たくさんの人格、ひとつの身体

2018年6月3日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 宣教

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る







ライブ録画 聖書の朗読と説き明かし 14分間


 コリントの信徒への手紙(一)12章12−13節 (新共同訳)
 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。



▼「カレー」主教

 おはようございます。
 みなさん、早速ですが、先日のイギリス王室のハリー王子とメーガン・マークルさんの結婚式をご覧になりましたか? 世間では「ロイヤル・ウェディング」と騒がれていましたけれども。
 私は、録画されたものをYouTubeで、式の中で歌われた合唱とかゴスペルなどを中心に、部分的に見ました。
 それらの中で特に注目したのは、マイケル・ブルース・カリー主教の説教でした。キリスト教の結婚式はそれ自体が礼拝ですので、説教があるんですけれども、その説教を担当されたのが、アメリカの聖公会の総裁主教、つまり代表的存在であるカリーさんです。
 まあ、カリーさんといっても、英語の綴りはカレーライスの「カレー」と同じですので、「カレー先生」と呼んでも良さそうなもんですけれども、まあ一般には「カリー主教」と呼ばれています。
 このカリー主教の説教が世界のあちこちで大きな評判になっていまして、私自身はその動画を見ていて、まず目に入ったのは、「おっ! iPadを使って説教してるやん! 俺と同じや!」という点だったんですね。これだけでも聖公会のしかも王室の礼拝で、そんなことをやるのは非常に珍しいということで評判にはなっていました。
 他にもこのカリーさんが注目されたのは、アフリカ系アメリカ人で初めて総裁主教となって、そして今回、アメリカの聖公会からイギリスの聖公会に呼ばれていって説教した(イギリスの主教ではなく)というところですね。
 そして、説教の内容も、まず聖書は旧約から「雅歌」を引用した。そこがまた珍しい。雅歌というのはラブソングです。それもかなりエロティックな要素が多い箇所なので、礼拝で引用する人はほとんどいないんですが、それをドーンと最初に持ってきたんですね。

▼奴隷であろうと自由人であろうと

 彼は「皆さんは初めて恋に落ちた時のことを思い出してください。その時、あなたとあなたの愛する人が、世界を回しているように思いませんでしたか? おお、そこに力がある。愛の力です……」といった風に情熱的に、そしてクリスチャンでなくても、誰にでもわかるように愛のメッセージを熱く語りました。
 また説教の中で、Twitter、Eメール、Instagram、Facebookに触れるなど、型破りな面も話題になった。
 最後は、「キング牧師は正しかった。私たちは、愛の贖いの力を見出すべきです。そうすれば私たちはできる。この古い世界を、新しい世界に変えることができるのです」と言い切ったのですね。
 考えてみれば、聖公会というのは、世界史的には非常に先進的な部分もあって、実は黒人の司祭を初めて認めたのは聖公会だったんですね。また、女性の司祭を初めて認めたのも聖公会です。
 そういう意味で、アフリカ系の血を引くメーガン・マークルさんの望みでアフリカ系の説教者が招かれ、アフリカ系の人たちによる聖歌隊が『スタンド・バイ・ミー』(元来はゴスペルを基に作曲されたもの)を歌うといった具合で、これまで白人中心だったイギリスの王室や教会に、強烈に黒人のパワーを持ち込んだ礼拝になったんですね。
 キング牧師は「私には夢がある。かつての奴隷が、奴隷主と一緒に食卓につくという夢だ」と語りましたが、まさに今ここに、その夢が実現しているのだという感銘を受けました。キング牧師がこのロイヤル・ウェディングを見たら、どんなにか喜んだであろうという光景でしたね。
 そしてそれは、今日読んだ聖書の箇所で、パウロが「奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために」と書いた言葉が実現した瞬間でもあるんですね。

▼神がそのように作った

 最近の海外のキリスト教事情としては、他にも、バチカンのローマ教皇フランシスコが、チリのカトリック教会で起こった聖職者による性的虐待の問題をめぐって、被害者の人たちと面会した時のことが報道されています。
 ローマ教皇が虐待被害者の人々と面会した時、被害者の1人が、「私は同性愛者です」ということをカミングアウトしたそうです。
 すると教皇は、「それは問題ではない。神はあなたをそのようにつくり、そのままのあなたを愛している」、「あなたも自分自身を愛しなさい。人々の言うことを心配してはいけないよ」と話したというのですね。
 この発言は賛否両論を巻き起こしました。というのは、これはカトリック教会の公式見解とは違っているからです。カトリックでは同性愛は未だに、神の創造の意図からの「逸脱」とされています。
 そのカトリックの最高聖職者が同性愛者に「神があなたをそのように作ったんですよ。だから自分を愛しなさい。心配することはないよ」と言ったのですから、これは大問題です。
 けれども、教皇が以前からセクシュアリティの問題には関心を持っていたことも広く知られていますし、多数決の会議で決められたカトリックの公式見解に単独で逆らった勇気を、僕は賞賛したいと思います。
 そのようにしてインターネットを少し覗けば、世界のキリスト教会が今、ダイナミックに動いている様子が伝わってきます。
 もちろんどんな動きや発言にも賛否両論はあります。
 しかし、それを恐れず、世界の大舞台で勇敢に、人間の自由と尊厳を訴えるキリスト者のリーダー達がいるということを私は支持したいと思うっています。
 残念ながら日本の多くの教会は、日本の政治家達と同じように、世界の激しい動きから蚊帳の外で、取り残されているような状況ではないかと私には感じられるのですが、いかがでしょうか。

▼相容れない者の和解

 一方、今からおよそ2000年前に、パウロが「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」、「奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」、「皆一つの体となるために」と言った時、その時代のローマ帝国において、どれくらいインパクトがあったでしょうか。
 今でさえまだ、人種や民族の間に対立があり、かつての奴隷とかつての奴隷主の間に差別が無くなっていない状況です。
 パウロがこれらの言葉を発した2000年前、私たちが考えるよりも、もっとインパクトがあったのではないだろうかと考えます。
 当然、ユダヤ人とギリシア人の間には対立がありました。
 もちろん人種が違うということはありますが、それに加えて、片や多神教、片や一神教という形で全く相いれない宗教的対立がありました。
 そもそも地球上には、たくさんの神がいるという信じ方のほうがメジャーだった時代で、ただ一人の神を信じるというユダヤ人の信仰は、かなりギリシア・ローマ系の人々には変人扱いされたようです。
 一方、ユダヤ人からしてみれば、自分たちは唯一の神に選ばれた唯一の民だと信じているわけですから、異邦人なんてのは、見下げ果てた哀れな存在なんですね。
 ですから、ギリシャ人とユダヤ人が無条件に和解するというのはちょっと考えられないです。
 もちろん、奴隷と自由な身分な者の和解というのも、ちょっと考えにくいです。奴隷の中には主人に尊敬されるような学識の持ち主はいたり、給料をコツコツ貯めて引退後に奴隷の身分から抜け出す者もいたそうですけれども、それでも、奴隷でいる間は主人の所有物として一切の自由を奪われていたわけで、一人前の人格を持った人間として扱われてはいなかったわけです。
 ですから、奴隷が奴隷のままで、自由人が自由人のままで、和解するということは非常に考えにくいです。
 ですから、パウロが言ったような話は、当時としては前代未聞の信じられない発言と捉えられてもおかしくなかったでしょうね。
 しかし、パウロは「我々は互いに違っているままで、一つの体なのだ」と宣言するんです。

▼教会のダブル・スタンダード

 パウロは別の手紙で「男も女もない」という言葉も残しています。この発言も、当時としては周りの人たちから「信じられない」といった顔をされたことでしょう。女性も奴隷と同じように、家の主人の所有物に過ぎないとみなされていましたので。ひょっとしたら男性の奴隷のほうが地位が高かったかもしれません。
 今、女性のほうが男性よりも劣っていると明らさまに言う人は、どこかの国の議員さん以外は、ほとんどいません。もちろん様々な形でのハラスメントについて聞かない日はないほど、問題は未解決ですけれども、女性を見下す言動は、今は激しい非難を逃れることはできない時代です。
 また、今、アフリカ系の人を人間以下だと言う人も、かつてよりはずいぶん減ったと思います。かつてはキリスト教会においてさえも、黒人は奴隷は人格として認められていませんでしたが、今はアフリカ系の大統領も登場し、アフリカ系の聖職者がイギリスの王室の結婚式で説教をし、それが世界に放送される時代です。
 アフリカ系の人々に対する差別は今も無くなってはいませんが、それでも状況は確実に良くなっていると思える状況ではあります。
 同性愛者あるいは、その他ありとあらゆるタイプがいると言われるセクシュアル・マイノリティ(性的に少数者の人たち)は、キリスト教会の中でも、まだほとんど人格として認められていません。
 それどころか、強制しなければならない罪だと思っていたり、治療しなければならない病気だと思っているクリスチャンがたくさんいます。同性愛者は死ななければならない、地獄に落ちねばならないと信じ込んでいるクリスチャンも少なくありません。
 最近は、巧妙な言い方をする教会も出てきて、「私たちはもちろん誰でも受け入れますよ。でも、治すものはいずれは治してもらわないとね(ニッコリ)」というダブル・スタンダードみたいなことを言うところもあります。
 しかし、私は、かつての黒人差別の問題のように、キリスト教がセクシュアル・マイノリティの人に対して、公に差別することをやめる時が来るのだろうと思っています。
 キリスト教はかつては女性を差別し、アフリカ系を差別してきましたが、今はそれを克服しようと努力する人のほうが支配的になってきました。
 同じように、セクシュアル・マイノリティに対しても、きっとキリスト教会がその人格を守ろうとする日が来ると思っています。
 先のローマ教皇フランシスコの発言はその先駆けとも言えると思います。
 
▼和解の福音

 残念ながら私たちの教団は、同性愛者の問題しかり、聖餐式の問題しかり、特定の信じ方だけが正しいとして、自分たちと違う者は、たとえ同じ教団に属する者であっても、排除しようとする人たちの方が多数派を占めています。それこそが信仰の証だとか、良心だと思っている人たちもいます。
 私たちはこのような教団にあってこそ、全く違う信じ方、考え方、そして生き方をする人たちと、「同じ霊を飲ませてもらった、同じ体の一部同士なのだ」ということを再認識するべきではないでしょうか。
 つまり、私たちに求められているのは、「他者を排除しようとする人々を受け入れようとする」、そして、「自分を排除しようとする人々をも受け入れようとする」ことなんですね。
 これはとても難しいけれども、私たちがお互いに善いことだと信じていることで対立することを、きっと神様は望んでおられないだろうと思うんです。
 ですから、「私たちは互いにあまりにも違っているけれども、同じ神様につくられ、同じ霊に満たされている、同じ体の一部ではないですか」と、いつも呼びかける心の持ち主でありたいと思います。
 今日の説き明かしは以上です。ありがとうございました。





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール