働かざる者大いに食うべし

2018年6月17日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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今回のライブ録画はありません。(機材の都合がつかないため)



 テサロニケの信徒への手紙(二)3章6−12節 (新共同訳)
 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。
 わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。




▼働かざる者、食うべからず

 おはようございます。今日は、この有名な聖書の箇所を巡って、学んでみたいと思います。
 「働かざる者、食うべからず」。この言葉は、私自身、子供の頃から何度も何度も数えきれないほど親から言われ続けてきました。
 主に母親から聞かされていたわけですが、それは父親が夜働いて昼帰ってくるという生活だったので、私は小さい頃から父親の寝ている姿しかほとんど見た事がないので、母親から言われる事が多かったということにすぎず、いま考えてみると母親も専業主婦だったので、実は父親にそうやってなじられていたのを、子供の私に転嫁して口惜しい気持ちを晴らしていたのかも知れないなぁ、などと思います。
 とにかく、事あるごとに「働かざる者、食うべからず」と言われ続けてきたせいで、長い事、その家の子どもである事自体に罪悪感を覚えていました。
 まあこれも一種の虐待であると思うんですね。子どもなんですから、自分で働いて暮らしていくという事もできないわけで。それをやるということになると、学校に行く事もできなくなるというわけで、自分のそれまでの生活のすべてを失えと言っているようなものですから、これは言葉による虐待です。
 ひょっとして更に遡って行くと、たぶんそういう事を母親に言っている父親が、そもそも働くということに疲れと苦しみを抱いていて、そのために溜まった怒りや哀しみを妻にぶつけていたのかもしれません。そうやって味わわされたやるせなさを今度は母親が子供にぶつけるという事をやっていたのでしょうね。
 そして、そういう育ち方をした私も、自分が結婚した人に「お前は働いてないから、俺の辛さがわからないんだ」と言って、なじったり怒りをぶつけたりするような人間になってしまったんですね。そんな人間ですから最初から結婚がうまく行くはずもありませんでしたし、私が自分を変えるのにも随分時間がかかりましたし、自分を変えると言ってもなかなかうまく行きませんでしたし、結婚している間にそれは達成することはできませんでした。

▼働かなくても食えるのが幸せだ

 今では、自分が言われてきた事が虐待であったという事もわかりますし、そのような事を言っていた両親のことも赦しているつもりです。わざわざ蒸し返すこともありません。多分、母はそんなことを何度も息子に言ってきた事なんか忘れてしまっているでしょうから、余計なこと事は言いません。実際に食事を抜かれたことは無かった……と思いますので、それだけでも感謝ですよね。
 ただ、今はこの「働かざる者、食うべからず」という言葉は、単に子どもに対する虐待であるだけではなく、世の中のすべての人に対する暴言ではないのかなと感じるようになりました。
 例えば、仕事に就きたくても就くことができない人はもちろんのこと、仕事に就いていても自分の働きに見合った収入が得られなかったり、収入があったとしても過重な労働にあえいでいたり、労働の内容が自分には納得できないものであったり、とにかく様々に職業と賃金の間で苦しみを抱えている人みんなに対して、「食べるためにはこの労働をしなければならないのだ。文句を言わず働け!」というプレッシャーを与えて、自分の職業や賃金に疑問を呑み込むように強制しているのではないかと、私には聞こえてしまうのですね。
 Twitterで流れてきたある話に、ヨーロッパの、多分ドイツ人だったかの人と日本人が労働について話す場面があったんですね。日本人が「食べられるだけの仕事があって幸せだなあ」と言うと、どのドイツ人が「働かなくても食べられる方が幸せだ」と答えるという話でした。
 これはもちろんフィクションの会話ですけれど、それでも日本では「働こうとしない者は、食べる権利が無い」という言葉が体に染み付いていて、「誰もが働かなくても食べる権利くらいはあるだろう」とまではなかなか思えない人が多いように感じます。
 そして、「働かざる者、食うべからず」という言葉に呪いのように取り憑かれた人が、例えば働く意志があっても働けない人を見下したり、家計を主に稼いでいる者が、もっぱら家事をやっている家族をいじめたり、というような悲劇が起きている。
 そのような言葉が実は聖書に由来しているのだという事を知ったときは、私も少なからずショックを受けました。

