祈りのプラクティス

2018年7月15(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約27分)


 マタイによる福音書6章5−8節 (新共同訳)
 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはいけない。
 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。




▼脳の進化と信仰心

 私は生物学や脳科学についての本や雑誌の記事を読んだりするのが大好きです。もちろんその分野については素人で、趣味の域は出ませんけれども、生命というものの正体は何かとか、遺伝子操作によってこれからの生物・人間はどうなるのかとか、進化の行く先はどうなるのか、脳科学的に人間の魂というのは、どういう風に説明できるのか、などなど、興味は尽きないんですね。
 でも、これは実は全部キリスト教を研究する中で、関連する知識を求めて寄り道をするようになったもので、私自身の中では全部宗教に関係することなんですよね。
 例えば、生物の進化になぜ興味があるのかというと、これは神による天地と生物の創造という聖書の記述と、実際の宇宙の成り立ちや生物の進化の間を、どう折り合いをつけて理解するかということを考えたいというのがきっかけです。
 脳科学の方は、やはり人間の生命、魂、心についての関心ですね。そういうものの実在を確認することはできないのかと。そして、神です。神は本当にいるのか、それはどこに存在しているのか。あるいは人間の脳の中で作り出された妄想のようなものなのか。しかし、もしそうだとしても、なぜそんなものを人間は生み出すに至ったのか。
 そこまで考え出すと、神を生み出したということは、やはり神を信じる必要があったのではないか。きっとそれは人間の脳が進化してゆく中で信仰心とか祈りの心というものが生まれてきたとすれば、その細かいプロセスはどんなだったのだろう、何が人間に宗教を必要とさせたのだろうということに興味がそそられるんですね。
 ここまでくると脳科学や生物学的な進化だけではなく、文化人類学や宇宙物理学についての知識も必要になってきますが、なかなかそのような趣味に時間を割くことができないのが現実です。

▼ニューロンと脳内ホルモン

 神や信仰について、私は今のところの仮説は、やはりそれは脳に大きく依存するものだろうということです。
 神を信じ、その存在を感じる心も、神の言葉を聴く力も、祈ろうとする心も全て脳が産みだすものであろうと。そして、その脳の能力を開発することで、私たちはより信仰的に充実した生活を送ることができるだろうという風に思っているわけです。
 そのように考えるようになったきっかけは、一つには私が最初に鬱病の治療を受けて、やがてそれが実は躁鬱病ということがわかり……と、そういった成り行きはよくあるそうなんですけれども……その治療のために、あれこれいろんな薬を飲んで試行錯誤している間に思ったこと。
 それは、「人間の心や体は、いかに外部から取り込む薬物などの影響を受けるものか」ということです。
 心療内科には「気分を明るくする薬」、「気分を安定させる薬」、「沈んだ心を持ち上げる薬」、「興奮しすぎた心を抑える薬」など、実に様々な薬があります。それをお医者さんは量や数を調整しながら、患者の精神状態を変えるために努力します。
 まだ、手探り状態の部分も多い分野のようで、丁度いい配合にたどり着くには7−8年かかったような気がします。でも今後、脳の研究が進めば、もう少し早く正確に処方できるようになってゆくでしょう。
 私がこの治療で痛感したのは、脳は神経細胞がぎっしり集まったもので、その神経細胞の突起(ニューロンと呼ばれるものらしい)の間を流れる電気信号と脳内ホルモンと呼ばれている物質ですね。それが脳のあらゆる働きをコントロールしている。
 たとえば、私が喜んだり悲しんだりしている感情の動きも、喜ぶ材料になっている情報と、喜ぶ感情のホルモンがニューロンの間を流れていっているわけですね。その電気の伝達具合を高めたり、抑えたり、あるいは脳内ホルモンを減らないようにする薬などを入れれば、私の感情は高ぶったり、落ち込んだり変化するわけです。
 逆に鬱に陥ってる時というのは、幸福感や充実感を感じる脳内ホルモンが、極度のストレスなどの原因で、分泌される量が少なくなるので、それの量を維持するような薬を入れるんですね。
 そういう経験をしていると、人間の感覚とか感情、気分といったものは、脳の調子によって随分変わるもんだなあと。もちろん脳も体の中の臓器の一種すぎないわけで、胃腸の調子や関節の調子がここのところよくないなぁといったような話と同じように、脳だってその日ごとの体調があるので、それによって、自分では意識していなくても、物の見方とか感じ方や考え方に影響を与えられているということが、私たちが思っている以上にあるということだと思うんです。
 ということは、私たちが普段「経験」とか「体験」とか呼んでいるものは、実は全部脳の反応を意識しているだけではないのか。つまり、私たちの人生は脳から一生出られないんじゃないのか、ということを考えるようになったわけです。

▼ロボトミーと神秘体験

 その考えをさらに深めることになったのが、これはちょっとヤバい話なんですが、今は行われていない「精神外科」と呼ばれている分野の手術ですね。「ロボトミー手術」とも呼ばれているもので、なんらかの心の病を抱えて苦しんでいる人の頭を開けて、脳の前頭葉の一部を切り取るという、非常にグロテスクな手術です。いまはこれはやってはいけないことになっているそうなんですね。
 で、私はこのロボトミー手術を応用した実験で、脳に電極をあて、その人がどんな感覚や経験を覚えるかということをやった古いモノクロの記録映画を見たことがあるんですね。
 そこでは、脳の色々な部位に弱い電流を流しながら、被験者にインタビューをしていました。そこで被験者は「暑い」とか「寒い」とか「冷たい」とか言い出すわけです。
 そのうちその被験者は、電極を当てる部位によっては、「光が見えます」というようなことを言い始めます。あるいは「誰かが語りかけてくる声が聞こえます」ということもあります。光の中から声が語りかけてくる。また、これ以上ないというほどの至福の体験をすることもあります。
 これは、ある人々が言うような神秘体験(神と出会った、あるいは天に昇ったという体験)、あるいは臨死体験のような体験ですね。これを脳に電極を当てるだけで見る人、聴く人がいるわけです。
 そうなってくると、人が神と出会ったとか、死後の世界を見たとかいうのは、実は脳の中で起こっている現象ではないのか、という疑問が浮かんできます。
 しかし、逆にこういうことも言えます。神で出会ったり、死後の世界を見たりする体験に対応する脳の部位があるとすれば、そこを開発すれば宗教的な感性が発達するのではないか、という仮説も成り立つと思うんですね。

▼脳の発達と宗教的能力

 さらに、脳科学や脳の発達ということで言えば、最近になってある学校の(私が勤めている学校ではありません)体育の先生が、ある運動がうまくなるためのコツをつかむまでに、どれくらいの時間がかかるか、どれくらい練習するのが最も無駄なく効率的なトレーニングなのか……といった問題について、脳と身体の神経細胞とニューロンの発達スピードの観点から発表しておられたのを聞いたんですね。
 あるスポーツができるようになるためには、ただ筋力をつけるだけではダメですよね。神経や脳が学習し、それに向いた回路をニューロンが作ることで、無駄なく上手に体の動きを再現できるようになり、やがて何も考えなくても自然に体が動くようになると、もういちいち考えながら体を動かすのではなく、無意識のうちに自然に肉体をコントロールできるようになります。
 その話を聞いていて、私はまたムクムクと「これが宗教だったらどうだろう?」ということを考えてしまうのですね。「宗教的な感覚や能力を、脳のある部分が司っているのなら、その部分のニューロンを発達させることで、宗教心・信仰心が向上するということがあり得るんじゃないか」ということを考えたわけです。
 私は生物学者でも脳科学者でもないので、脳のどの部位が宗教的な体験に結びついているのかは詳しくは知りません。自分で実験をしたわけでもありません。素人が突拍子もないアイデアを語っているに過ぎません。
 また、宗教者によっては、私の考えていることをとんでもない冒涜であると言う人もいます。実際、今話しているようなアイデアをTwitterでつぶやいてみたのですが、「それは人間としての欲望の表れに過ぎず、本当の絶対者との出会いと何の関係もない」と、偉そうな物言いの人ににべもなく否定されました。
 しかし、私は私なりに、いろいろな牧師さんたち、いろいろな熱心なクリスチャンたちと話をしてきてみて感じるのですが、いくらご本人が「これは絶対的な神さまによって示された唯一の真理に基づいている」と主張したり、「私たちの教会の信仰は完全に一致している」と主張するしていても、実際には厳密には人それぞれの神さまについてのイメージの抱き方とか、信じ方、信じている内容や理解というのは、人によってまちまちなんですね。
 つまり、個人を超えて一致した信仰とか、私は絶対者と出会いという信念が実は幻想であって、本当はみんな個々人のものの見方の方が先に立ってしまっているというのが現実なんだなあと、これが私の、いろいろな牧師たちと対面してきた実感です。
 「有限なる人間は、無限なる神を認識することはできない」という考え方を「不可知論」と言いますけれども、私はこの「不可知論」に近い考え方です。
 人間は自分の脳で経験すること以上のことを経験はできない。もし神が、何人かの神学者が言うように「絶対他者」と呼べるような存在だったら、それは人間の認識には入ってきません。
 ですから、ある人たちはこう言います。「私たちがある程度神を知った気持ちになったとしても、それ自分の脳が経験したことを「これこそ神との出会いの体験に違いない」と思い込んでいるだと。結局、神や信仰なんてものは、個人の思い込みの世界以上のものではないんだよと。そういう風に言ってくる人もたくさんいます。

▼ニューロンと共に生きている

 では、本当に神は存在せず、私たちは虚しいものを崇めているのでしょうか。
 私はそうとは限らないと思っています。
 神は絶対的に他者なのだと言ってしまうのなら、それはありえませんが、実は神は私たちの内面に住んでいると考えたらどうでしょうか。ものすごくありがたみのない表現をすれば、神は私たちの神経の中に、神経と共に、生きているのではないでしょうか。
 さっき、脳のある部位が宗教心や宗教体験のもとになっているのではないかというお話をしました。脳のある部分を刺激すると宗教体験を経験すると。だから、私たちは脳の中で神と出会うことができます。そこは私たちの心も存在している場所です。
 「私達は神の似姿に作られている」という言葉が旧約聖書の創世記に出てきますけれども、これはなかなか鋭い洞察で、確かに人間の心というものは、神と同じ場所に神と共に神に似た形態で存在している、という風に解釈できるのではないかな、と私は今は思っているわけです。
 人間は肉体の一部としての脳を進化させてきた結果、神に気付き、神を想い、神に祈るということをする能力を得るようになったのではないか、と思うのです。
 そして、その脳力はトレーニングすることによって、さらに成長させ、私達は幸福な信仰生活を送れるようになるのではないかと思っているのです。

▼祈りのプラクティス

 宗教に関する脳科学的な研究は、たぶん脳科学的の分野の中では一番遅れているのではないでしょうか。
 そもそも先程ちょっと紹介した、ユングの心理学のように、心の深い内容や、神や悪魔などの住むような深層心理の世界を研究するというのは今は流行っていません。
 今は脳科学といっても、どうすれば早く言語が習得できるかとか、どうすればスポーツを効率よく上達させるかとか、ノーベル賞学者同士を結婚させたら、ノーベル賞学者になれるような脳の持主になるんじゃないかとか、そんなことばかりです。
 ですから、脳における宗教性なんてことを口にすると、怪しいスピリチュアル系のカルトの勧誘か何かと間違われかねないような雰囲気なのですが、しかし、私はいつか誰か優秀な脳科学者が、「なぜ人は神を意識するとのか」、「なぜ人は祈るのか」ということを研究して欲しいと強く望んでいます。
 そのような研究の遅れた宗教性のトレーニング方法として、いまのところ、私たちの信仰を高める、誰でもできて、しかも有効なプラクティスとして思い当たるのは、「独りで祈ること」です。

▼独りで祈る

 イエスはこの点において理論家ではなく、徹底的に実践家でした。
 本日の聖書の箇所によれば、イエスは「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と教えました。
 イエスはこの事を、会堂や大通りで祈る偽善者や、くどくど長々と祈る異邦人を批判する文脈で述べています。そういう人びとのように、人に見せたり聞かせたりするために祈ったり、長々と祈れば立派な祈りと受け止めてもらえるだろうと考えたりするのでは、ダメだと言うんですね。
 そうではなく、「あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って、戸を閉めて、しかも隠れたところにおられる神さまに祈りなさい」と。つまり、「祈りは独りでしなさい」と言う事です。誰にも邪魔されない、そして、誰にも見られていない、誰も見てくれない。見せて誰かに「ああ信仰深いな」と褒めてもらえもしないし、誰も聞いていないから誰に共感してもらうこともできません。
 本当に誰もあなたが祈っているとは知らないところで、一切の飾りも、一切の見栄も恥も捨てて、自分しか知らない自分の心で、見えない所に隠れておられる神に言葉をかけてごらんなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる神が、誰も知らないあなたの真実に対して、耳に傾けてくださるであろう。
 こうでなければプラクティスにはなりません。実際、イエス自身もよく独りで祈りました。彼の場合、多くの人びとに追いかけられて、プライベートな空間がほとんど無かったようなので、山や湖に独りで出かけて行って祈りの時を持ったように聖書には書かれています。彼自身が誰にも見られず、誰にも聞かれない祈りのプラクティスを大切にしていたことがわかります。
 この聖書が書かれたのは、およそ2000年前で、この時イエスが示したのは、「誰もいない所で、誰にも知られずに祈る」という方法でした。
 その後、キリスト教会は瞑想や、修行、労働など、様々な方法で神に心を向けるプラクティスを開発してきましたが、近年は特にそのような信仰を深めるプラクティスの価値は忘れ去られ、そのための脳の機能は盲腸のように忘れ去られたようになっています。
 しかし私は、この脳の未開発の部分、特に日本人はその才能をほとんど開発しないままに一生を終わっている人が多いように思いますが、それは惜しいと思うのですね。
 信じる気持ちを深めるプラクティスを重ねることで、私たちはより深い精神性を体験しながら生きることができると思うのですが、いかがでしょうか。
 本日のお話はここまでと致します。





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