酸いも甘いも嚙み分けて


2019年2月17日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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 コロサイの信徒への手紙3章16−17節 (新共同訳)
 



▼暮らしの心得集

 本日の聖書の箇所は、私はあまり今までの礼拝の中で引用することのなかったコロサイの信徒への手紙から読みました。
 コロサイの信徒への手紙は、新約聖書の中でパウロの手紙と呼ばれている13の手紙の内、本当にパウロ自身が書いたとは考えにくいと多くの聖書学者から見なされている手紙です。言葉遣いや思想が、他のメジャーなパウロの手紙(ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙など)と違う特徴があると言われているんですよね。
 また、比較的リベラルなクリスチャンの間では、今日読んだところの後の、3章18節以降ですね。
 18節「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に支えなさい」とか、20節「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい」とか、書かれていますので、「これは父権制を強化する言葉である」ということで、ここが非常に評判が悪いです。
 まあその指摘は当たってはいると思いますが、このコロサイの信徒への手紙のすべてが悪いかというとそういうわけではないと思うんですね。この短い手紙は教会の人々に対する一種の暮らしの心得集のような特徴を持っていて、知恵や知識の使い方とか、食事や飲み物のこととか、礼拝の仕方、生活の仕方などについての、簡潔に書かれたガイドブックのような役割を果たしていたと思われます。
 そして、特に今日読んだ3章の真ん中へんの記事は、教会に集う人たちがどのようにお互いに配慮して、お互いに良い人生を送ることができるかについての、非常に美しい言葉で語られたアドヴァイスになっているんですね。

▼旨そうな餅

 有名なのはこの3章の12節以降です。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、赦し、愛、平和、感謝」といった、キリスト教におけるライフスタイルの大事なキーワードが並んでいます。
 まあ、ちょっとこれだけ並ぶとお腹いっぱいという感じも正直しますけれどもね。そんなに美しい人生を毎日送っておれますかいな、という感想も正直頭の片隅にあります。
 けれども、これは前にもいっぺんお話ししたような気もしないではないですが、私は随分前にある有名な聖書学者さんのお話を聞きに行って、お話の終わりに座談会で喋る機会があって、その時に聞いた言葉が忘れられないんですが、その先生は聖書の言葉ってのは「絵に描いた餅」だっておっしゃるんですね。
 お座敷の襖を指差しながら、「そりゃあ確かに絵に描いた餅だ。しかし、その餅がなかなか旨そうじゃないかと。そういうもんじゃないですか?」とおっしゃった。
 「なるほどな」と思いました。絵に描いた餅も大事だなと。世の中綺麗事では生きてゆけませんが、だからといって綺麗事を全く捨ててしまっては、人生が荒んでゆくばかりです。綺麗事の理想論というのはやっぱり必要で、自分が生きている間に完全に実現されるかどうかはわからないけれども、「あっちの方を目指して歩いて行こう」というような星があることは大事なんですね。
 自分が生きている間に完全に実現されるかわからないけど、いつかは実現されるかもしれない」。この「いつか」を目指して歩んでいこうというのが、キリスト教では「終末論」と言いまして、個人的にも教会的にも何を目指してゆくかということを考えることなんですね。
 
▼イエスの言葉を心に刻む

 そして今日の聖書の言葉ですけれども、「キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい」(16節)とまずあります。
 この時代はまだ新約聖書どころか、福音書でさえも出来上がってなかった頃ですし、教会に集まった人たちの中にも文字が読めない人が多かったでしょうから、口伝えの伝承で伝わってきたイエスの言葉を礼拝で聞いていたんだと思います。
 口伝えの伝承というのは、噂話がいろんな人に広まって伝わったというようなものではなくて、初代教会の人たちは最初の頃はユダヤ教の会堂や、後には信徒の家の教会で集まって、礼拝のたびごとにイエスの言動について話し伝えていったんですね。ですから、文字に書いたよりは内容は崩れていきますけれども、案外イエスの言葉の断片の勢いのようなものは伝わっていったのではないかと思われるわけです。
 この「キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい」というのは、そんなキリスト・イエスの言葉を心の内に大切にしまっておいて思い出せるようにしなさいね、ということではないでしょうか。特に文字が読めない故に心に言葉を刻むしかできない人々にとっては、これはとてもリアルな勧めであったと思います。

▼イエスならどうしただろう

 続いて、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(16節)とありますが、これは礼拝のことですね。
 特に、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とありますが、これは私たちの礼拝の分かち合いに近い機能があったのではないかと私は思います。イエスの言葉に基づいて、みんなでお互いに教え合いましょう、諭し合いましょうということですね。
 そして最後に「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(17節)とありますが、これはこの世での生活において、言葉においても行いにおいてもイエスの名によって……と言われても、これは難しい事ですけれども、イエスならどうしたかなーという事を思いながら生きてみる、という事でいいんではないかなと思います。
 「イエスならどうしただろう?」というのは、英語では「What Would Jesus Do?」と言いますけれども、アメリカの福音派のクリスチャンなどは時々使う言葉のようですね。省略するとアルファベット4文字で「WWJD」になります。この4文字を刻んだ小物はキリスト教書店などでもよく売っていまして、ネクタイピンとか車に貼るステッカーなどがありますね。
 ですから、そういうノリで「イエスならどうしたかな?」と事を心に留めておこうねという事でいいんだと思っています。

▼WWJD?

 このように見て来ましたクリスチャンとしての生き方というのは、先ほども申しましたように、絵に描いた餅です。しかし、やはりなかなか旨そうな餅だとは思われませんでしょうか。
 そして、その旨い餅というのは、歳を重ねるほど旨くなってくるのではないかと、私は思っています。
 もちろん若い人の集まる教会の爽やかさ、瑞々しさ、華やかさというものはあると思います。しかし、私は「教会には若い人が来なければいけない」という風には思っていなくて、中高年の人が入れ替わり立ち替わりやってくる教会というのもなかなか美味しい餅のような教会ではないかと思うんですね。
 「酸いも甘いも嚙み分けた」と言いますが、それこそ人生の酸いも甘いも苦いも味わった人間にしかわからない餅の旨さのようなものがあるんじゃないか。苦味の旨さというものは、年寄りにしかわからないんじゃないか。
 そんな人間が集まって、知恵を使って、互いに教え合ったり、諭し合ったりして、そしてそんな教会から押し出されて、この世で何を話そうか、何を行おうか。
 それは「What Would Jesus Do?」:「WWJD」にトライして生きてゆきましょう、というのが本日のテクストのメッセージだという事であります。
 ありがとうございました。






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