▼擬似パウロ書簡

 そもそも、この「働こうとしない者は、食べなくてもよろしい」という言葉は、どういう意図でこの2通目のテサロニケの信徒への手紙に書きこまれたのでしょうか。
 このテサロニケの信徒への手紙というのは、パウロが書いたような体裁になっていますが、実際にはパウロの教えを受け継いだ人たちが、パウロの名を借りて書いたものだと言われています。
 昔の人たちは、今のように著作権といったものを気にしていたわけではないですから、自分たちが信奉する先生の名前を使って教訓を垂れたり、手紙を書くということはよくあったんですね。これは聖書だけではなく、ギリシア・ローマの哲学者でもそういう事がありました。
 でも、パウロ本人が書いたものではないので、ちょっとした違いが生じてきます。
 パウロは本気で「もうすぐこの世が終わって(それこそ自分が生きているうちに、この世の終わりが来て)、神の国がやってくるのだ」と信じ切っていたんですが、この第2の手紙の方は、パウロが亡くなってからもなかなか神の国がやってこないので、それに対応して、恐れず、怠らず、しっかりと毎日の仕事に精出して、真面目に暮らしなさい、必ず将来的には神の国は来るのだから、という風に引き締めている手紙なんですね。
 そういう意図で書かれた文章の中で、「あなた方は、しっかり働きなさい」ということを言っています。

▼余計なことで忙しがって人を困らせる人

 それにしても、この聖書の箇所で一番重大な問題は、11節の「聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし」と書いてあるのが、実は「怠惰」という意味ではなく、実際には「無秩序に」という意味だということでしょうね。
 「怠惰で、少しも働かず、余計なことをしている」というのと、「無秩序に歩み、少しも働かず、余計なことをしている」というのとは、ぜんぜん意味が違います。
 「怠惰で余計なことをしている」と言いますと、ダラけてサボっているという意味になりますが、「無秩序に余計なことをしている」となると、余計なことをして人を混乱させているというような意味になります。ここは直訳すると、「無秩序に歩み」という言葉になるんですね。
 ということは、この箇所は、働く意志もない怠け者を批判しているというのではなくて、「忙しそうに余計なことばかりしているけれども、結局人に迷惑と混乱ばかり与えているような人」とでもいうような意味になりますでしょうか。
 そして、これはテサロニケの教会宛の手紙ですので、教会の中の問題について話しているので、教会の中で余計なことをして人を困らせているような人のことを批判しているのですね。
 例えば、「世の中には神に選ばれた人もいれば、選ばれていない人もいるのだ」とか言って人を不安を煽ってみたり、「それはサタンの仕業だ」とか「これは地獄に落ちますよ」とか言って、人を裁いて傷つけたり、そういう愚にもつかないことばかりやって、人を困らせてばかりいるような牧師がいたりとか。よくある話なんですね。
 それに対して、12節の終わりに「落ち着いて仕事をしなさい」とこの手紙は勧めています。
 「余計なことをして人に迷惑をかけないで、落ち着いて仕事をしなさい」と。自分の仕事を淡々とやっておればいいのですよ。それで自分のパンを得なさいということです。

