正しい人になるか、善い人になるか

2018年7月1日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約20分)


 ルカによる福音書10章25−37節 (新共同訳)
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
 イエスはお答えになった。
 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに支払います。』
 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」




▼教師としてのイエス

 おはようございます。今日は、かなりよく知られている聖書の物語を読みました。
 律法の専門家がイエスに永遠の命を得る方法を聞きます。イエスは「律法に何と書いてあるか」と問い返します。
 律法の専門家は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」という模範解答を答えます。
 イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言います。すると、律法の専門家は「では、私の隣人とは誰ですか?」と言います。これに対して、イエスはストレートに返答するのではなく、この有名な「善いサマリア人」と呼ばれるたとえ話をするのですね。
 そして、そのたとえ話を話し終わった最後に、「誰がこの人の隣人になったと思うか?」と聞きます。
 これは一見いい教え方に見えるんですね。生徒と論争するのではなくて、ひとまず呼吸を置いて、そしてエピソードを紹介し、それから生徒に自分で考えてもらって、その生徒の考えを聞く、というやり方ですね。なかなかうまい具合にやってるなと思います。
 けれども、イエスは最後に「じゃああなたが考えた通りにやって見なさいよ」と言います。これはなかなか厳しいなというか、私だったらこういうやり方では生徒を追い詰めるのは好きじゃないな、と思います。
 というのは、生徒というのは大抵「正しいこと」というのがなかなかできないから怒られるんじゃないでしょうか。
 私が一番嫌いなタイプの教師というのは、生活指導やしつけ的な場面で、「何が正しいかは自分で分かっているやろう」と言って、生徒に正解を言わせて、「じゃあその通りやればええやないか。やれよ」と言う先生ですね。
 正しいことなんかちょっと考えたらわかるわけです。けれどもそれがなかなかできないから怒られるわけで、そこで「正しいことをやればいいんだ」では、もう対話を強制終了させてしまっているというか、多分教師の方が生徒に対して心を閉じてるんですね。
 生徒の方も、きっとこんな先生にはもう話をするのも嫌になってしまいます。
 イエスはまさにここでそれをやっているわけで、まあ私の推測に過ぎませんが、多分イエスはこの律法の専門家のことが気に入らなかったんでしょう。

▼生徒としての律法学者

 確かに、生徒役である律法の専門家ですが、これも私の主観的な受け止め方ですが、ちょっとカチンと来るものの言い方をしますね。
 「神を愛することと、隣人を愛すること」という模範解答はできるんですけど、じゃあとりあえずそれを実行しなさいと言われると、「じゃあ、隣人って誰ですか? 誰を愛したらいいんですか?」と口答えができるというのは、いい根性をしています。
 ここでの模範解答、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのは、私も去年の夏の終わり、イスラエルから帰ってきた直後くらいに、「シェマー・イスラエル」(聞け、イスラエル)という言葉を紹介させていただきましたけれども、申命記に書いてある、ユダヤ人に一番愛されている祈りの言葉ですね。
 もう皆さんお忘れになっているかもしれませんが、ユダヤ人の家の玄関に必ずと言っていいほど取り付けられている細長い箱。その中に入っている「シェマー」の祈り。その「シェマー」で始まる祈りの中の言葉なんですね。「聞け、イスラエル。あなたは心を尽くし、精神を尽くし……」と言った具合に書かれています。
 つまり、この「心を尽くし、精神を尽くし……」というのは、律法学者からすれば基本中の基本、当時では誰でも暗記していて当たり前の文言でした。こういう簡単なものを引き合いに出してくるというのは、とりあえずこのイエスという教師がどう出てくるか様子を見てやろうというところでしょうか。
 これに対して、イエスは「正しい答えだ、それを実行しなさい」と答えました。この時点で既にイエスはあまりこの律法の専門家が鬱陶しかんったんだろうなぁと思います。
 あんたたち律法学者というのは、いつも「律法にはこう書いてある」と言って正しい答えを声高に主張するけれども、一体そこに実行が伴っているのかん、という嫌味がこもっているように私には感じます。
 そこでこの律法の専門家は咄嗟に口答えしたくなったんでしょうね。「実行しなさい」と先生はおっしゃいますが、じゃあ一体誰を愛したらいいんですかね? ここでいう隣人って具体的には誰のことを指すんですか? 先生には答があるんですか?」

