2人の靴商人が渡りました、という話を知っていますか?
 国民の誰一人、靴を履いていない国に行った時、一人の靴商人は「ああこれではダメだ。こんな国では靴は一足も売れないだろう」と絶望しました。もう一人の靴商人は「誰も靴を履いてない。これなら山ほど靴が売れるぞ」と大喜びしました。この2人のどちらが商売に成功したでしょうか、というお話です。
 この話を聞いた時、これは私たちの置かれている世界と似ているな、と思いました。なぜなら日本にはクリスチャンがほとんどいないからです。ほとんどいないから絶望するのか、それとも、「これからキリスト教のメッセージを発信する相手が、こんなにたくさんいるんだ、素晴らしい」と考えるかで、キリスト教の未来が変わってくると思うからです。
 私たちは、教義も距離も超えたところで、広く人類が共有出来るメッセージを、これからの時代も発信できるのだと、自信を持っていて良いと思います。
 しかし、そのために私たちは、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という、今日のみ言葉にあるように、不屈の信念を持って当たらなければいけません。
 その信念というのは、特定の神学や教義にしがみつくものでもありませんし、地域にしがみつくものでもありません。
 そういった人間を分け隔てする一切のものを越えて、地上のどんな人とでも喜びを分け合うことができるための価値観とは何かを、どこまでも追い求めてやろうという希望です。
 そのような追求は、必ず抵抗を受けます。なぜなら、この国は今、より世界に対してオープンではない方向に進んでいるだけでなく、明治時代のような相互監視のひどい、個人の自由や命の尊厳よりも国家の都合を優先する方向に舵を切っています。
 特に教育においてその傾向が強く、そのような教育を受けた子どもを大量生産しようとしています。
 このような世の中で、私たちキリスト教会は、必ず「国と価値観が違う」という現実に対峙せざるを得ないでしょう。その時、私たちはパウロが言うように、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と腹をくくるしかないのかなと思うわけです。
 そういうわけで、状況は明るくもある。暗くもある。厳しい状況だが、希望はある。だから祈りつつ、境界線を超えてあらゆるクリスチャンと共に進んで行きたいと、私は思っています。
 みなさんはいかがでしょうか。
 祈りましょう。





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