▼不労所得者、食うべからず

 この12節で「落ち着いて仕事をしなさい」の前に、「自分で得たパンを食べるように」と書いてあります。「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と。
 ということは、落ち着かないで余計なことばかりしている人は、自分で自分のパンを得ていないのか、という疑問も浮かび上がってきます。
 そこで、この聖書の箇所が、自分で苦労しないで、人に苦労させて贅沢な生活をしている人を批判している、と読むこともできるそうです。
 まあ、人に無理難題ばかり押し付けて、何に使うかもわからないような税金を取り立てる政治家や、人を体も心も壊れるほど働かせておいて、自分はお金を転がしているだけで贅沢に遊んで暮らしているような大金持ちなどのことを、この手紙を書いた人は嫌っているのかもしれませんね。
 そういう意図で「働かざる者、食うべからず」と書いたとすれば、これは「自分で汗水垂らして働いたわけでもないのに、パンを食べる権利があるのか」と、不労所得者を非難する言葉にも読めるんですね。
 決して、働けない失業者を責める言葉ではなく、むしろ、そのような失業者を生み出していながら、自分はしっかり大きな椅子に座り込んで安泰を決め込んでいる経営者のことを攻撃する文書とも読めるわけです。

▼イエスなら

 さて、長々とパウロの名を使ってテサロニケの教会に向けて書かれた手紙の解釈をしてきたわけですが、これはパウロの手紙とは若干方向性が違うというのは、先ほど申し上げた通りです。
 パウロによるテサロニケの信徒への第一の手紙の方は、働くこととパンのことについては何も述べていません。むしろ、自分やテサロニケのの人たちが生きている間に終わりの時が来て、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると……」(第1テサロニケ4.16)と言った具合に終わりの時の様子を描き、本当にもうすぐなんだから、愛の生活を送りなさい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(同5.16)と信仰に生きることを勧めるので一生懸命、精一杯なんですね。
 また、これまで述べてきたような第二の手紙のような労働の倫理と言いますか、「自分で得たパンを食べるようにしなさい。余計なことで忙しがっていないで、落ち着いて仕事をしなさい」みたいな教えは、イエスの考えとも違うんですね。
 イエスははっきり言って、働こうが働くまいが、みんな誰でも食べる権利があるんだと思っていた人です。だから、「ブドウ園の労働者のたとえ」のような話ができるんですね。
 これはちょっと考えてみたらイエスの言っていることが一番真っ当だなと思います。

▼働かざる者、大いに食うべし

 ちょっとおかしいなといつも思うんですけど、例えば私が勤めている学校で、「働いていない人は食べる権利がないと思う人」と生徒さんたちに聞いたら、ほぼ全員が「はーい」と手をあげます。
 でも、「じゃあ君は何の仕事をしているのかね?」と聞くと、ポカンとしてます。「じゃあ君らは食べる権利がないのかね?」と聞くと、そんなことはないという顔をします。
 当たり前ですよね。労働人口と言いますけど、多分いまの日本で働いて給料をもらっている人は6割くらいだったと思います。あとの4割は別に外で給料をもらっているわけではありません。
 それは子どもだったり、専業主婦(主夫)だったり、お年寄りだったり、病気だったり、障がいがあったり、失業させられたり……その他いろんな理由があって、給料をもらっているわけではないけれども、実際食べて生きる権利がある。当たり前のことです。
 そういう人たちに「給料労働をしていない者は、食うべからず」というのは、誰がどう考えても間違っているし、それは虐待であり、差別なんですよね。
 でも、残念ながら、昔も今も、虐待や差別は無くなっていませんし、悲しいことにそのために命が奪われてしまうこともあります。それはイエスの時代もそうだったし、今もそうなんです。
 だから、ちょっと第2テサロニケの「自分のパンのために、落ち着いて自分の仕事をしなさい」程度の言葉ではちょっと弱い。不十分です。やはりイエスのように豪快に行かないと面白くありません。
 誰でも生きている者は腹一杯食べて当たり前。むしろ、働くこともできずお腹をすかせている人こそが、食べて元気になる必要があります。「働かざる者、大いに食うべき」。それがイエス流ではないでしょうか。
 このように、元祖イエスのメッセージは力強く、後の時代の手紙になるほどメッセージは月並みで面白味のないものになりがちですけれども、まあそれは仕方のないことかもしれません。
 これで本日の説き明かしを終わります。





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