▼道徳の教科書

 すると、もうここでイエスは論争をさっさとやめてしまいます。こういうタイプの生徒は口論してもキリがないんですね。ああ言えばこう言うというタイプです。そして、教材としてあるひとつの物語を示します。
 ある人が追いはぎに襲われて半殺しにされる。祭司が通りかかるが、見捨てて通過して行ってしまう。レビ人も見捨てて通過して行ってしまう。最後にサマリア人がやってきますが、このサマリア人が半殺しにされた人を介抱してくれ、宿屋まで連れて行って治療費まで出して、足りなかったらもっと払ってくれると言う。
 ここで教材のエピソードは終わりです。
 「さあ、誰がこの半殺しにされた人の隣人になったと思いますか?」
 こういうやり方を見ると、私は今年から最近始まった道徳の授業とその教科書のことを思い出すんですね。
 何か道徳的な物語や実話を国語の教科書のように読ませます。そして、国語の教科書だと「作者はどういう気持ちで書きましたか」、「誰それはどういう気持ちだったでしょうか」という問いになるわけですが、道徳の怖いところは「誰が正しかったでしょうか」という問いを子どもはぶつけられるわけです。
 これは非常にまずいというか、子どもの行いや思い、考え方の善悪に踏み込んで、「お前はそれでいい」、「お前はそれではダメだ」と人格や行動に介入するんですね。これは教育ではなくて支配です。もっとはっきり言えばマインド・コントロールの始まりです。だから私などは、今、政府が進めている「特別の教科:道徳」なんてのは、非常に気に入らないわけです。
 ともかくイエスは、このサマリア人の物語を聞かせて、「一番善い人は誰ですか?」といった問いを生徒にぶつけます。
 もう生徒は追い詰められて、正解しか言えません。「その人を助けた人です」。
 イエスはすかさず言います。「じゃあ、あなたも同じようにしなさい」と。
 これを言われたら終了です。もう律法の専門家には何も言えません。正解はわかりきっている。しかし、誰もそれを実行できていないのです。誰も実行できていないことを押し付けても教育にはなりません。
 そうではなく、この場合は「できない」という所から始めて、「じゃあどうすればいいんだろう」とじっくり腰を据えて考えてみないといけないんじゃないかなぁと私などは思います。
 しかし、このときのイエスにはそのつもりはないようです。うまいこと生意気な生徒を追っ払ってやったという感じです。
 まあイエスという人には、今日明日をどうやって生きていこうか、疲れたよという人には、「今日の苦労は今日だけで十分だよな」と声をかけてくれる優しさがありますが、「永遠に生きていたいんですが、どうしたらいいでしょう」というような生意気な学者には、こういう冷たい態度を取る二面性があるんですね。
 そこが、苦労人から見ると溜飲が下がるといいますか、イエスという人のなんとも言えない魅力でもあるんでしょうけれどね。

▼正しい人と善い人

 まあしかし、イエスの態度が教育的であるか教育的でないかはとりあえずおいたとして、この道徳の教材みたいな話自体は、よくできていると思いますし、非常にイエス的だと思われます。
 追いはぎに襲われて半殺しにされた人は、祭司とレビ人に見捨てられますが、実はこの祭司とレビ人は、律法的には……ということはユダヤ的には正しいことをやっているのですね。
 祭司はユダヤ教の聖職者で、ユダヤ人の中でも最も神に近づくことができる仕事をする特権階級です。レビ人はその祭司たちの補助をして、神殿での奉仕をする部族の人たちです。どちらも清い職業であり、清い階級の人たちです。
 清い階級の人たちは、汚れというものを徹底的に排除しなくてはいけませんし、近づいてもいけません。律法には祭司もレビ人も死体には触れてはいけないと厳しく戒められています。死体というのは非常に汚れたものとされていたので、祭司は親族のお葬式にも参列してはいけないことになっているほどでした。
 そういうわけで、祭司にしてもレビ人にしても、死体に触れることは掟で禁じられているし、近づいても汚れが移るかもしれませんから、遠ざかって道の反対側を通って立ち去ってゆくというのは、まさに正しい態度であったわけです。非常に真面目だったわけです。
 そして実際に半殺しにされた人を助けたのは、サマリア人の旅人でした。
 このサマリア人というのが、ユダヤ人から見れば、非常に汚れた民族で、それこそ触れるのも近づくのも汚らわしいと見下げられた人たちでした。
 言い換えれば、この物語は「汚れかけた人が汚れた人に助けられる」というお話です。これは「正しさ」を追求し、「清く」あろうとする人たちへの、そしてその「正しさ」や「清さ」を、宗教的な理由で守ろうとしている人たちへの痛烈な皮肉です。
 イエスに質問をした律法の専門家も、「正しい」ことを研究し、「清い」ことの値打ちを人に教える立場の人です。しかし、イエスにとってはそんなものは何の価値も無いことなんですね。
 「正しいことを几帳面に守ったって、清いことを一生懸命に保ったって、人ひとりの命をケアすることができなかったら、何の意味があるんだよ」と、考えてみれば非常に真っ当なことを、イエスは言っているんですね。

▼正解の無い問いと自由な応答

 当時、そこの人たちの間では、これはとても「バチ当たり」な発言だったでしょう。なにせ律法というものを軽んじる発言ですし、律法は神が定めたものだとされていましたから、このイエスの発言は神への冒涜、神への反逆と受け取られても仕方がなかったでしょう。
 実際、彼は人々を惑わす者として、殺されてしまうことになったわけですけれども、そうなることはある程度予想されていたとも言えるわけで、それでもイエスは自分を止めることができなかった。
 「隣人を愛しなさい」と神に命じられているのなら、自分が目の前の人の「隣人になって」みろよ。それがあんたらの信じている神の本当に望んでいる事じゃないのか。
 イエスは、そう人間に問いかけたかったのではないでしょうか。
 このイエスの問いに、私たちはどう答えれば良いのでしょうか。
 私は何が正しい答えか、と詰め寄ることはしたくありません。自分自身もそういう追い詰められ方はしたくありませんから。これは正解の無い問いです。こうしなければならないということは、ありません。
 でも、「イエスは私に問いかけておられる」ということだけは忘れたくないと思います。
 皆さんなら、どのようにイエスに応答されるでしょうか。





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