まるっきり信頼してしまっている


2019年1月6日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 新年主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約19分)


 ローマの信徒への手紙3章21-26節 (新共同訳)
 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自身が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。




▼祈りつつ前進

 皆さん、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。2019年を新しく迎え、私たち徳島北教会の歩みに神さまの確かな導きがありますように「祈りつつ、前進」してゆきたいと願っております。
 この「祈りつつ、前進」というのは、近江兄弟社やヴォーリズ建築事務所を設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズという方の好まれた言葉で、この方はアメリカ人なんですけれども、日本語で「祈りつつ前進」という言葉を書で揮毫されたりしたものが滋賀県の近江兄弟社に残されていたりしまして、私も非常に好きな言葉です。
 「祈りつつ前進」。
 2019年の始まり、「よしエンジンをかけよう」という時に、よし、今年も「祈りつつ前進」して行くんだと私は思ったわけであります。

▼キリスト教に何が残っているのか

 さて、新しい年の始まりに、私たちの拠って立つ原点はなんだろうと考えました。
 それは、例えば社会運動(反原発、反戦、反基地、反差別。平和で公正で、誰もが自由と尊厳を守って生きてゆく権利をイエスの名によって社会に実現してゆく活動)。そういった、一言で言えば「人権」をいう者を守る活動は、キリスト教に由来している:イエスがこの世に現れなけえばおそらくそういう動きは人類の歴史に出てこなかったと思いますが、現代という時代では必ずしもキリスト教と結びついて動いているわけではありません。
 医療や教育についてもそうです。これらもキリスト教会の働きが土台にあって生まれたものですが、今はキリスト教から巣立ってゆき、キリスト教とは関係なく行われている医療や教育が主流派となっています。
 芸術もそうですね。もちろん西洋から生まれてきた芸術はほとんどがキリスト教会から生まれてきたものですが、現在は新しく生まれる芸術作品は、ほぼ全てキリスト教から卒業したものです。
 そのようなわけで、社会運動も医療も教育もアートも、いわゆるヨーロッパから生まれてきた文明や文化の要素というものは、おおよそキリスト教に由来するものですが、いまはキリスト教会との直接のつながりを失って、自律的にその活動を進めています。
 もちろん、個々人のクリスチャンがその信仰を基にそれらの働きに出てゆくということはあるのですが、圧倒的多数のこの世の働き手たちは神様への思いを根拠にしてその働きに参与しているわけではない、というのが実情であろうかと思います。
 では、社会運動も医療も教育もアートも、その主要な活動をほとんど手放してしまったキリスト教会には、一体何が残っているのでしょうか? キリスト教会の原点とは何か、根底になるのは何なのでしょうか?

▼キリスト者の根底

 私たちには「信仰」がある。「礼拝」がある。「信仰こそ教会にしか見出せないものであり、礼拝こそ教会にしかできないことなのだ」と主張する人々がいます。
 その主張は間違ってはいません。教会では、先ほど挙げた全てのものの大元である信仰が宣べ伝えられ、養われています。そして信仰が形として現れているのが礼拝です。礼拝は教会の主な働きです。
 けれども、時にはその人々は、「だから教会のやるべきことは信仰だけなのだ。教会は礼拝だけしていればいいのだ」と主張します。「だからあまり社会のことに関心を持ちすぎるのは良くない。できれば社会とは距離を取りなさい」という宣教方針などを立ち上げようとする人たちもいます。
 そこまでいくとちょっと本末転倒ではないか、と私などは思います。
 かつては教会こそが社会だったのであり、その社会を良いものにしようという働きはキリスト教の信仰から出てきました。やがて、社会が次第に宗教から離れて自立してゆきましたが、社会を良いものにしようとする動機を育んだ信仰は何も変わっていません。
 ですから、キリスト教は今もその社会に対して、その社会を良くしたいと思う人々を生み出す働きをしているのが当たり前だと思うのですが、いかがでしょうか。
 「木はその実の良し悪しで計られる」という聖書の言葉にありますように、どんな人間を生み出しているかということで教会も計られると思うのですが、いかがでしょうか。

