裏切り者でさえ招かれる食卓


2018年10月21日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約20分)


 マルコによる福音書14章27−31節 (新共同訳)
 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。
 「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」
 と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。
 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。




▼壊された世界聖餐日
 
 おはようございます。今日は久しぶりに聖餐についてと説き明かしをしたいと思います。
 実は先々週が「世界聖餐日」という暦になっていたんですが、先々週は子どもの日礼拝だったので、今日、その代わりに聖餐についてお話ししようと思いました。
 毎年10月の第1日曜日は「世界聖餐日(World Communion Sunday)」といって、元々は1940年、つまり第二次世界大戦が始まる直前ですけれども、北米キリスト教教会連盟によって「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で聖餐式を守り、国境、人種の差別を越えて、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであることを自覚し、お互いの抱える課題を担い合う決意を新たにしよう」と、そういう呼びかけを始められたものなんですね。
 まあ、このような素晴らしい内容の呼びかけが行われた直後に、第二次世界大戦が勃発したということは非常に皮肉なことと言わざるを得ないです。
 これが戦後になってから、世界キリスト教協議会(WCC)で取り上げられて世界のキリスト教会に広まり。日本キリスト教協議会でも採択することになったわけです。
 ただ、本来はお互い異なる状況の中で、聖餐を通して一つであることを確認する、大変良い意義を持った記念日なんですが、現在、日本基督教団の中では、この聖餐を使って、かえって分裂と排除を進めようとしている人々がいて、その人々の方が教団内では政治的に力を持っています。
 そういうわけで、今は聖餐を通して、あらゆる国境、人種、民族、政治、経済による分断を越えてゆこうという世界聖餐日の趣旨は、見事にこの教団においては崩されてしまっているのですね。

▼聖書に書いてある通り

 聖餐によってクリスチャンを分断しようとしている人たちがまず持ち出すのは、聖餐というのは洗礼を受けた信徒しか受けることができないものだという主張です。そしてその理由は、イエスは12人の弟子だけにパンとぶどう酒を分配したじゃないかというものですね。
 イエスは自分の弟子にしか聖餐を与えなかったと書いてあるのだから、イエスのことを信じますと信仰を告白した者、あるいはイエスの救いの意味をちゃんと理解した者でないと聖餐に与ることはできないと言うのですね。
 しかしそれを言い出すと、例えばイエスはこの聖書の記事では男性の弟子たちとしかパンとぶどう酒を分かち合っていないように読めますが、現在ほとんどの教会では女性も聖餐式に参加していますが、あれは大丈夫なのでしょうか?
 どう彼らは説明するのでしょうか? 女性を無視すると教会が立ち行かなくなることは経験上明らかなので、女性が聖餐に入ることを許したのでしょうか? もしそうならば、聖書に忠実にと言っている割にはご都合主義なのではないでしょうか。
 と言うわけで、彼らも「聖書に書いてある通りに」と主張しているにも関わらず、聖書通りに実践しているというわけではないことがわかります。
 
▼思いを託す

 逆に聖書に書いてある通りに解釈しようとすると、イエスは裏切り者たちばかりに聖餐を配って分け合ったということがわかります。
 今日読んだ聖書の箇所で、イエスは弟子たちに「あなた方はみんな私につまずく」と言っています。そして「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」という、これは旧約聖書のゼカリヤ書の13章7節の引用なんですけど、そういう言葉で自分が神様に苦しみを与えられると、羊たちはみんな逃げてしまうんだ。弟子たちはみんな逃げてしまうんだ、と予言する。
 そして更に「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」と言葉を続けます。
 ということは「みんな私を見捨てて逃げてしまうんだけど、その後、私はガリラヤに行く。みんなもいずれはガリラヤに戻ることになるだろう」ということをも予言していることになります。
 実際には、マルコによる福音書には、このガリラヤに戻ったイエスと、イエスを弟子たちが見つけるとか、そういうことは書かれていません。お墓の前で女の人たちも逃げ出してしまって、これで男も女も逃げてしまった……それで終わり、というのがマルコによる福音書のエンディングですね。
 これはマルコが読者に、わざとその部分を語らないことで想像に任せたり、あるいは「あとはあなた方次第なんですよ」と投げかけた形で終わらせているのだろうと言われています。
 みんな逃げてしまった、このあとガリラヤという辺境の地の、生活の現場の真っ只中で、イエスが再び起き上がっているのを発見するかどうかは、あなた方次第なんだよ、と私たちに思いを託しているんですね。

