風は思いのままに吹くのだから


2018年9月16日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約22分)


 ヨハネによる福音書3章8節 (新共同訳)
 霊は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。




▼霊は風
 
 おはようございます。今日は「霊」についてお話ししてみたいと思います。
 皆さんは聖書における「霊」とはどんなものだと思っていらっしゃるでしょうか?
 幽霊みたいなもの、霊魂みたいなものと考えていらっしゃるでしょうか? 私たちは肉体と霊でできていて、肉体が死んでも精神が残る、といったような精神の部分を指しているとお思いでしょうか?
 結論から言いますと、聖書の「霊」という言葉で言われているのは、「風」です。
 ご存知かも知れませんが、「霊」という言葉は新約聖書のギリシア語では「プネウマ」と言います。
 「プネウマ」とは「霊」とも訳されますが「風」とも訳されます。
 じゃあ「プネウマ」というのは、霊という意味と風という意味の二重の意味があるのかというと、そうではありません。
 今から2000年前の古代人は、私たち現代人が「風」だと思っているものを「霊」だと思っていたんですね。
 現代の私たちは、地球上のどんな物質でも固体と液体と気体という3つの形態で存在していて、空気は気体であるというふうに認識しています。そして、風というのはその空気という気体の動きであって、そこに特別、命とかが宿っているとは考えません。
 しかし、古代人はそういう風には理解していませんでした。古代人にとっては、風が霊だったんですね。そしてそれをプネウマと呼びました。
 そして、人間を生かしているの鼻や口を出入りしている霊の動きであり、この霊の動きが止まってしまうと人間も含めた動物は死んでしまうと考えました。
 また、霊には「清い、聖なる霊」すなわち「聖霊」と、「汚れた、悪い霊」すなわち「悪霊」とが存在していて、汚れた悪い霊が体の中に入ると病気を引き起こしますし、清い聖なる霊が体の中に入り、その人の中に満ちると、その人は清められて新しい命の息吹の中に生まれ変わると考えられていたわけです。
 ですから、今日読んでいただいた聖書の箇所の一つ前の節まで、「霊から新たに生まれなければならない」ということを何度もイエスは繰り替えして言っていますが、これはそのようにして、新しくきれいな空気を深呼吸して、心身ともにリフレッシュするという事が大事ですよ、とそういう現代的な言い方をすると実につまらない表現になりますけれども、例えば山に登って、新鮮な美しい空気を深呼吸すると、心が洗われるような気持ちを味わうという経験をした方もおられると思いますし、私もあります。そういう経験を、古代人は「霊によって新たに生まれ直す」と表現したわけですね。

▼風は思いのままに吹く

 今日お読みいただいた聖書の言葉には、「風は思いのままに吹く」と書いてあります。別の訳し方をすると「風は己の欲するところに吹く」とも言えます。あるいは「霊は吹きたいところに吹く」と訳している本もあります。
 風、すなわち霊は自らの意志や感情を持っていて、その吹き方は人知を超えている。人間の知恵では霊がどこから吹いてきて、どこに吹いてゆくのかをとらえる事はできないのです。そしてまた、どこに留まり、誰のところに入るかもわからないのですね。
 だから私たちは、霊がどのように動くのか、謙虚な気持ちをもって受け止めなくてはいけませんし、その風がここに吹き寄せてくださるのか、それともどこか、誰か他のところに行ってしまうのかということは、全く風さん(霊さん)の自由であって、私たちは特に清い霊(聖霊さん)にこっちに吹いてきてほしいわけですが、私たちはそれを願うのであれば、祈ってお願いするしかない、ということになるわけです。
 そして、そのような清い風に満たされて、新しい魂に生まれ変わった人自身も、本当に自由な者となって、風のようにこの世を生きてゆく事ができるのだ、と言っているのですね。
 よく三位一体の考え方に基づいて、「神さま、イエスさま、聖霊さま」と呼ぶクリスチャンの方もおられて、その「聖霊さま」ってよくわかりません、とも言われるんですけれども、古代人風に考えると、清い風には、ちゃんと清い風の心があり意志があり感情があるので、「聖霊さま」と呼び掛けるのも特に違和感はなかっただろうと感じられるのですが、いかがでしょうか。
 例えば、私が聖餐式の司式をするときにも、お祈りの中で「私たちの間に聖霊を送ってください、留まってください」と願いますけれども、あれも古代人の気持ちを想像しながら、願っているわけなんですよね。まあ本当だったら、風のない室内でやるよりも、風通しのいいところでやったほうがいいのかもしれませんけれども、まあそういうことをお願いしながら、私たちが一緒に同じ霊を呼吸できることを改めて意識しようと試みているわけなんですね。
 同じ霊を呼吸しながら、同じ命の宿ったパンとぶどうジュースを飲むことで、同じ清い霊に満たされるということをイメージしているわけです。

▼信じることとは
 
 信仰を持つということ、信じることというのは、理屈で何か教義や神学的や、あるいは哲学的な何かを十分学んだからなれるというものではなくて、この人間の知恵を超えたものが、風のようにこの世には広がって、動き回っているだということを感じる、あるいはイメージする感性を持っているかどうかということではないかと思うんですね。その感性があって、人間には及ばない力というものがあるのだなあと思う謙虚さがあれば、もう十分信仰者ではないかと思います。
 では、数ある宗教の中で、なぜキリスト教なのかというと、それはイエスによってそのことを教えられました、知らされました、ということなのですね。そこにはイエスとの出会いがあった、その出会いは自分にとって運命のようなものかも知れないな、そういう時を与えられたのも神さまのおかげかな。そんな風に感じるから、キリスト教という道から信じるということを大切にする、この信仰の世界に入っていくのではないでしょうか。
 そして、人知を超えた不思議な清い風に吹かれ、それを呼吸し、いつも新しい魂に生まれ変わろうとすることによって、私たちは自由な霊の自由な心を自分の中に満たす事ができます。
 信じる気持ちに満たされた人は、本当に自由人になるはずです。
 自分の凝り固まった思い込みや偏ったものの見方、そして振る舞い方が破られ、解き放たれた身軽な精神を手に入れるようになります。
 もちろん、パウロの手紙に書かれた言葉を借りれば、私自身もすでに完全な者になったとか、すでにこの清い霊を捉えたというわけでもありません。いや、むしろこの清い風は自由の霊なのですから、私たちの思い通りに自分の中に取り込むということはあり得ません。
 しかし、「どうか聖霊さん、私の中に入ってきてください」、「神さま、私の胸の中いっぱい満たしてくれるように、清い風を送ってください」と祈る心が、だんだんと自分を自由に近づけてくれるのではないかと大いに期待をしています。
 どうか皆さん、自由の風に吹かれて、その風を深呼吸しながら、いつも新鮮な気持ちに満たされることを願いつつ、生きてまいりましょう。
 本日の説き明かしはここまでといたします。






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