▼ピスティス

 ところで、この「信仰」という言葉ですが、実は「信頼」という言葉で同じだということを皆さんはご存知でしょうか。
 「信仰」という言葉は、聖書のギリシア語では「ピスティス」と言います。今日の聖書の箇所で、22節の「すなわち、イエス・キリストを信じることにより」と書いてあるところの「信じること」というのが、実は「ピスティス」なんですね。
 「ピスティス」というのは「信じること」。これを「信仰すること」と訳しても「信頼すること」と訳しても、どちらでも構わない。意味的には変わらないということです。
 ですから、難しい顔をして「神様やイエス様への『信仰』と、人間に対する『信頼』は違います!」と言っている人がいたとしても、実はその人の方が間違っているので、実は同じことなんだよということなんですね。
 逆に、かえって「信仰」と「信頼」は違うと言うから、余計に分かりにくいことが分かりにくなってしまうという面もあります。「信頼」と言うと、これは人間を信じて頼ることだから、まあわかると。しかし「信仰」と言うと、何か目に見えない、あるのかどうかもわからないような不思議な存在を「ある」と思い込んで、自分の心に一生懸命念じ込めるような、ちょっと無理のある行為のことを指すように誤解してしまうんですね。
 あるかないかわからないものを無理に「ある」と自己暗示をかける、というのは「ピスティス」とは何の関係もありません。そういう危険な自己暗示は私たちが信じようとしているものと全く関係がありません。
 「ピスティス」というのは「信頼」です。それも「相手に対する全面的な信頼」のこと。柔らかい言葉で言えば「まるっきり信頼している」「信頼できる」ということです。
 そして、その全面的な信頼関係があるために、なんにも隠す必要がない、なんにも嘘をつく必要もない、真実の関係。そのことも含めて「ピスティス」と言うので、これを「信実」(信じるの「信」という字に、真実の「実」という字)という言葉に訳す人もいます。
 現に、昨年末に出ました新しい聖書の日本語訳のパイロット版では、そのように「イエス・キリストの『信実』によって」と書かれていたんですね。実際に出版された版では違うように書き直されてしまっていましたけれどもね。
 ですから、私たちは「信仰、信仰」と言いますけれども、それが分かりにくければ「信頼」という言葉に置き換えてもいいんです。大事なのは、神に対する信頼、イエスに対する信頼、私たちお互いの信頼、それらはみな同じ「ピスティス」なんだということです。
 私たちは神やイエスと「ピスティス」で結ばれるけれども、私たち同志の間にも同じ「ピスティス」があるんだというのが、ここでパウロの言っている「信」・「信実」の関係なんですね。お分かりいただけますでしょうか。

▼自力か、他力か

 それから、もう一つこの聖書の箇所には問題があります。
 22節に「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」と書いてありますけれども、これだと「イエス・キリストを信じれば、神の義が与えられる」という風に聞こえますよね? 逆に言うと、「イエス・キリストを信じなかったら、神の義は与えられませんよ」と言っているのと同じですよね? でも本当にそうでしょうか?
 ここは実は「イエス・キリストの信実によって生じる神の義」という訳し方もできます。「イエス・キリストの信仰によって」と訳してもいいと言えます。そうなると、これは「イエス・キリストが神や人間に対して信頼(すなわちピスティス)を抱いてくれたから、神の義が明らかになったんだ」と言うことができます。
 と言うことはつまり、私たちが自力で信じるとか信じないとかで神に認められる、認められないというのではなくて、私たちが信じようが信じまいが、イエスがあなたを信頼してくれている、それ故に神もあなたのことを認めようという、他力の世界ですね。あなたが信じる以前に、イエスがあなたを信じてくれている。あなたが信じる以前に、神があなたを信じてくれている。
 ありがたい世界ではないでしょうか。

▼私の信仰ではなく、イエスの信仰によって

 この、もう一つの訳し方をとれば、今日お読みしたところの最後の部分もこのような読み方に変わります。
 26節の一番最後の一言ですが、「イエスを信じる者を義となさるためです」と新共同訳では書いてありますね。これも、このままでは「イエスを信じる」という人間側の行いが必要だという風に読み取れます。自力本願です。
 しかし、別の読み方をすれば「イエスの『信実』に基づく者」という風に訳すことができます。「イエスの『ピスティス』に基づく者」ということです。
 イエスがピスティスをもたらしてくれたから、そのピスティスに基づいて生きる者は、皆神との「義」の関係に入ると。これは他力本願です。
 25節にあるように、「神が」キリストを立てて、罪を償う供え物として十字架で血を流されたのだから、「今まで人が犯した罪を見逃されて」、人間は全面的に無罪となった、とパウロは書いているのですから、これは人間が信じたからどうなるという自力本願ではなくて、全くの他力本願であると解釈するのが、文脈的には正しいと思われます。
 イエスが、そして神がピスティスの関係に招いてくださっているのだから、私たちもピスティスで返そう。そして私たちも互いにピスティスの関係を持とう。
 互いに嘘のない信実な自分を見せ、他者を受け入れ、固い信頼関係を崩さないように、共に生きてゆこう。
 ピスティスに基づく共同体、それが教会というものではないかと思います。皆様はいかがお感じになりますでしょうか。






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