神さまは必ず見つけてくださる


2018年11月4日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約21分)


 ルカによる福音書15章11−24節 (新共同訳)
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。
 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。




▼死に方としてのキリスト教

 今日はキリスト教の暦では「聖徒の日」または「永眠者記念の日」とも言います。
 この時期は色々記念日が続いていて、10月31日が「宗教改革記念日」、11月1日は「諸聖人の日」(つまり、カトリックなどで崇敬している聖人たちや殉教した人たちのすべてを記念する日)ですね。「万聖節」とも言います。英語では「All Saints’ Day」とか「All Hallows’ Day」とも言います。この前日、つまりイヴはである10月31日は、「クリスマス・イヴ」と同じように「ハロウズ・イヴ」と言い、それが縮まって「ハロウィン」になったという説もあります。
 そして、万聖節に続いて、11月2日が「死者の日」です。これもカトリックの祭日で、信仰を持って亡くなった方々のことを思い、記念する日です。宗教改革ではマルティン・ルターを始めとして、これを無くしてしまおうという動きもあったようですが、一般民衆の反発が強く、無くすことはできませんでした。そうしてプロテスタントでも同じ趣旨でその近くの日曜日を「生徒の日」、「永眠者記念日」として記念礼拝を行うところがあるのですね。
 そういうわけで、この季節は亡くなった方々との霊と交わる時、日本の風習ではお盆と同じような時期なんですね。それで、亡くなった教会員の写真を並べて礼拝を守ったりする教会も多いです。
 そして、私たち生きている者にとっては、自分の人生もいつかは終わること。しかし、終わった後でも残った信仰者たちがいつまでも自分のことを思い出して、呼び起こしてくれる。そのような日があることを希望に抱くことのできる日でもあります。
 みなさんは、ご自身の人生をどのように終わりたいでしょうか。
 キリスト教は生き方の宗教である、という人はたくさんいます。
 しかし、人生の締めくくりは死です。死に方というのは、生き様の最終段階です。事故などで一瞬にして死ぬ人は少なく、多くの人は一定の時間をかけて死に向かって行きます。その死に様に、一番その人の本質が表れるのではないかと思います。

▼長距離ランナー

 私はここで、私の父の死に様の話をしたことがありましたっけ。
 私の父親はいわば今日の聖書の箇所の中に出てくる「放蕩息子」のような男でした。
 酒浸り、ギャンブル浸りはもちろんのこと、会社のお金に手を出して警察のお世話になったり、クビになったり。家庭内では妻や子どもに暴言を吐いて毎日のように泣かせる。老いて死んでゆく親の様子を見に行くことさえもしない。
 特に亡くなる前の数年間は借金まみれ、ヤクザや借金取りに家まで取り上げられて離婚して、その後も息子たちからお金を何度も借りては踏み倒し、最後は経営していたバーで働いていた女性の家に転がり込んでいるときに、胆管細胞ガンが悪化して入院し、あっという間に2ヶ月でサヨウナラでした。最後に着ていたヨレヨレの背広のポケットに残っていた全財産が70円ほど。
 最後の2週間程度は私と弟の息子2人が交代で病院に泊まり込み、夜通しほとんど15分おきに、父親の口の中にたまるタンを取ったり、掃除してあげたりしました。
 最後の朝は私が泊まっていた日で、明け方呼吸が急に苦しそうになったので、看護師さんを呼んだところ、「ご家族を呼んでいただいた方がいいです」と言われました。ご家族といってももう私と弟しかいませんから、弟を携帯電話で呼びました。弟はこれから出勤するというところだったので、これから高速道路ですぐに病院に向かうと言いました。
 ところがそれからが長かったんですね。1時間経っても2時間経っても弟が現れません。何度も電話をしますが、高速道路で朝の渋滞に巻き込まれて、動けなくなっていたんですね。
 そうこうしているうちに父の呼吸はどんどん苦しそうになっていきました。もう自然に息をする機能が止まってしまっていて、自分の意志で無理やり息を吸い込まないと空気が肺に入らなくなっていたんですね。ですから、長距離ランナーのように必死に息を吸って吐いて……を繰り返していました。
 さすがにそれが3時間を超えた時、父は限界を訴え始めました。声が出なくなっていましたので、荒い息で「もうあかん、もうあかん」、「死のう、死のう」と言いました。その度に私は「頼む、親父待ってくれ!」と叫びました。
 父は、ちょっと変わっていたというか、あっぱれというか、関西人なんですね。苦しい呼吸を続ける中でも、マラソンランナーのように腕を動かしたり、小鳥が羽ばたいているような真似をしてみたり、もう死ぬという最後の最後まで息子を笑わせようとおどけているんです。こっちはもう泣き笑いです。
 やがて父は「あと5分! あと5分!」と言い始めました。私は弟に電話をかけ、「今どこにおんねん!」と叫ぶ。弟も「今向かっとるんじゃボケ!」と返事をする。そして私は「親父、もうちょっと頑張ってくれ!」と声をかける。そして父は「あと2分、あと2分」。長距離ランナーも限界が見えて来ました。「死のう、死のう」。
 もうこれまでか、と思われた瞬間、病室に弟が踊り込んできました。「おう! 親父! 待たせたのう!!」