▼不都合な真実

 さて、また今日の聖書の箇所に戻りますが、イエスが「みんな俺から逃げてしまんだよな」と言うと、ペトロは「たとえみんながつまずいても、私はつまずきません」と言います。イエスはこれに応えます。「あなたは今夜、一番鶏が2度鳴く前に3度私は知らないと言うだろう」と。
 それでもペトロは「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなんで決して言いませんよ!」と言い張ります。他のみんなも同じように言ったと書かれています。
 さて、結果的にこの弟子たちはどうなったでしょうか。
 これは皆さんもご存知の通り、全員イエスを見捨てて逃げました。
 よくユダは裏切り者だと言われますけれども、結果としては全員がイエスから逃げました。ユダはイエスの逮捕を手引きしたとされていますが、その逮捕の現場で弟子たちは全員逃げたので、実は全員裏切り者なのですね。
 ペトロだけは後悔して、イエスが連行されていった後を付いていったようですが、その先でイエスが予言した通りに、「イエスなんて奴、知ってるわけねえじゃねえか!」と3回も言ってしまいますので、彼も裏切り者の筆頭だと言われも仕方がない。
 このペトロの裏切りというエピソードは、初代教会にとっては都合の悪い話です。しかし、マルコだけでなく新約聖書の全ての福音書に記録されています。後々初代教会の重要な指導者になってゆくペトロにとって、この記録は非常にマイナスの記憶のはずですが、どの福音書記者もこの出来事を語らないわけにはいかなかった。ということは、やはりこのペトロによるイエスへの裏切りということは、福音書記者たちでも隠すことのできないほど人々に知られ渡っていた出来事、つまり「不都合な真実」というやつだったのではないかと思われます。
 現在の日本では、記録や記憶は失われ、文書は改竄されるのが当たり前のようになっていますが、さすがに福音書記者たちにもあったことをなかったとは書けないという良心があったのでしょうか。書かないということが許されないほど重要な事件だったんでしょうね、ペトロの裏切りというのは。

▼裏切り者が招かれた

 そういうわけで、イエスの聖餐をいただいた弟子たち全員は、全員が裏切り者です。しかもイエスはそれをあらかじめ知っていてパンとぶどう酒を一同と分け合っています。
 ということは、イエスの忠実なしもべたちが聖餐に与るわけではないということです。こいつらは裏切るぞと知っている人間にイエスは自らの体と血を与えるということです。
 よく「あなた方はふさわしくないままで聖餐に預かってはならない」とパウロによる手紙に書かれていると主張する人もいますが、もし、「ふさわしくない」ということの意味が、イエスに忠実ではないとか、洗礼を受けていないという意味であるならば、実はイエスは、全くふさわしくない者たちに聖餐を与えたのですね。
 まあ、それ以前に、イエスが弟子たちに洗礼を授けたということもまずなかったので、ですから、洗礼も受けてないし、ふさわしくないとしか思えない人たちにイエスは聖餐を与えたと。
 この「ふさわしくない」というのも、本来は信仰があるないと関係ない話です。信仰のある人の中でもふさわしくない人々がいるとパウロが言っているということなんですが、この話はまた別の機会にしたいと思います。ここでは、裏切り者がイエスに招かれたのだということを心に留めておきましょう。

▼多くの人のために

 更に今日確認しておきたいのは、イエスが晩餐の場でぶどう酒を取って、「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(マルコ14.26)と言っていることですね。
 イエス自身が「これは多くの人のためのものだ」と言っています。ということは、イエスは目の前の弟子たちだけではなく、他の多くの人々のことを念頭に置いているということです。
 この時、イエスの心には、飢えている男だけでも5000人あるいは4000人を数えたと言われる群衆が植えている様や、男性だけで食事をしている所に罪深いと言われている女性が入ってきた様子や、「あんな奴らと食事を共にするのか」と言われていた罪人や徴税人たちと一緒に囲んだ食事の場面などが浮かんできたのではないでしょうか。
 それらの「多くの人たちのために」私は血を流すとイエスは言い残した。それならば、イエスは誰でも自分の食卓に招く人だということではないのか。
 イエス自身が最後の晩餐の場面で「多くの人のために流される血だ」と言っているのですから、これは多くの人と一緒に共有するべきものなのです。そして、そのメッセージをイエスは自分を裏切るような弱い人たちに託した。
 むしろ、イエスは裏切り者や弱い人、罪深いと言われている人や、汚れていると決めつけられている人こそを選んで自分の食事に招いたことが福音書には記録されています。
 「これはふさわしくない」、「あれはふさわしくない」と敬虔そうな信徒に言われてしまいそうな人、そういう人こそ、イエスは招いて、「あなたたちのために私は血を流すことになるんだよ」と話して聞かせました。
 ということになると、多少誇張した表現になりますが、つまる所、イエスの聖餐は型にはまった宗教に対する抵抗運動でもあるとも言えそうです。
 しかし、そこまでは言わずとも、冒頭に申しました「世界聖餐日」の趣旨、現代風に少し言葉を付け加えて言うならば、「全世界の教会がそれぞれ聖餐式を守り、国境、人種、民族、セクシュアリティ、文化、政治、経済、そして神学による差別を越えて、キリストの恩恵において一つであることを自覚し、お互いの抱える課題を担い合う」という行動指針。これは、イエスが人生最後の晩餐において伝えようとしたことにピッタリと重なるように思われます。
 私たちも、人を「ふさわしい」、「ふさわしくない」と差別することなく、どなたをもお招きする聖餐をこれからも続けてゆきたいと思いますが、いかがでしょうか。
 本日の説き明かしは以上です。
 




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