ほんとうのお父さんを見つける 2019年1月13日(日) 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし |
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ルカによる福音書2章41-52節 (新共同訳)
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▼神は「父」か 今日は、イエスが神のことを「お父さん」と呼んでいることを巡ってのお話をしてみたいと思います。 私たちが、祈りの最初に「天の父なる神様」とか「天にまします我らの父よ」と呼ぶのは、イエス自身が神のことを「アッバ」と呼んだからだと言われています。 「アッバ」というのはヘブライ語で「パパ」とか「父さん」という、親しみを込めた呼び方ですね。伝統的な理解では、イエスが神様のことを「アッバ」と呼んだのは、イエスが神の子である証拠だという風に言われております。 しかし、私のような、イエスを私たちと変わらない人間であると考えるような者は、彼が何らかの事情なり理由があって、神様のことを「アッバ」と呼び始めたのではないかと考えたくなるわけです。 私の友人の牧師たちの間には、神を「父」と呼ぶことに非常に抵抗を感じるという人たちがたくさんいます。「なんで神様が父なんだ」とこの人たちは怒ります。 その人たちの中には、父親が絶対的な権威を持つ家庭で育ったり、そんな家庭で父親に虐待を受けて育ったりしてきた経験から、「父親」というもの、あるいは「男」というものを徹底的に嫌いになってしまった人がたくさんいます。本人の性別とは関係なしにです。 そのような苦痛や恐怖、嫌悪感から逃れて、神様に救いを求めて教会を訪ねたのに、大概の牧師も男である上に、「神様まで男なのか!」と愕然としてしまうのですね。 それから、そもそも神という存在に人間と同じような性別があるかどうかも、本当のところはわからないわけで、それを勝手に「父なる神」と呼ぶのはいかがなものか、という問題提起がなされることもあります。 祈りの最初の呼びかけで「父なる神」と呼びかけるのはやめようと言う意見が出されることもありますし、「母なる神」と呼ぶことがあってもいいのではないかと提案されることもあります。 しかし、他でもないイエスが神のことを「アッバ」と呼んだということは、おそらく歴史的にも間違いなく、この点はどう理解したらいいのかということが、父権主義や父親による暴力や虐待に反対する立場にとっては悩みの種でもありました。 「イエスが父と呼んだのだから、私たちも父と呼ぶのだ」と割り切ってしまっては、先ほど申し上げたような、父権主義によって傷つけられた人たちの気持ちをスルーしてしまうことになってしまうんですね。 ▼名も無き母と父 今日の聖書の箇所を読んで、私が気になるのは、この神殿での少年イエスの物語では「マリア」や「ヨセフ」という、イエスの親たちの名前が出て来ないところなんですね。 福音書の物語の中で、イエスのことを尊い存在としてその意義をちゃんと理解している理想的な親たちという描かれ方をしている場面では、「マリアは」とか「ヨセフは」という風に呼ばれるんです。例えば、クリスマスにいつも読まれる誕生物語はそうです。 ところが、イエスのことをよく理解できなかったり、イエスをナザレの里に連れ帰ろうと捕まえに来たりする時には、「マリアは」といった名前ではなく、「母は」とか「両親は」という一般名詞になるのですね。ヨハネによる福音書でもカナで行われた結婚式でイエスが最初の奇蹟を行った場面、水をぶどう酒に変えたという物語が書いてありますが、そこでイエスが母親に「女よ」「婦人よ」みたいな無礼な口の聞き方をしている所があります。このあたりも、イエスと母親の関係って、本当はどうだったんだろう? と疑問を持ちたくなってしまいます。 そういう所から深読みして、実は、「マリアは」とか「ヨセフは」という名前をつけられて書かれているのは、イエスの誕生物語のあたりの美しく理想化された物語の部分だけであって、それ以外のイエスと弟子たちが一緒に居合わせていたところで親が登場してくる時には、イエスの親の名前は伏せられているんじゃないかと。そして、そちらの方が美化されきることのできない現実に近かったのではないかと。 イエスの両親というのは、あまりイエスに理解も示さず、どちらかというと面倒で鬱陶しい、扱いに困るような息子として手を焼いていた、名も無い人々だったのではないかという推測が浮かび上がってくるわけです。 少なくともイエスの弟子たちやその他そばにいた人たちの記憶に残っているのは、イエスがお母さんや他の兄弟たちに理解してもらえなくてちょっと口論している様子を何度か見たといったものだったのでしょうね。イエス自身も自分の実の両親について、名前も含めて詳しいことは何も弟子たちに語らなかったのだろうと思われます。 マルコによる福音書の3章に、ナザレから母親と兄弟たちがイエスを連れ戻しに来た時、「私の母、兄弟、姉妹とは誰か。それはここにいるみんなだ」と、肉親たちにとってはショッキングなことを言っていますけれども(マルコ3.31-35他)、このような言葉の背景にイエスと家族の不仲が垣間見えるのですね。 ▼父嫌いのイエス ![]() それに加えて、福音書の中には、これはマルコによる福音書の10章ですけれども、「私のために家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、誰でも家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受けるだろう」(マルコ10.29-30)という言葉もあります。 家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑をイエスのために捨てよと。それはイエスと共に生きてゆく生活の中でちゃんと戻ってくる、「父」以外は、というわけですね。父は戻ってこなくてもいいわけです。父は天の父以外に必要ないんだと言っています。 マタイによる福音書にも、「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23.9)という言葉があります。 イエスは人一倍、地上の父権主義、家父長制、父親中心主義を毛嫌いしていたことが伺えるのですね。「地上の者を『父』と呼ぶな」というのは徹底した「父嫌い」です。 そもそもユダヤ人というのは、先祖の男性たちを「父祖」と呼んで非常に敬いますよね。「我々の父はアブラハムだ」と言って民族のアイデンティティを互いに確認していたような人たちですから。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が我々の神なのだ」と言っているわけで、父権主義、家父長制がまさに民族意識の根底にあるような人たちです。 そんな人たちの前で「地上の者を『父』と呼んではならない」などと言ったら、これは噴飯ものでしょうね。我々の父はアブラハムだ、なんて言うのはやめてしまえと言っているのですから、これはとんでもない暴言として受け止められたでしょうね。これだけでも殺されかねないと思います。 加えて、「今生きているあなたの父親も『父』なんて呼ぶのはやめてしまいなさい」とも言っているわけですから、「家族制度を破壊するやつだ」とも受け取られるわけです。まあとにかく周囲の人全員を敵に回すような発言ですよ。 ▼神を父と呼ぶ でもイエスはそれくらい徹底的に父権主義に対して反感を持っていたということでしょう。それほどまでにイエスが父権主義嫌い、家父長制嫌いになってしまったのは、やはりイエスの実の父親がひどい虐待をイエスに加えたのではないかと、推測することができるんですね。 そしてイエスは、「もう地上の誰をも父だと思わないぞ。俺の本当の父親は神様だけなんだ」と決めたのではないかと思うのですね。 そして、みんなの前で神に祈るときに、「アッバ」とわざと聞こえるように言ったんでしょう。これも一種の挑発ですね。「地上の誰も『父』ではないのだ」と言い切ったその口で、天に向かって「父さん」と呼びかけて見せる。 周りのユダヤ人たちは「こいつ、神の子を自称しやがって何様のつもりだ!」と激怒したことでしょう。こんな神への冒涜をする人間は生かしておいてはならないと、イエスを殺す計画を立て始めるわけですね。 それでもイエスは黙らないで、神に「父さん、父さん」と呼び続ける。相当な決心がなかったら、ここまではやりません。イエスは徹底的に父権主義と戦う覚悟だったのだろうと思います。 でも、それは、強い者・力ある者・支配する者に対して常に立ち向かい、弱く小さい者のために戦うイエスとイメージがピッタリ合いますね。イエスはやっぱりイエスだなと私などは思います。 ▼神を父と呼ぶ時には さて、イエスの謎であるはずの生い立ちまで推測して、彼が父権主義や家父長制を徹底的に否定した可能性について述べてきました。 これが的を射ているとすれば、私たちがイエスに倣って神様のことを「天の父よ」と呼ぶ時には、イエスのその徹底的に地上の父親の権威というものを否定したその精神、その覚悟も考慮に入れなくてはいけないのではないでしょうか。 また、神を父と呼ぶからと言って、「だから父は偉いのだ」、「父の方が母よりも子よりも上なのだ」、「男の方が偉いのだ」という理屈をひねり出すのは、全くイエスの本意ではないとも言えるのではないでしょうか。 イエスが地上の父親という者を徹底して拒否し、「神様だけが父親だ、それで十分なんだ」と言った可能性について、皆さんはどのように受け止められるでしょうか。皆さんのご感想をお聞かせいただければ幸いです。 本日の説き明かしを終わります。 |
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