▼父を赦す

 その弟の姿を見ると、父はホッとしたように笑みを浮かべ、はあ……とゆっくり息を吐いて、自分から呼吸をするのをやめました。だんだん黒目がまぶたの裏に上がってゆき、父の意識が遠のいてゆくのがわかりました。
 私のそばに立っていた医師が「まだ声は聞こえていますよ。聴覚は最後まで残るんです」と言ってくれましたので、最後くらいは何か嘘でもいいことを言ってあげたほうがいいかなと思って、「親父ー! あんたの息子でよかったでー!」と耳元で怒鳴りました。
 父が元気だった時には、虐待はするわ、お金は持ち出すわ、はっきり言ってこの人の息子だったのは災難だとばかり思っていたのですが、嘘でもいいやと思いながら最後の親孝行のつもりで「あんたの息子でよかった」と言ってみて、まあ他にロクでもない恨み言を本人に聞かせるよりは、これでよかったかなと思いました。
 それに、実際父親の死に様を見ていて、最終的にこの人に残ったのは我々2人の息子だけであり、この2人が揃っているところを見るまでは死ねないと思って頑張ってくれたんだなとわかって、父を赦す気になっていました。私たちは父に愛されたという実感がほとんどないのですが、結局父は人の愛し方を知らなかっただけなのかなと思いました。
 愛し方を知らなかった。誰も教えてくれなかったし、学ぶ機会もなかったから、思うように人を愛せなくても仕方ないです。
 そんな方に思うと、多分神さまも父を咎めたりはしないだろうなとも思えました。人間である私があの人を赦せるのですから、神さまのような心の広いお方が赦せないはずがないです。きっと父は神さまに「おつかれさま。ようこそおかえり」と迎えられて安息に入ったのではないかと思います。
 まあ父が死んだ後も私たち兄弟は、父が残した多額の借金、愛人のもとに置きっぱなしにした多くの荷物など、後処理に苦労させられたわけですけれども、まあ亡くなった人にはもうお咎めなしです。

▼まだ遠く離れていたのに

 本日の聖書の箇所は、「放蕩息子の帰還」というよく知られたたとえ話です。放蕩の限りを尽くした息子が、父からもらった財産を無駄遣いしてすってんてんになり、食べるものにも困って父親のもとに帰る。すると父親はこの息子を大歓迎して宴会を始めるという物語です。
 この物語で特に私の心に刻まれているのは、20節のところです。
 「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15.20)と書いてあります。
 その中でも印象的だと思われるのは、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて」というところです。放蕩息子がまだ父親のもとに帰り着くより先に、そして息子が赦しを乞う前に、父親の方が息子を見つけて、父親の方から走り寄って来てくれて、抱擁してくれた。父親が自分から見つけてくださるということが、このたとえ話のありがたいところなんですよね。
 このたとえ話は、一般的には人生を破綻させるような過ちを犯した人でも神さまは受け入れてくださる、という意味に捉えられているでしょう。確かにそうだと思うのですが、それ以上に、生きている人でもそうなのであれば、亡くなった人はなおさらと私は思います。
 この世での人生がどんなに荒れすさんだものであったとしても、その疲れ果てた魂を、神さまは優しく迎え入れてくださるだろうということを、私たちはこの聖書の箇所によって予感することができます。
 世の中にはクリスチャンといえども、死んだ後はこの世での行いによって地獄に落とされる場合もあると言って人に恐怖を与えるような人がいます。また、洗礼を受けないままで人生を終えた者は、死んだ後、永遠の闇をさまよい続けるのだというようなどうしようもなく希望のないことを言う人もいます。
 しかし、もし私たちがこの世でいかに神も仏もないような、放蕩の限りを尽くすような人生を送ったとしても、神様は迎え入れて包んで下さるのではないかと、私は自分の父の死を見て思うのです。
 そして、あの父でさえ赦してもらえるのならば、負けず劣らず放蕩息子の血を引いた自分も、ひょっとしたら死んだ時には優しく迎え入れてもらえるかもしれないなと思ったりします。
 全ての人は赦される。全ての人が安息に入れる。全ての人がその苦労を報われる。
もし、神さまから遠ざかっていた人でも、きっと神さまの方が見つけてくださる。
そうであってこそ、私たちは安心して死ねるのであり、また既に世を去った方々のことを安心して思い起こし、祈れるのではないでしょうか。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。





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