個人の罪と民の罪


2019年3月17日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る







聖書の朗読&お話(約31分)


 ホセア書4章1−3節 (新共同訳)
 主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。
 主はこの国の住民を告発される。
 この国には、誠実さも慈しみも
 神を知ることもないからだ。
 呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり
 流血に流血が続いている。
 それゆえ、この地は渇き
 そこに住む者は皆、衰え果て
 野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃させる。



▼レントの過ごし方
 
 レントに入って12日目になりました。と言っても、レントの40日間の中に日曜日はカウントしないんですけどね。
 先々週の水曜日が「灰の水曜日(アッシュ・ウェンズデイ)」と呼ばれ、教会によっては昨年の「棕櫚の主日(パーム・サンデー)」で使った棕櫚の葉や枝を焼いて灰にして、それで夜の礼拝に神父や牧師によっておでこに十字架を描いてもらうというのが風習になっています。まあ車で来ている人はいいですけれども、列車で帰る人は、おでこに十字が描いてあるので、ちょっと恥ずかしいかもしれません。
 イエスが苦しみを受けたということを覚えて、喪に服する期間。その始まりがイースターの前の日曜日を除いた40日目の水曜日、今年は3月6日(水)だったんですね。「灰の水曜日」から「イースター」までの季節を「受難節(レント)」と言います。
 本来、イエスの苦しみを痛み、喪に服するというのがレントの始まりではありますが、それに合わせて自分の人生、生活を見直し、堕落した生活をしていないか自己点検し、それを克服したり、自分に何らかの課題を与えて成長させようとしたり、あるいはこの機会に何か自分の好きなもの、好きなことを我慢するという人もいます。
 そんなことを言うと、中には「私はレントだからといって何もしない。ビールも飲むし、タバコも吸いますよ!」と聞かれてもいないのに吹聴する牧師なんかもいたりしますが、まあそんなに力まなくても、季節の風物詩を楽しむというスタイルでいいのではないかと、最近は私も思ったりします。
 まあ、そんなことをしたり顔で言っていると、私自身がこの40日の間、我慢した方がいいのはスマホやろ、と言われることもあります。しかし、スマホはもはや仕事をするには欠かせないミニコンピュータですので、これを手放しては普段の何気ない仕事もできなくなってしまいます。ですから、スマホ断食は勘弁していてだきたい、せめて3日なら……といって心持ちです。

▼セント・パトリック・デー

 今日3月17日は、アイルランドの聖人で、4世紀から5世紀に生きた「聖パトリック」という方の命日を記念する日なんですね。アイルランド人、すなわちアイリッシュに大々的にキリスト教の信仰を伝えたのがこの「聖パトリック(セント・パトリック)」で、ラテン語読みで「パトリキウス」とも呼ばれる主教です。
 まだ、キリスト教が東方教会・西方教会という風に分裂していない時代に活躍した人ですので、カトリック・正教会・聖公会・ルーテル教会(ルター派)で聖人とされています。カトリック以外の人にも愛されているので、その記念日も広く色々な国のアイリッシュの人たちによってお祝いされています。
 このセント・パトリック・デーは毎年3月17日なので、だいたいレントに入ることが多いんですね。けれども、この祝日だけは大々的にギネス・ビールを飲んで大騒ぎをするんですね。
 私は、職場の学校の語学研修で、たまたまこのセント・パトリック・デーに東海岸のボストンという街に居合わせたことがありましたが、もう町中が緑色に染まります。
 聖パトリックのシンボルが緑の三つ葉のクローバーなんですね。これは聖パトリックが三つ葉のクローバーで「三位一体」の教理を教えたと伝えられているからです。ですから、大通りには緑色のコスチュームで固めたパレードが盛大に行われたり、町中に屋台が出て、緑色のTシャツやクローバーのマークのバッジやワッペンなど、またクローバーの形から取ったゆるキャラのぬいぐるみなどが売られていたりします。
 また、アイリッシュといえばパブでビールというのが定番ですが、ギネスビールをはじめとして、アイリッシュ・ウィスキーなども有名なものがたくさんありますし、アイリッシュ以外の人も、それに乗じて一緒になって夜遅くまでどんちゃん騒ぎをやっているという状況です。
 まあだからレントだからといって、キリスト教圏のどこでも喪中のような顔をして重苦しい生活をしているかというと、そうでもなくて、何を我慢するにせよ、我慢しないにせよ、楽しんでやればいいと思うんですね。
 「どうやった? あかんかったよー。明日から受難節」と言いながら笑ってごまかしながら40日間を乗り越えて、その先にはさらに楽しいイースターが待っている。レントで我慢したぶん、思い切りハチキレたらいいと思うんですね、体を壊さない程度に。

▼ホセアの生きた時代

 さて、今日お読みした聖書の箇所は、私には珍しくの旧約聖書ですが、ホセア書ですね。ホセア書というのは、簡単にまとめてしまいますと、紀元前8世紀末と言いますから、紀元前721年に北王国イスラエルが滅亡する直前頃に預言を残した預言者だと言われています。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、この旧約聖書を生み出したユダヤ人の先祖であるイスラエル人は、紀元前1000年頃から、ダビデ、ソロモンという有名で有能な王によって非常に豊かな統一王国を作りました。新約聖書にも「栄華を極めたソロモンでさえ」という言葉がありますが、ソロモンというのはこのイスラエル王国の中でも特に贅沢な暮らしをした王だとされています。
 ただ、このソロモン王はハーレムにイスラエル以外の国々から多くの王女を迎え、それと共に伝統的な信仰から離れ、様々な異教の風習をイスラエルに持ち込んで、宗教的な統合を壊していってしまったんですね。宗教的な統合が崩れるということは、イスラエルにとっては民族を統合する精神的支柱が揺らぐということです。
 それで、ソロモン王が紀元前830年ごろに亡くなった後、王国は求心力を失ってしまい、後継者争いのために南北に分裂してしまいます。イスラエルのいわゆる南北朝時代ですね。
 分裂してからの王国も、南北共にどんどん弱体化し、周囲のもっと大きな帝国から何度も侵略を受けるようになって、北王国は紀元前8世紀末、南王国は紀元前6世紀にそれぞれ滅亡しました。
 今日私たちが開いているこのホセア書という預言書は、この北王国の滅亡の直前に、「イスラエル王国は神に反抗した。だから神はイスラエルを見放し、王国は滅ぼされるであろう」ということを預言したんですね。

▼集団の罪

 旧約聖書には、こんな風に「民の罪」「民族全体の罪」としてイスラエル人たちが裁かれ、預言者に警告されるという預言がたくさん書いてあります。
 全く個人の罪が告発される場面がないとは言えないのですが、それでも旧約聖書で預言者が預言する神の怒りは、圧倒的に「民全体に対する怒り」とか「罰」とかが多いです。
 そして本当の話、実はイエスのことを証ししているという新約聖書の方も、「民全体の罪」とか「民全体の救い」という考え方も結構記されていますよね。
 例えば、クリスマスの物語で「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」とか言われますよね? これは「あなたに」ではなく「あなたがたに」ですよね。
 聖餐式だってそうです。「これはあなたがたのために引き裂かれたイエス・キリストの体である」、「これはあなたがたのために流されたイエス・キリストの血である」。まあ、この教会での聖餐式文は意図的に「あなたがた」ではなく「わたしたち」としていますけど。
 いずれにしろ、こういった預言や式文で語られているのは、「あなたの罪」「私の罪」という個人宛の話ではなく、「あなたがたの罪」「わたしたちの罪」なんですね。民全体としての罪です。

▼個人の罪

 現代のクリスチャンは、「罪」というと自分や他人の個人的な罪を思い浮かべることが非常に多い、そういう傾向が強いと思います。
 「私は昨日、お隣の奥さんに腹を立てて、階段から落ちればいいのに! と思ってしまいました。神様、こんな罪深い私を赦してください!」とか、「今朝、私は生徒から『クソ教師! 死ね!」と言われてしまいました。この子の罪をどうか赦してあげてください」とか、そんな感じの、個人的なちょっと心が傷ついた、あるいは傷つけてしまった。悪いことや淫らなことをちょっと妄想してしまったとか、その程度のことを「罪、罪」と言い立てて、「お赦しください」とか、「赦されたから大丈夫とか」、「私は裁きませんが神様がきっと裁くでしょう」とか勝手なことを言っているクリスチャンが特に近年増えてきているわけです。
 そりゃあまあ、そういう個人的なことも罪なのかもしれません。しかし、結婚前のカップルがキスしちゃったら罪だ罪だというけれども、そんなことをしたって、別に原子力発電所が爆発して、各地に放射性物質が撒き散らされて、多くの人が被爆するといったような出来事は起こりません。役所の数字が改ざんされたり、大臣がウソとゴマカシだらけの答弁しかできない。必要もないような戦闘機やミサイルを我々の血税で言い値で買わされる。福祉のためだと言って増税され、その福祉の予算はあらゆる方法で削られる。挙げ句の果てには「サンゴ礁を埋めるな、基地を作るな」と県民投票で意志を明らかにした沖縄に対して、「沖縄に寄り添う」と言いながら埋め立て工事は進める。その工事がいつ終わるのか、いくらかかることになるのか、それすらも国会で答弁できないくせに、工事だけは進めて環境破壊は止めようともしない。
 それらのとばっちりなり火の粉は、結局誰がふりかぶることになるのかというと、中央から離れた地方の人間、そして経済力が低い人、また在日・滞日外国人といった日本人から見下される人たちそういうところにしわ寄せに行きます。
 この罪を犯しているのは誰でしょうか。
 確かに政権を握っている閣僚や政党に罪があるのであって、私はその政党に票を入れたわけではないから、私個人には責任がない、というのも一つの考え方です。また、その罪の結果苦しめられているのは庶民です。罪を犯した本人たちはのうのうと豊かな特権的生活を送り、庶民の方がその結果としての罰を受けているようないびつな構造です。

▼民の罪

 しかし、聖書に記されている罪は、先ほども申し上げたように、個人の罪だけではなく、民の罪に対しても激しい告発がなされているということを思い起こしていただきたいと思います。
 確かに直接政治を担当している王や大臣たちの責任は大きいでしょう。そして、そういう王たちを支持してしまった人々の罪も重いでしょう。
 しかし聖書の、特に旧約聖書の人々は、それを「そいつらの責任だ」と言わなかったし、預言者たちは「わたしたちの罪のためだ」と言ったんですね。
 そういう王を選んでしまった。支持してしまった。それはわたしたちの責任である。また、もしその王が庶民を苦しめるばかりの政治を行うなら、それは神から与えられた権限を間違って用いている者だから、そいつを引きずり落とすのも民の責任なんだと自覚したわけです。
 
▼ボンヘッファー

 このような話をしておりますと、いつも私の脳裡に浮かぶのは、ドイツでナチスの収容所で殺害されたディートリヒ・ボンヘッファーという神学者・牧師のことです。
 彼がドイツ人であるにも関わらずナチスのユダヤ人絶滅収容所に入れられたのは、ヒトラー暗殺計画に加わっていたことが発覚したからです。
 ヒトラーといえば民主的な手続きで選ばれた独裁者です。ということは国民の民意によって登場した政治家です。そのヒトラーのナチスに積極的に翼賛しようとしたキリスト教会のグループも現れました。もちろんボンヘッファーはナチスに反対する立場でした。
 やがて、ナチスのドイツは、身体障害者、知的障害者、精神障害者、同性愛者、ユダヤ人などを次々に強制絶滅収容所に入れて、殺し始めました。組織的に人間を100万人、200万人と殺してゆく、その無茶苦茶な罪深い政策が進む中で、ボンヘッファーは相当に悩んだ末に、ヒトラーを殺すべきだという結論に至ります。
 その時、彼はこういうたとえ話を書いています。たくさんの人を轢き殺しながら車が走ってくる。このまま突っ込んでゆけば、さらに多くの人が轢き殺されることはわかっている。そこで、キリスト者としては、その車を傍観する方が良いのか。それともその車を強制的に止める方がよりキリスト者らしいのか。
 聖書には「人を殺してはならない」と十戒に書いてあります。また、イエスも「敵を愛しなさい」と言っています。模範回答は「ヒトラーでさえも愛しなさい。ヒトラーのために祈りましょう」ということになるでしょう。
 しかし、ボンヘッファーの結論は、この世界史的な犯罪に対して、「もし人を轢き殺すとわかっているのなら、その車を止めない方がキリスト者として罪深いのではないか」だから「その車を止めるべきだ」とものでした。しかも、ナチスを選挙で落とすまで待つという悠長なことは言っていられない。すぐに止めなければならない。そのためにはヒトラーを殺すしかない。ヒトラーを生かしておくことの方がより大きな罪なのだという結論です。
 結果的にはボンヘッファーは暗殺計画への参加を発見され、逮捕された。映画化もされて有名になりましたが、トム・クルーズが主演した『ワルキューレ』という、その題名の元になった、「ワルキューレ作戦」は失敗しました。
 ワルキューレ作戦の協力者の一人であるボンヘッファーが銃殺刑によってそのこの世の生涯を終えたのは、ヒトラーが自ら命を絶った、つまりナチス・ドイツの崩壊のたった2週間ほどだったと言います。
 この出来事のどこに神がおられ、何をしておられたのか、神が何を望んでおられたのかは大きな謎です。
 また、このボンヘッファーのような罪の意識と、その罪を悔い改めたキリスト者としての行動は、今でも賛否両論があります。
 ただ一つ確かなことは、ボンヘッファーは個人の罪ではなく、民の罪としか言いようのないような、人類が神の与えた命に対する恐ろしい冒涜を行なっている。人類が神の愛を泥の中に踏みにじっている。その罪を自分自身も担っているという意識を持っていたということです。
 そして、彼の暗殺計画への参加は、彼の悔い改めの行動そのものだったということです。

▼民としての私の罪

 「民の罪」と言っても「みんなの責任」「連帯責任」という理解とは違うのです。
 日本はかつて、第二次世界大戦で敗戦した時に、「一億総懺悔」という声をかけて、戦争を命令した政治家の責任を追求するのではなく、「戦争に負けて申し訳ありませんでした」という懺悔を「連帯責任」という形で、天皇という「現人神」に対して行なったんですよね。
 この場合の「連帯責任」は、「みんなに責任がある」と言いながら、個々人の本当に自分に問うべき責任を曖昧にし、本当の責任の所在をごまかしてしまう。いわば巨大な無責任宣言と同じです。
 そうではなく、私たち一人一人が、巨大な悪に加担し、神の与えたこの世界とすべての命に対して暴虐の罪を働いている。それは私自身の罪であり、私個人もこの状況には加担している罪があるのだ。そして、少しでもそれを悔い改めて、自分にできる方法で状況を改善してゆく責任があるのだと。そういう自覚が必要ではないかと思うのですね。
 ということで、レントは悔い改めの季節。個人的なちょっとやらかした、しでかしたという罪よりも、もっともっと悔いて、改めるべき巨大な「民の罪」というものがあるのではないかと思うのですが、皆様はいかがお感じになるでしょうか。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。






礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール