伝道ってなんだろう?


2018年9月2日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る







聖書の朗読&お話(約22分)


 マタイによる福音書28章19-20節 (新共同訳)
 さて、十一人の弟子達はガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスがに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
 イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。




▼世界宣教命令

 おはようございます。今日は、「伝道ってなんだろう」という題でお話をさせていただきます。今日、お読みしました聖書の箇所は、大変よく知られている箇所で、通称「世界宣教命令」と呼ばれているところなんですね。「世界宣教命令」、かなり大仰な感じの呼び名です。
 「命令」と言われると、なんだかとても強制的な印象を受けてしまいますが、まあこういう風に「神が命じておられるだ! だから進めなければいけないのだ!」という使命感とか誇りというのは、ついつい力んでしまったクリスチャンが抱いてしまうものなのですね。
 よくカトリックや聖公会などよりもプロテスタントは伝道熱心だと言われますけれども、確かにたとえば私の職場の生徒が授業の課題で教会に行ったりすると、プロテスタントの教会で、すごく歓迎してもらえて嬉しい思いをする反面、帰り際には「また来てね〜!」とすごく勧誘されたので怖かった、という感想を抱いて帰ってくるんですね。
 もちろん教会の人々は、伝道するのは良いことだと思っていますし、今いる教会員の人たちも、若い頃から「世界に告げよ〜、野を超え、山超え〜♫」と歌いながら伝道活動をやってきた人も多く、伝道活動そのものが、みんなでやると楽しいもんなんですよね。だから、つい熱心にやってしまう。
 そして、そんな盛り上がった伝道活動を後押ししてくれるのが、この「世界宣教命令」の聖書の言葉なんですね。
 ところが最近では、伝統的には教会には若い人がめっきり来なくなってしまって、教会の存続の危機にさらされているところも少なくありません。だから、若い子がやってくると、有頂天になってしまって、ムキになって次も来い、次も来いとしつこくからんで、逃げられてしまう……といったことを繰り返しているところもあります。
 
▼ガリラヤの山

 そもそも、イエスが本当に「すべての民を弟子にして、洗礼を授けなさい」と言ったのかどうかなんですけれども、これはかなりイエス自身が言ったというよりは、マタイ教団での命令であるといった方が良さそうだなーと感じますね。
 というのは、11人の弟子たちはガリラヤに行って復活した後のイエスと再会した、ということになっていますけれども、これはこの28章の10節、空っぽのお墓を見つけた女性たちに「兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」と言うお墓のところにいた天使が言うんですね。それに対応して続く話として書かれているんですけれども、復活したイエスとの再会というのは、福音書が後に書かれるほど、だんだんと早く現れたように描かれているんです。
 最初に書かれたマルコによる福音書では、復活した(再び起こされた)と言われているイエスは姿を現しません。
 次に書かれたマタイでは、ここに書かれているように、ガリラヤ地方に(まあ普通に徒歩で旅をして1週間はかかりますから)たぶん1週間後に現れたと。
 次に書かれたルカでは、お墓が空なのが発見されて、おそらく翌日くらいに、エルサレムで潜伏していた弟子たちに現れたと記されています。
 そして一番最後の福音書のヨハネには、お墓の前でマグダラのマリアに現れたと書かれています。
 こんな風に後になるほど、最初は姿を見せなかったイエスが、だんだんと早く近く現れるようになるんですけど、これは、ぼくの考えでは、イエスが見える姿で現れる話は、どれも創作されたものなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 そして、16節には、弟子たちは「イエスが指示しておかれた山に登った」と書かれていますが、この「山」というのもマタイ独特の言葉遣いで、これは教会のことを指す暗号のような言葉なんですね。
 ですから、ルカでは「平野の説教」と呼ばれているイエスの教えが、マタイでは「山上の説教」になりますし、ルカでは「野原に残しておいた99匹の羊」のたとえ話は、マタイでは「山に残していた99匹の羊」になるわけですね。マタイでは全部、山で起こったことは教会に関する教えとか戒めになっています。

▼帝国主義者イエス?

 そこで、今日の聖書の箇所に戻りますけど、山でイエスが命じられた、ということは、イエス自身がこの通り言ったというよりは、マタイ教団の教会における命令だと認識したほうがいいのかな、と思うのですね。
 だいたい、そもそもイエスはキリスト教会も建設したわけではありませんしね。人に洗礼を授けたということもおそらくないですし。
 しかも、この箇所の最後、つまりマタイによる福音書の最後ですが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉で締めくくられていますよね。これも、この福音書の初めにある「インマヌエル」という言葉に対応する文学的技巧なんですね。
 イエスの誕生物語の中に出てくる、「その子を『インマヌエル』と名付けなさい」という話がありますよね。「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と書いてありますよね(1章23節)。
 ですから、マタイによる福音書は、「神は我々と共におられる」から始まって、イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」で終わるという形になっているんですね。
 まあそういうわけで、グイグイ外堀から埋めてきましたが、結局これはイエス自身が「やれ」と言ったことではないだろう、と思われるわけです。
 もちろん、イエスが言わなかったから大事ではないというわけではなく、マタイの教会の使命感をよく表したものである、ということは言えるわけですね。
 ただ、マタイが「すべての民をイエスの弟子にしろ」と。この「すべての民」というのは、正しくは「すべての民族を」と訳せるのですが、「すべての民族を」とあえて捉え直してみると、ユダヤ人だけではなく、シリア人もコリント人もガラテヤ人もマケドニア人も、そしてギリシア人もローマ人も、全ての民族をキリスト教に改宗させよという、割と帝国主義的な発想に近いなぁという一面が浮かび上がって来ます。
 まあ「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言うくらいですからね。これはもう、ローマ帝国の皇帝よりも偉いんだぞ、ということです。
 実際マタイというのは、最初から「新しいユダヤの王としてお生まれになった方はどこですか?」という話から始まるわけですから、そういうことが言いたいのがマタイによる福音書だったんだなぁということですね。
 すなわち、マタイにしてみればイエスは、当時「神の子」と呼ばれて崇められていたローマ帝国の皇帝に対抗し、それよりもすごい本当の神の子でござるぞ、ということを主張したかった。そして、ローマ帝国よりももっと強い力で全世界を制覇するぞ、というメッセージを、この「世界宣教命令」の言葉に込めたんだろう、という意図が浮かび上がって来るわけです。

▼なぜ伝道しなくてもいいのか

 この聖書の箇所があるから、その後のキリスト教の歴史の中で、侵略・征服とキリスト教の伝道が一体していったのだと言っても過言ではないでしょうね。この聖書の箇所があるために、ヨーロッパ人・アメリカ人はたくさんの異教徒を弾圧・虐殺しながらキリスト教を広めていった。
 しかし、こういう聖書の言葉があったからこそ、私たちの住んでいる日本列島までキリスト教が届いたということも言えます。
 ですから、クリスチャンは自分達がイエスのことを知らされるためにも、その背後にはたくさんの血が流れていることを、心のどこかでは自分達が背負っている歴史の一部として覚えておかねばならないと思います。
 そして、私たちはこれから先、私達がどうやってイエス・キリストの愛、神さまに愛される喜びを伝えてゆくのかを改めて思い直してみたいと思います。
 私は、これまで申し上げて来たような、とにかく世界のどこにでも出かけていって信者を増やせ、というような伝道の仕方をする時代は終わったのではないかと思っています。
 そう思う理由の1つは、先ほども申し上げたように、これまでのキリスト教の伝道は、やや力ずくであり、政治的な力関係や軍事力が背景にあって、先進国の宗教に改宗するという形になった人も多かったのですが、これからはそういう形で1つの宗教が大々的に力を得て広められることは少ない。というより、そんな形で信者を増やすということは、もう歴史上の反省からして、国際世論的に許されないだろうという予想です。
 もう1つは、日本でのおよそ150年間の伝道によって、人というものは説得されて宗教に入るというものでもないのだということを、いい加減に私たちは学ばなければならないのではないかと思うからです。
 人は理屈で説得されて動くものではありません。そして思想や信仰というものは特に、絶対に正確に他人に伝わるものではありません。
 信仰というものは、他人にきっかけを与えられることはあったとしても、いちばん核の部分はその人の内面に自発的に起こるものですし、その信仰が起こるということも、神さまの導きの中で起こる出来事です。
 そして最後に、実はキリスト教について興味のある人は、すでにキリスト教についての知識は一通り知っている、あるいはちょっと本屋やネットを探ればすぐにわかるので、今更さほど説明する必要もない時代だということです。
 日本には、キリスト教について知りたいという人はたくさんいるので、その手の情報は世の中にあふれかえっています。だから、「キリスト教ってこういうものです」ということをわざわざ説明する必要は、もう日本では無いのです。
 では、何が必要なのでしょうか。

▼人ひとりを大切にすること

 今、日本のクリスチャンに求められていることは何でしょうか。
 それは、言葉で言うのは簡単ですが、実行するのは私自身いつも困難を覚えていることです。
 それは、自分が世の中で接するすべての人に、真心からその人に関わるということです。相手のために良かれと思うことを、自分のできる限りに行うことです。自分よりは人によりよく生きてもらうためにできることをするということです。
 もちろん、それは自分を犠牲にする必要は無いと思います。もし自分が無理をしていたら、それはすぐに相手に気づかれます。そうするとかえって好意が負担になります。
 ですから、出会う人出会う人、「この人も神さまが愛しておられる人なのだな」と思って接することから始めればいいと思います。
 何かを伝えようなんて思う必要は全くありません。
 つまるところ、「愛する」ということに尽きると思います。
 私がこれを言葉にすると、口幅ったいというか、似合わない気もしますが、そしてなかなかそれをきちんとできたことはないのですが、やはり「愛する」ということに尽きるでしょう。
 今の日本は、国のトップに立つ人たちから、最も貧しく小さな存在として扱われている人まで、愛されるということがとても少ない社会ではないかと思います。愛が欠乏している社会です。
 この世の中に対して、私たちは「あなたは愛された存在なんですよ」ということを言葉ではなく、行いで証ししてゆく。それは何にもまさる伝道なのではないでしょうか。
 「己を大切にするがごとく、他の者を大切にせよ」。これをそれぞれ自分のいるところで、やれるだけやってみる。このような伝道を続けてみたいと思うものです。皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。
 本日の説き明かしは以上です。





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール