もうひとりの王が生まれる


2018年12月2日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 アドヴェント第一主日礼拝 説き明かし

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 マタイによる福音書2章1-12節 (新共同訳)
 



▼暴君の不安

 おはようございます。
 今日はアドヴェント第1日目の礼拝ですね。これからいよいよクリスマスに向けて心の備えをなしてゆくことになります。
 先週の礼拝では、「マリアの賛歌」と現代の社会問題に関わるお話をさせていただきましたが、今日もクリスマスの物語と社会状況との関わりを中心にお話することになります。
 イエスの誕生すなわちアドヴェントの物語と、受難の物語すなわちレントの物語は、いずれも時の権力者によって命を狙われるというところに共通点があります。
 イエスの誕生の背後にはヘロデ大王の影があり、その向こうにはローマ皇帝アウグストゥスの存在がちらついています。また、イエスの死はその当時のユダヤ州の総督ピラトによるものですが、その背後にはアウグストゥスの後に皇帝の座についたティベリウスがピラトに恐怖とプレッシャーを与えていることもほのめかされています。
 イエスの死刑宣告を行なったピラトは、皇帝とユダヤ人の間で立ち位置を慎重に探る中間管理職といった印象を与えますが、イエスの誕生にあたって数多くの幼子を殺してしまえと命じるヘロデは、もっと血生臭い暴君といったイメージが付きまといます。
 なにせ、自分の弟の妻(マリアムネ1世といいますが)が欲しいからと弟を殺してその妻を奪う(そのことを非難した洗礼者ヨハネは、ヘロデとマリアムネの娘サロメの一言で首をはねられてしまいました)。
 しかもヘロデは、そのマリアムネ1世を弟から奪った7年後にマリアムネその人を殺してしまいますし、その翌年には彼女の母親まで殺してしまいます。
 さらにはイエスが生まれたであろう頃の前後ですが、自分の権力を狙っているのではないかと疑心暗鬼にかられたヘロデは、マリアムネとの間に生まれた息子の2人をも殺害します。
 そういうわけで、この男は怒らせたら何をしだすかわからないという恐怖がユダヤ地方を覆い、また有無を言わさず束ねていたと言っても言い過ぎではなかったでしょう。
 この人はエルサレムの神殿の大改築(第二神殿)を始めとして、たくさんの大型建築プロジェクトを進めた人として、かなり政治家として有能な面もあったのでしょうけれども、人間としては常に欲望と恐怖そして不安に追い立てられ、自分も人も苦しめてしまうという悲しい人だったように感じます。

▼ベツレヘム

 そういう具合ですから、本日の聖書の箇所にも書いてありますように、東の方からはるばる旅をしてきた占星術の学者たちが、
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」
 などと、すっとぼけたことを尋ねてきた日には、ヘロデの胸にはどんな感情が渦巻いたでしょうか。
 聖書には「ヘロデ王は不安を抱いた」(マタイ2.3)と記されています。またそれだけではなく「エルサレムの人たちも皆、同様であった」とも書かれています。ヘロデが荒れ狂うと、下々の民衆にもどんなとばっちりが来るか分かったものではなかったでしょうね。
 ヘロデはユダヤ人社会を支配するにあたって、自分に反抗的な祭司や律法学者も皆殺しにしています。ですから彼がメシアの誕生地を確かめるために招集した「民の祭司長たちや律法学者たち」(2.4)というのは、全部彼の腰ぎんちゃく、彼の機嫌を取って保身を図っている忖度ばかり得意な政治屋ばかりです。この祭司長や律法学者たちが「そんな新しい王が生まれるなどということはありません」と嘘をつくことなく、ヘロデを怒らせないように「それはベツレヘムです」と伝えるのにも、なかなか勇気がいったことだと思います。
 このベツレヘムというのは、ユダヤ人の間で、かつてのイスラエルの最高の王だと褒め称えられているダビデの生まれ育った土地です。ここに預言者サムエルがやってきて少年ダビデを見出しました。それで、ユダヤ人の間でヘロデの支配や、そのヘロデに委託してユダヤを治めさせているローマ皇帝に対して反感を持っている人たちの間では、「やがて新しいユダヤの王が現れる。その王はベツレヘムから現れる」という期待が広まっていました。そのことを祭司長たちはヘロデ王に知らせたんですね。

▼いちばん小さくされた者

 そして、新しい王がベツレヘムに生まれるということの理由として挙げられるのが、この預言者の言葉、旧約聖書のミカ書の5章1節なんですけれども、この2章6節に引用してある「ユダの地、ベツレヘムよ……」(2.6)という部分です。
 ちなみに、このミカ書の引用、「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない」とここでは書いてありますが、実は元のミカ書の方では「いちばん小さいものである」と書いてあります。
 なぜそんな食い違いが起こっているのか。マタイが憶え間違っていたのか。それとも何か意図があってわざと書き換えたのか、はっきりわかりませんが、「指導者たちの中でいちばん小さいものではない」と言われる中から誰か偉大な人が選ばれるというよりは、「いちばん小さいものである」と言われる中から選ばれる方が、多くの人の予感を裏切りそうです。
 ですから、神さまがいつも人間の意図を超えたところで、意外な知らせをもたらすことを思えば、やはり引用元のミカ書に書かれた「いちばん小さな者が選ばれる」という預言に、ユダヤの人々は希望を見出していたのではないかな、と推測したくなります。
 というのも、当時のユダヤ人は今と違って、大変弱く小さな立場にありました。ローマ帝国とヘロデ大王と、そしてそのヘロデにコバンザメのようにくっついているユダヤ最高法院による3重支配を受けていたわけで、まさに「小さい者」「小さくされた者」として抑え付けられていたからです。

▼新しい王と奪われた多くの命

 さて、この祭司長たちが調べ出したミカ書の預言を聞いたヘロデは、今度は先ほどの占星術の学者をもう一度呼び出し、星の出た時期を確かめて、こう言いました。
「見つけたら知らせてくれ。私も行って拝もう」と。
 これも考えてみれば少々間抜けな命令ではあります。「おまえたちに護衛をつけてやろう。わしの兵隊を連れて行け」とか、あるいは黙って家来に尾行をさせるとかすれば、すぐにわかるのにですね。
 でも、ヘロデはそういうことをしない。学者たちが戻ってきて知らせてくれるもんだと信用している。そして、後になって自分の方が騙されたと知って怒ることになるのですけれども、このあたりは歴史の記録というよりは絵本のような展開です。
 とにかく学者たちはヘロデのもとを離れてベツレヘムに向かい、星が示す通り赤ん坊の生まれた場所(馬小屋であるとも、洞窟であるとも言われていますが)を探し当てました。そこは今の世の中で言うならば駐車場で赤ん坊を産むようなものだと、先週の説き明かしで申しましたが、当時は、馬やロバ、羊などのうんち・おしっこ・よだれが染み込んだ藁の上という、赤ちゃんを産むには極めて衛生的ではない場所でありまして、そんな所に寝かされている幼子イエスを探し当てたのでありました。
 学者たちは、黄金、乳香、没薬をプレゼントとして置いていきました。これはそれぞれ、新しい王としての印、そしてお墓に入れられる時に遺体が臭わないように体に塗る香料や薬品……というように、イエスの未来を予め見通したような贈り物です。この時点でイエスは多くの人のために命を捨てることになるだろうと、マタイは伏線を張っているわけです。
 そして学者たちは、夢でお告げを受けた通りに、ヘロデの所には戻らず、別の道を通って再び東の国に帰って行きました。少し飛んで16節には「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(2.16)と書いてあります。いかにもヘロデだったらそれくらいのことはやりそうです。
 イエスという1人の新しい王が生まれた背後には、イエスの身代わりのように命を奪われてしまった数多くの幼い子ども達がいたのだというのも恐ろしい話です。ヘロデという男がいかに人間の命を軽んじているかということが非常に強調されていますし、新しい王が生まれるために、どれだけの命が奪われてきたのかという怒りや悲しみがこの物語の背景に潜んでいるようにも感じられます。

▼この世への絶望

 こうして見る限り、イエスの誕生物語には政治的な背景が色濃くにじんでいます。
 そもそもなぜ当時のユダヤ人たちが「新しいユダヤの王」を待ち望んだのか。そして、なぜイエスが「新しい王」として期待される人物になったのか、それは「今私たちを支配している王はあまりにも酷いじゃないか」という不満や怒りに原因があります。
 先ほど申し上げたように、ヘロデという人物は実力はある政治家でした。しかしその一方で、自分の欲望や権力のためには身内の人間を殺すことも厭わない残虐な人間でもありました。
 このヘロデの罪深さを批判した洗礼者ヨハネも、「ユダヤの救いは間近いぞ」と予言していた人だったので、ある意味人々の希望の星だったわけですが、この人もヘロデに殺されてしまいました。
 そしてさらに、ユダヤ人のリーダーであるべき祭司たちも、ヘロデに従わない者はみんな消されてしまって、残りはヘロデの手先になって民を支配するゴロツキ集団になってしまいました。庶民から見れば、この祭司階級の連中は、ヘロデという罪人のボスに神殿とユダヤの民を売り渡した裏切り者という位置付けでした。それは民に対する裏切りであるだけではなく、神に対する裏切りでもありました。神の神殿を牛耳っているのは、裏切り者集団でした。
 もうこんな世の中じゃ、やってられない。何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。ただ奴隷のようにこき使われたり、稼いでも稼いでも税で取られていったり、絞りあげられるだけ絞りあげられて、そしてわずか30歳そこそこで体を壊して死んでゆく。神様はこんな世の中をなぜ放っておられるのか。神は一体何のためにこの世を作ったのか。我々の苦しみは一体何のためなのか……。

▼新しい王への待望

 しかし、そこで彼らは絶望してしまう代わりに、それでもなお「神を信じよう」という希望に賭けたんですね。「神がこのままで私たちを放って置かれることはないはずだ」と信じる方に彼らは賭けました。「神はきっとこの世を変えてくださるはずだ」と彼らは祈りました。そして、やがて「この世界を変える新しい王が生まれるはずだ」という期待が湧き起こり、それを神に求める運動が広がってゆきました。
 この世を変えて欲しい。生きていることが報われる世の中であって欲しい。誰もが安全と豊かさを味わい、生きる喜びを味わい、安心して全てを託して死ねる。そんな世の中になって欲しい。
 考えてみれば、それはこの世に生まれてきた限り当然の望みであり、私たち全ての求めるべき権利です。この人間としての権利が、あまりにも踏みにじられていたために、人々は苦しみ悩んだあげく、そのまま失望してあきらめるのではなく、新しい王を求めることに決めたのですね。
 この極めて人間的な要求を、私たちはキリスト教の信仰とは関係ないと諦めてはいないでしょうか。神様を信じる気持ちと実生活を切り離して、どこか地に足のついていない宗教生活を送ろうとしてはいないでしょうか。
 神様を信じる気持ちというのは、現実から目をそらすことではありません。むしろ現実を喜びに変えてゆくための原動力を「どうか神様、与えてください」と信じて求めることです。神様を信じる気持ちは、現実の世の中を変えることを厭いません。
 全ての人の暮らしが少しでも良いものになるように、祈りつつ前進したいものです。






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