キリスト教の愛と法


2018年10月28日(日) 

 日本キリスト教団 枚方くずは教会 主日礼拝 宣教

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聖書の朗読&お話(約21分)


 マルコによる福音書3章1−6節 (新共同訳)
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。
 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
 彼らは黙っていた。
 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。




▼『愛と法』

 先日、ある映画を観まして、とても感銘を受けました。『愛と法』というタイトルで、大阪で法律事務所をやっている2人の弁護士さんの日々をとらえた、ドキュメンタリー映画です。ですから作り話ではなくて、実際に起こっていることを記録した映画です。
 この弁護士さん2人は、ゲイのカップルで結婚もしています。だから生活も仕事も二人三脚で、ほぼいつも一緒に行動しています。映画は、彼らが取り組むさまざまな事件や彼らの日常の暮らしや、彼らが弁護する人、出会う人、さまざまな人を通して、マイノリティってなんだろうか、人がありのままに生きるってどういうことだろうか、人が人として大切にされるというのはどういうことなんだろうか、といったことを問いかけてきます。
 2人はゲイであるということで彼ら自身がマイノリティなんですけれども、彼らが裁判で弁護する人たちも、ありのままの自分の表現や主張、そして自分の存在そのものを社会に認めさせるために大変な苦労をしている人たちばかりです。
 例えば、ゲイを始めとする性的少数者、生まれた時に何らかの事情で出生届が出せずにそのまま無戸籍になったままの人、作った作品が猥褻だと言われて捕まったアーティスト、君が代を起立して歌うことを強制されて立たず歌わずを通したら処分されてしまった先生。また、裁判だけでなく、学校も家庭も失って行き場を無くなってしまった少年を自宅に引き取って、3人の不思議な生活が始まったりして、彼らは仕事でもプライベートでも、人を助けて生きてゆきます。
 彼らや彼らが弁護している人たちを支えているものの1つは、「日本国憲法」の第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という条項です。これが守られていない。その状況に彼らは今日も……いや今日は日曜日だから休んでいるかも知れませんが、日々闘っておられます。
 まあ2人の弁護士が戦っている姿を描いていますというと、どんな格好いい映画かと想像される方もおられるかも知れませんが、そういう緊張感が漂う感じではなくて、どちらかと言うと緩やかというか、大阪弁でしゃべり、笑ったり泣いたり、悲しみありユーモアありで、観終わった後には何だか周りの人に優しく接して生きていきたいなという感じが残る映画でした。
 いま、全国に少しずつ上映が広がっていて、関西ではそろそろ終わりかけ、今は名古屋から関東に移っていっていますが、まだ大阪では「シネ・ヌーヴォX」という映画館で11月末まで上映しているようなので、是非足をお運びになって、ご覧になることをお勧めします。

▼法を愛で運用する

 この映画を通して、憲法第13条を信じて闘う人びとを観て、私はまるでこの2人は、イエス様のような働きをしているんだなぁと感じました。
 映画のタイトルは『愛と法』で、観る前は愛と法律が対立して葛藤を起こすような話なのかなと思っていたのですが、観終わった後でわかったのは、実は「法というものは愛をもって運用されなくちゃいけないんだ」ということでした。
 かつて2000年前にイエスが行なっていたことも、「律法を愛で運用する」ということでした。その愛も神さまからの愛です。そもそも律法というものは神さまが人間への愛から、人間の幸せを願って与えたものなのに、運用する側の人間がその愛を見失ってしまっている。そして、愛の無い運用によって、かえって人を罪に定め、罰を与えるための理由としてしか律法を使っていない。そんな律法学者に庶民が苦しめられていたのに対して、「律法は人間を守るために与えられたものだ」という原則に立ち戻って対抗したのがイエスでした。
 今日の聖書の箇所で「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらが良いか」と言ったイエスの言葉には、そのような愛の無い律法学者たちへの憤りがよく表れています。
 他の聖書箇所でも、「安息日は人のためにあるのか。それとも、人が安息日のためにあるのか」という言葉がありますが、これも本来の律法の運用のあり方についてのイエスの問いかけです。

▼法三章

 ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、「安息日」というのは、神さまがモーセを通して人間に与えた最初の律法「十戒」の中に含まれた項目です。
 たった10個の項目しか神は与えなかったということは、10個もあれば十分だと神さまは考えておられたということでしょう。「法三章」という言葉も昔から言い伝えられていますように、法律というものは多すぎない方がいいとだという考え方があります。松下幸之助さんも「真の先進国というのは、国民に良識があって、法律はごく少なくて治まる、いわゆる法三章の国だと思う」とおっしゃっていたようです。確かに国民の徳が高ければ、法律が少なくても国は治まるという考え方には一理あります。
 何が人間の徳なのか、何が正しいことなのかといった論議はひとまずおいたとしても、多すぎる法律は人を不自由にするだけであり、法律はできるだけ少なくして、むしろ自由意志で良心的な判断ができる人を生み出す方が、はるかに世の中が伸びやかになるだろうと、私も思います。
 おそらく神さまもそのように考えて、人間には簡素な法律で十分だと思われて、たった10章の律法しか与えなかったのでしょう。
 事実、十戒にある「何々してはならない」と一般に訳されている言葉ですが、これは単なる禁止の命令ではなく、元々のヘブライ語では「あなたは何々しないね」、あるいは「あなたは何々しないはずだ」という、願いと信頼のこもったニュアンスであると言われます。
 つまり、神さまは人間を信頼して、「あなたは殺したりしないはずだよね」、「あなたは盗んだりはしない」、「あなたは嘘をついたりはしない」と分かりきったことを改めて言い含めるだけで十分だと思っておられるのです。
 ということは、人間にとって大切なことは、「私は神さまから信頼されているんだ。その信頼を裏切らないようにしよう」と念じて日々を生きることだけです。
 しかし、その神さまからの信頼を裏切る人が多すぎたのでしょうか。人はやがてたくさんの法で縛られなくては、良識ある社会を営めなくなったのか、ユダヤ人社会では膨大な量の細かい律法を作り出すことになってしまいました。

▼律法学者たち

 それに伴って律法学者と呼ばれる人々が現れ、学問のない庶民を指導するようになりました。しかし、イエスの時代には、弁護士に当たるような働きをする律法学者は存在せず、もっぱら庶民が律法を忠実に守り切れない状況を取り締まっては、「お前は神に呪われている」とか「お前は神に裁かれて地獄の火に焼かれるだろう」と言って、いわば神の名を借りて庶民を罪に定める役人の役割に収まっていました。
 律法を忠実に守りきれない庶民といっても、特に極悪人が多かったわけではなく、たとえば当時はひどい経済格差があり、祭司や律法学者など裕福な階級は70-80まで生きることができるけれども、貧しい庶民の平均寿命はせいぜい30歳といわれるほど、栄養も衛生も事欠いていたような状況です。
 貧農階級の人などは、畑の作物のほとんどを年貢として持っていかれると、税金を払うこともできません。税金の中には「神殿税」といって、神に直接献げるものとされているものもありました。この神殿税の納税を怠ると当然「神への冒涜だ」と告発されます。
 他にも水が足りなくて浄めの儀式ができなかったり、休日返上で働かなくてはならないために安息日が守れなかったり、守りたいと思っても守れないような状況が貧困層を取り巻いていました。その貧困層に対して、「お前がそのように生まれついたのは、先祖が罪を犯したからだ」とか「今もお前は罪を犯し続けている」と裁き、差別していたのが祭司や律法学者などの神殿を本拠地とする貴族たちでした。貧困者をさらに突き落とし、自分たちはそこから出てくる税金で飯を食っているという、どこかの国のようなロクでもない政治をしていたわけですね。

▼知恵としての法

 これに敢然と立ち向かったのがイエスでした。
 イエスは神さまが人間に与えた本来の律法の精神に立ち戻りました。
そして人を癒す行為を行なったわけです。
 本来の安息日の律法には、「週に1度は休みを取ることによって、疲れ切った体と心を回復しなさいよ」という神さまの愛がこめられています。つまり、人のために安息日があるという法解釈だったわけです。
 しかし、イエス時代の律法学者たちは「安息日に働く者は医者でも呪われる」という風に解釈します。つまり、安息日だったら病人・怪我人を見殺しにしても良いと言っているのと同じです。本来の安息日にあった人を大切にする精神は完全に失われて、逆に人を殺しかねないような法の運用がなされていた。そこにイエスの怒りが爆発したわけですね。
 その結果、イエス自身呪われた者、消さなくてはならない者として、命を狙われるようになってしまったのですね。
 イエスが命を張って教えてくれるのは、法というものは愛をもって運用しなければならないということです。それは人間の法律も神さまの律法も同じです。また、2000年前イエスが生きていたユダヤ人社会も現在のキリスト教会も同じことです。
 人を裁くために聖書に書いてある掟を利用することは、神さまの本意ではないかもしれない。クリスチャンは改めてそう気づくべきではないかと思います。
 神さまは人を裁いて呪うために律法を与えたのではありません。「これを破ったら地獄に落ちるぞ」ということを言うためではなく、人の安全と権利と健康を守るために、「これを守ればあなたたちは幸福に生きられるよ」という知恵として律法を与えたのでした。そのような単純な十戒の精神に私たちは戻るべきではないでしょうか。
 人を裁くための信仰ではなく、人を大切に扱うために律法を解釈し、運用する、そんな信仰を常に持ち続けてゆきたい。皆さんはいかがお感じになりますか?

 祈ります……

 




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