何ゆえの十字架か?


2019年3月31日(日) 

 日本キリスト教団 枚方くずは教会 主日礼拝 宣教

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聖書の朗読&お話(約22分)


 コリントの信徒への手紙(一)15章3-5節 (新共同訳)
 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。




▼受難週の過ごし方

 受難節(レント)であります。イエス・キリストの受けられた苦しみを思い起こして、悔い改める時期ということなので、私たち自身も何らかの痛みや辛い課題などを負ってこの時期を暮らしたり、断食をしたり、禁酒をしたり、あるいはイースターまでに何かの目標を達成しようとか、そういうことを心がけておられる方もおられるでしょう。
 あるいは、何もしてないよ、という方もたくさんおられるので、別に「これをしないとあなたは地獄に落ちますよ」とか、そんなことは一切無いのですが、好きな人は好きですね。このイースターまでは肉を食べないとか、タバコは吸わないとか、いろいろやる人はやる状況のようです。
 イースターから逆算して、日曜日を抜いた40日間ということですから、1ヶ月以上にも及ぶ長期間ですが、この40日というのも、イエスがその修行時代に40日間断食をしたという聖書の記事にちなんでということになっています。
 あるいは、イエスの十字架での死を覚えて、喪に服する時期でもあり、あまりどんちゃん騒ぎの宴会などはしないほうが良いのではないかと自粛する人もいます。人それぞれの考え方、教会それぞれの考え方でこの季節を過ごしてゆくのでしょうね。

▼イエスの受難の真相

 ところで、この受難節の根底にある、イエス・キリストの受難、言い換えると、イエスが十字架に架けられて殺されたという事件ですね。これがなかったらおそらくキリスト教が生まれなかったし、キリスト教のシンボルが十字架にはならなかったことでしょう。
 これについて、パウロという人は、今日お読みした新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)15章3節で、「聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだ」という言葉を残しています。
 この「私たちの罪のために死んだ」という言葉を私たちはよく簡単に使うわけです。「イエス様は私たちの罪のために死んだ」、「私たちの罪のために死んだ」と。
 しかし、この「私たちの罪のために」ということを、私たちは正確にはどういう意味で捉えて、理解しているでしょうか。
 大抵の人は、「イエスは私たち人類の罪を贖うために、私たちに代わって十字架にかかってくださった」んでしょう? という風に理解しているわけです。
 けれども、そういうことなんだろうか? 本当にイエスは、「人類が神様に罰せられないように、私が代わりを罰を受けよう」と決心して十字架の刑にかかったのでしょうか。そして、「一旦死んでも3日目にはまた復活できるからねー」と、一時的にトンネルと潜るような気分で死んでみせたのでしょうか。
 
▼裏切られたイエス

 私はそういう風には思っていないんですね。イエスはマルコによる福音書で「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか?!」と言って死んでいますね。4つの福音書の中で、イエスが十字架の上で発した言葉はそれぞれ違うように記録されていますが、この「わが神、どうして私を見捨てたのですか!」という言葉は、最もイエスの死に際の絶叫として信ぴょう性のある言葉だと言われています。
 もし、3日目に蘇る予定であることを知っていたら、このような絶望的な絶叫を上げて死ぬということは考えにくいです。もしそんなことをしていたとしたら、イエスの十字架は「ヤラセ」になってしまいます。
 そうではなく、イエスは本当に「自分は神に見捨てられた! 自分が「今までやってきたことは何だったんだ! 何の意味もなく死ぬだけなのか! 誰も助けてくれないのか!」と絶望しながら、ひとりぼっちで痛み苦しんで死んでいったわけです。それでイエスの生涯は終わりです。
 彼が神に「どうして私を見捨てたのですか!」と言いながら死んでいったということは、イエスはひょっとしたら自分は神様のおかげで助かるかもしれないと思っていたのかもしれません。また、まさか自分が殺されるとは思っていなかったのかもしれません。しかし、その淡い期待は裏切られました。
 彼が死ぬつもりではなかったということは、彼は自分が死ななくてはならないとは思っていなかったということになります。彼は人類の罪のために身代わりの罰を受けようとはしていなかったわけです。むしろ、神が助けに来ることを十字架につけられながら待っていたのですからね。でも、待っていた助けは来なかった。

▼イエスを殺した罪

 そういう考え方をしますと、イエスが人類の罪を贖うためにあらかじめ決まっていた予定通りの死をくぐり抜けた、というのは、後の人たちが考えた教義で、実はそうではなかったのではないかということになります。
 つまり、「私たちの罪のために」というのは、「人類の罪を贖うために」という目的を示している言葉ではなく、「人類の罪によって」という原因を示しているのではないかということです。イエスを殺したのは人間の罪である。イエスを殺したのは人間そのものである。イエスは人間に殺された被害者でしかない。こういう考え方もできるのであります。
 ではイエスを殺した罪とは何か。
 イエスという人は、食い詰めた人を食べさせ、泊まる場所もない宿無しを泊め、病の者を癒し、悪霊を追い出し、といった、徹底的に弱い者・低い者の味方になり、実際に動き、そして、そういう人々を「罪びと」だといって虐待したり、追放したりするエルサレムの貴族たちに反抗して、「みんな赦されているんだ」と」宣言して回った。そんな庶民のリーダーだったわけですが、そんなイエスを、逮捕して、見せしめとして十字架で殺し、多くの民衆に失望を与えた罪です。
 直接的には、イエスを殺したはローマからの駐留軍の兵士たちです。また、死刑の判決を下したのは、ローマから派遣されてきていた総督ピラトです。
 しかし、そこにイエスを陥れたのではユダヤの指導者であった大祭司を中心として最高法院のメンバーたちでした。また、イエスをその最高法院に売ったユダ、そしてイエスを放り出して逃げてしまったのは、ペトロだけではなく弟子たち全員でした。
 さらには、イエスにこの世の全面的な転換と、神の国の到来を期待していた民衆は、それが叶えられないことを知って、イエスに助けてもらったことなども忘れて、「イエスを殺せ! イエスを殺せ!」といって、騒ぎ立てて見世物にした。そういう庶民の体質もまた罪深いものだったと言えます。
 そんな人間社会のあちこちに潜んだ罪が、ひとりぼっちのイエスを取り囲んでなぶり殺しにしたと言えるでしょう。つまり、イエスは人間の罪の被害者であり犠牲者です。

▼イエスならわかってくれる

 もし、このイエスの死から何らかのメッセージを受け取ろうとするならば、それはイエスが死んでくださったという感謝ではありません。むしろ、イエスを殺してしまったのは、私たちの社会に横たわっている、様々な問題の集大成であり、今だって私たちは死ななくても良いはずの人が死んでゆく人を止めることはできていないし、政府に都合の悪い人を無理やり黙らせたり、逮捕したり、場合によっては命も奪うということも辞さないといったことをやる社会に生きてきているじゃないか。
 10代の子供の死因のトップが自死だというデータが発表されるほど、生きていること自体に希望が持てない人がわんさかいるような世の中に生きているじゃないか。
 イエスはこんな人間社会が神から離れてしまっている状況の中で、その犠牲者として死んだわけですが、逆に私は、イエスなら、このような世の中で与えられる苦しみを真っ向から苦しみ抜いて、そして最後は、その苦痛と孤独と絶望の極限を味わい尽くして、なんの希望もないまま一生を終えなくてはならない人間の思いをわかってくれるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 つまり、私たちは自分が絶望的な状況に置かれた時、イエスのことが少しわかるのであり、また絶望的な状況に置かれた時、イエスなら私のことをわかってくれるはずだと知ることができるのではないでしょうか。
 イエスならば、一緒に苦しんでくれる。イエスならわかってくれる。イエスなら共に十字架を背負ってくれる。
 そして、そんなイエスが現在を生きる私たちと共にいてくれるということを信じ、告白する時がイースターなのですね。
 イースターというのは、十字架に架けられたイエスが、今から約2000年前にただ殺されて終わった。それだけではなく、今も私たちのせいで十字架に架けられ続けている。私たちはこの事に、自らがいかに神に反逆した社会を作っているかを、悔い改めなくてはいけません。
 しかしその一方で、イエスは私たち自身がどん底に落ちる時には、自らの苦しみを持って、私たちに寄り添ってくださる。私たちは一人でただ苦しんでいるわけではないのだと信じることができる。イエスはそのようにして、今も私たちのそばに居続けてくださる。それがイースターの奇跡なのだと信じているのですが、皆さんはいかがお感じになるでしょうか。

 祈りましょう。






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