クリスマスなんて無ければいい?


2018年11月25日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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 ルカによる福音書15章11−24節 (新共同訳)
 



▼クリスマスなんて無ければいいのに

 おはようございます。今日はクリスマスの飾り付けも行う日ですし、プレアドヴェントとして、クリスマスの準備を始める説き明かしをお話ししてみたいと思います。
 「クリスマスなんて無ければいいのに」と、シングルマザーの3人に1人が考えたことがある、と東京のあるNPO法人が調査した結果が発表されていました。また、10人に1人が子どもに「うちにはサンタは来ないよ」と伝えたことがあるということでした。理由は生活に余裕がないからです。(毎日新聞2017年12月16日11:04参照)
 厚生労働省の国民生活基礎調査というものによると、日本人の7人に1人が貧困率に引っかかっています。日本の場合、年間122万円、つまり月に10万円しか生活に使えるお金がない世帯が、15パーセント近くあるということですね。
 ひとり親世帯、その多くは母子家庭ですけど、貧困率は50パーセントを超えています。数にすると日本の母子家庭はおよそ124万世帯、その半分の62万世帯、母一人子一人の世帯だったとすると少なくとも120万人以上が貧困に苦しんでいると言われます。(岩崎博充「普通の日本人が知らない「貧困」の深刻な実態」『東洋経済 On Line』2018年5月30日6:00参照)
 クリスマスというと暖かい部屋でクリスマスケーキを食べて、眠っている間にサンタクロースがプレゼントを届けてくれる……といった当たり前のような景色が当たり前ではない貧しい家庭が、豊かだと思われがちな日本に、思いの外たくさんあるのですね。

▼保育園落ちた日本死ね

 2年ほど前には「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログの記事が全国的に話題になりましたが、皆さん憶えておいででしょうか。匿名の女性によって投稿されたもののようですけれども、ちょっと朗読してみます。「保育園落ちた日本死ね!!!」というのはこの記事のタイトルです。本文はこんな感じです。
 「何なんだよ日本。
 一億総活躍社会じゃねーのかよ。
 昨日見事に保育園落ちたわ。
 どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
 子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ。
 何が少子化だよクソ。
 子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。
 不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
 オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
 エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
 有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
 どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
 ふざけんな日本。
 保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
 保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
 国が子供産ませないでどうすんだよ。
 金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
 不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
 まじいい加減にしろ日本。」
(はてな匿名ダイアリー、2016年2月15日)
 これ、口調はあまりお行儀よくはありませんけど、今日お読みした聖書の箇所に記されている、いわゆる「マリアの賛歌」に勝るとも劣らない内容と勢いがありますね。
 あるいは、聖書に収められているこの「マリアの賛歌」の方がより過激かも知れません。
 「マリアの賛歌」は前半は神様への感謝と賛美になっていますが、後半を読むと、その感謝と賛美の裏には、権力者や富める者に対する怒りと、身分の低い虐げられた自分こそ神が選んでくださることへの喜びが渦を巻いていることがわかりますね。
 特に51節から53節にかけての言葉は力が入っています。読んでみましょうか。
 「主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた者を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカ1.51-53)

 これは、思い上がっている奴らは神が打ち散らすだろう。大臣は引きずり下ろされるだろう。財界人は腹を空かしたままとっとと去れ、と言っているんですから、「保育園落ちた……」よりずっと激しいです。「保育園落ちた……」の方はせいぜい「国会議員を半分位クビにすりゃ(保育園の)財源作れるだろ」くらいのことしか言ってませんからね。それに対してマリアは「社会全体転覆しちまえばいいんだ」と言っているわけですから、その怒りは相当なものです。
 イエスのお母さんになるマリアは、それほどまでに世の中の不公平に憤っている人だったんですね。政治家と財界人が世の中の富を独占して、自分たち庶民には税は全く再分配されない。貧困の中に見捨てられた存在。税を払う以外何をするために生まれてきたのかわからないような存在。そのような私を神は素晴らしい役割として選んでくださったのだというのが、この「マリアの賛歌」です。
 やがて、このマリアもイエスが幼い頃に夫のヨセフを失って、シングルマザーの道を歩むことになります。

▼10代の妊娠と出産

 中学校や高等学校の聖書の授業や礼拝などで、クリスマスのお話をリアルに受け止めようとすると、例えばマリアさんが何歳だったのかという話になることがあります。その時代の女性は14歳から15歳くらいで結婚し、子どもを産んで育て上げ、30歳前後で亡くなります。ということは、年齢的に言えばちょうど学校に通っている生徒に子どもができるような感覚です。
 それで、「もしみんなのクラスメートが『子どもができました』と言って大きなお腹を抱えて学校に来たら、どうすれば一番気持ちよく迎え入れることができるだろうか」というような問いかけをしたりします。
 「学校に保育園があったらいいなあ」というような意見が出たりします。「実際アメリカの高校だと、10代の妊娠が多いこともあって、学校の中に保育所があったりするよ。そういう学校では、先生の子どもも生徒の子どもも一緒に遊んでたりするし、生徒と先生が子育て談義に花を咲かせたりするようなところもあるよ」と話してあげると、「へえー」と感心してくれます。
 ところが実際、大人社会は中学生や高校生の妊娠には非常に冷たい仕打ちをします。
 今年になって初めて文部科学省が調査したそうですが、2015年度から2016年度にかけて、日本の公立高校で妊娠・出産を理由に学校側から退学を勧められ、実際に生徒が退学したケースが32件あったらしいんですね。
 妊娠そのものは全国でおよそ2100件と調べられています。そして、本人や保護者の意思に基づいて自主退学というのが、その内の3割程度です。(「妊娠・出産の高校生、学校の勧めで「自主退学」32件」『朝日新聞デジタル』2018年3月30日11:58)
 じゃあそれ以外の7割の妊娠はどう扱われているのかというと、そこがまだ私には把握できていません。しかし、近年中高生が出産してすぐに生まれた赤ん坊を遺棄してしまうという事件が毎年のように報道されます。
 そして、そのほとんどが病院以外の場所、例えばスーパーのトイレであるとか自宅のお風呂場で生んだりとかいう状況に追い詰められている。それまで学校にも家族にもきちんと相談を受け止めてもらえなかったんだなということはわかります。そして、大体このようなケースでは産んだ女性に「死体遺棄」の容疑がかけられて犯罪者扱いされることが多いようです。
 私は学校で生徒さんたちに「先生、あたしらに子どもができたら、どうする?」「あたしらはどうなんの?」と聞かれたことがあります。公立高校では退学を勧められるという噂は広がっているわけですが、私が「そういう事例は多分うちの学校では無かったんじゃないかな……」と言うと、「えー?!今までそんな事が1回も無かったんですか?!」と、「信じられない」といった様子でした。
 そう言われてみれば、学校にも誰にも言えず堕胎したり、出産して棄ててしまった子もいたかもしれませんし、学校側としてはもしそういう生徒さんが現れた時に、どう対応するのか検討したこともない。女子生徒たちからは「あたしらをどこまで学校は守ってくれるんや」と厳しく問われている事をひしひしと感じました。

▼ホテルの裏の駐車場

 なんでこんなに10代の女性の妊娠・出産と死体遺棄の話をしているかというと、これこそがマリアの置かれた状況だったからです。
 マリアはベツレヘムのどこの宿を訪ねても泊まる部屋を提供してもらえませんでした。ということは、ベツレヘムにはお金の無い人は、出産が許されなかったということです。おそらくその当時、ユダヤのどこに行ってもそんな社会福祉的な対応をしてくれる場所はおそらく無かったでしょう。
 マリアが最終的に産まなくてはいけなくなった場所というのは、宿屋が紹介してくれた馬小屋とも家畜を飼っていた洞窟だったとも伝えられていますが、要するに乗り物を置いておく場所、つまり駐車場ですね。泊まれるホテルが1軒も無くて、あるホテルの従業員が自分のところの駐車場に連れて行って「ほらよ」って言ったようなものです。「屋根付きなだけでもいいでしょ」って具合ですよ。
 こんなところで産むなんて……と、どんなにマリアは情けない思いだったでしょうか。
 ただ、マリアにとって最後の心の支えになったのは、おそらく夫のヨセフが離れずにそばにいてくれた事だろうと思われます。現代の日本では、女子だけが学校を退学になったり、死体遺棄罪に問われたりして、男性はほとんどのケースでお咎めなしです。マリアにヨセフが付き添っていなかったら、マリアはどんなに絶望したでしょうか。
 何せ、ヨセフにとっては自分の子ではありませんでしたからね。

▼現代のマリアに

 イエスを懐妊して間も無く、マリアは今日の聖書の箇所「マリアの賛歌」と呼ばれる歌を歌いました。この歌を歌ったマリアの置かれた状況をこうして推測してゆくと、私たち現代の日本社会でも全く解決されていない貧富の格差、女性差別などの問題と大いに関連している事がわかってきます。マリアの置かれていたのはただ事ではない状況だったわけですが、現在の私たちの世の中でもマリアのようにただ事ではない人はたくさんいるわけです。
 しかし、彼女は「そんな私こそが神に選ばれたのだ」と喜びの声を上げています。絶望的な状況で生きていた人が最も大切な役割を神さまから託されて、やがて権力者が引きずり下ろされ、金持ちは追放されてしまうだろうと高らかに歌うのですね。
 そうであるならば、私たちの世の中で「クリスマスなんか無くなってしまったらいいのに」と心の中でつぶやきながら、子どもには「うちにはサンタさんなんか来ないんだよ」と言ってプレゼントをあげることも諦めざるを得ない、そんな人たちがいる社会状況を放置して、浮かれたクリスマスを迎えるなんて、何かが間違っているんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 神さまはそんなどん底の人にこそ目に留めて、偉大なわざを行われるのだと「マリアの賛歌」は歌い上げます。偉大なわざとは何なのでしょうか。その変革の時を待ち望みつつ、私たちも現代のマリアとも呼ぶべき人々に、少しでも寄り添う側の人間でありたいと望むものです。
 本日の説き明かしは以上です。

 (「マリアが出産したのは現代で言えば駐車場である」という着想は、日本キリスト教団芦屋浜教会牧師:塚本潤一さんより与えられたものです。感謝)





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