教会にいてくれないと困る人


2019年2月3日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約12分)


 マタイによる福音書18章19-20節 (聖書協会共同訳パイロット版)
 また、アーメン、あなたがたに言う。
 あなたがたの中の二人がどんなことについても、地上で心を合わせて願うなら、天におられる私の父がかなえてくださる。
 二人か三人が私の名によって集まるところには、そこに、その中に私がいる。




▼教会にいてくれなくても困らない人

 おはようございます。今日は「教会にいてくれないと困る人」という題で説き明かしをしようと思っているわけですが、本当はこのお題は良くないお題なのですね。と言いますのは、「教会にいてくれないと困る人とは誰なのか」という問いを掲げてしまいますと、「教会にいてくれなくても困らない人は誰なのか」という問いも同時に立ち上がってしまうからですね。
 教会というのは、できれば全ての人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えたり共有したりしたいと願っている所です。ですから、誰でも来てもらっていい所なのです。だから、「誰がいなくてもいいのか」という話題は、あまり教会には馴染みません。
 しかし、本当に誰でも来てもらっていいのかというと、私はそうではないと思います。例えば、本人の中で確信を持ってイエスや、キリスト教のことを否定する人は、別に来てもらわなくても結構です。また、イエスを否定しなくても、教会に集っている他の人を自覚的な悪意があったにしろ、なかったにしろ、傷つけたり、恐れさせたりするような人は来てもらわなくても結構です。この辺りは宗教であるかどうか以前の問題かもしれません。
 そして、私はもう一人、あるいは教会によっては複数かもしれませんが、「教会にいなくても別に困らない人」がいる場合があると思います。それは誰でしょうか。
 それは牧師かも知れないなと。
 牧師というのは、一応聖書解釈や牧会・宣教の専門家というように位置付けられ、謝儀をいただいて働いているわけですが、その教会に所属するクリスチャンのように、その教会を死ぬまで支え続け、その教会に骨を埋めるわけではないことがほとんどです。教会員は引越しでもしない限り変わりませんが、大抵の牧師は入れ替わってゆくのですね。
 ですから、本当の意味でその教会の歴史を担い、それを受け継いでゆくことができるのは、他ならぬ信徒の皆さんであると私は思っています。牧師はリーダーやボスというよりは、サーバント、仕える側の立場であって、主体は教会員です。また、教会員も神の僕(しもべ)という意味ではサーバントですので、牧師はサーバントの更にサーバントということになります。
 もちろんそういう私も、ついそのことを忘れて教会で自分がリーダーであるが如くに強引に物事を進めたりする失敗を犯すこともあるわけですが、この数日は自分が招かれ、遣わされた者であるに過ぎず、それ以上の者ではないということを、これまで以上に自覚して奉仕すべきではないかと反省する日々を過ごしています。
 
▼アーメン、あなたがたに言う

 さて、今日お読みした聖書の箇所は、イエスの教えの中でも教会という人間グループの最も基礎的なことを教えてくれる所です。
 読み返してみましょう。
 「また、はっきり言っておくが」(マタイ18.19)。
 この「はっきり言っておく」という言葉遣いに抵抗を感じる方がおられるかも知れません。36年前にこの新共同訳聖書が出版された時、この「はっきり言っておく」がよく話題になりました。「なんだかすごく偉そうな感じのイエス様で、あまり優しさや親しみを感じない」と言う人も多かったです。
 これが、昨年出たばかりの「聖書協会共同訳」だと、「また、よく言っておくが」となっていますので、若干口調は柔らかくなっていますし、イエスが「ここは大事な所なんだよ」と言っているそのニュアンスも伝わりやすくなっていますね。
 私が気に入っているのは、この新しい翻訳が出る前のパイロット版ですね。そこでは、「アーメン、あなたがたに言う」という日本語になっています。「アーメン、あなたがたに言う」はまさに直訳ですが、普通は祈りの最後につける「アーメン」という言葉を最初に持ってきて話すというイエス独特の語り口がよく現れていて、イエスがいかに信念と確証を持ってこの言葉を強調しているかがよく感じ取れると思います。
 「これはみんなに本当に分かっておいてもらいたいんだが」というイエスの思いが、この「最初につけるアーメン」に込められているわけです。

▼2人で願う

 イエスは「アーメン、あなたがたに言う」。何を言うのか。
 「あなたがたの中の二人がどんなことについても、地上で心を合わせて願うなら、天におられる私の父がかなえてくださる」(マタイ18.19)という事を言います。
 「ほう、そうか、2人なのか」と思いませんか? 1人ではないのですね。願い事は2人以上でしましょうと言う事なんでしょうか。
 イエスは他の聖書の箇所で「祈る時には奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6.6)と言っています。ですから、1人で、しかも誰にも知られない場所で誰にも聞かれないように祈る、ということの大切さを教えてくれています。
 その一方で、最低1人でも自分以外の人と一緒に祈るということも大事だよと説いているんですね。
 続いてイエスは
「二人か三人が私の名によって集まるところには、そこに、その中に私がいる」(マタイ18.20)とも言います。
 ここでも2人か3人。やっぱり最低人数は2人ですね。2人がイエスの名によって集まると、そこにイエスもいるんだよ、という事ですね。
 教会というものの根本的な要件がここに2つ宣言されていますね。
 1つは、人数が少ないかどうかは関係ないという事。と言っても、まあ2人は欲しいなという事ですね。1人でも信じることはできるし、祈ることもできるけれども、教会は教会となるにはせめて2人はよりあっていて欲しいよね、ということですよね。3人だとなお嬉しいねと。最低でも複数の人数がいてくれたら教会になりうるということですね。
 もう1つは「イエスの名によって」集まるということがあって、初めて教会は教会と言えるということですね。ただ2、3人が寄り合っているだけでは教会にはならない。けれどもイエスの名によって集まる集いであれば教会になりうる、ということです。
 イエスは「洗礼を受けているということが条件だ」とも何とも言っていません。イエスの名によって2人以上が集まれば、そこが教会になるという可能性をはらんでいるということです。

▼イエスの名による集い

 私は随分保守的な事を言っているのかもしれません。キリスト教会の中では、私の聖書解釈や信仰理解、神学的な部分は、かなりぶっ飛んでいるように言う人もいますが、この「教会とは『イエスの名による集い』である」という1点においては非常に保守的なのではないかなと自分で思います。
 教会にいてくれないと困る人。それは「教会はイエスの名による集い」だという事を分かっている人です。ここにいる人はみんなそれを分かっていますから、あえて話すわけでもないような事ですが、その根底が失われたら、教会は教会ではなくなります。
 教会が教会であり続けるとは、この「イエスの名による集い」を絶やさず続けることに他ならないと思われます。いつまでもこの集いが続く事を願ってやみません。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。






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