喜びの種を気長に蒔こう


2019年4月7日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約17分)


 詩編126編5-6節 (新共同訳)
 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
   喜びの歌をうたいながら帰ってくる。



▼とんでもない所へゆくただ一つの道


 本日の聖書の言葉、詩編126編に収められていて、もう私が何も説き明かしを加えなくてもいいような、むしろ加えなくて良いような言葉です。この聖書の言葉が私はとても気に入っています。
 
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
  種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。

 日々、地道な苦労を続けてゆく人が、その実りを手にすることができる。毎日の単調な努力を続けることのできる人が、いつの間にか振り返ってみれば、大きな仕事を成し遂げている。いつ報われるかわからないような仕事ではあっても、いつかは収穫を得て、喜びの声を上げることができる。だからこそ、私たちはまた種を蒔きに出かけてゆくことができます。
 私はイチローという野球選手はそんなに好きではありません。というのは、彼とは支持する政治家が真っ向から反対ですし、彼が試合中に発する韓国に対するヘイトスピーチの問題もありますので、話をしたくはないな、というタイプの人です。まあ私がイチローと直接話すチャンスは一生無いと思いますけれどね。
 そんな風にイチローのことは好きではありませんけれど、彼の野球に関する発言には「なるほど」と思わされずにはおれないものがたくさんあります。
 特に私が好きなのは、「いま、小さなことを多く積み重ねることが、とんでもないところへ行くただひとつの道なんだなというふうに感じています」という言葉ですね。
 とんでもないこと、ものすごいことを達成するために、とんでもない工夫やものすごい努力をしなくちゃいけなんじゃないかと人間は思いがちですが、彼が偉業を達成したのは、実は小さなことを多く積み重ねるということですよね。それは時間がかかるけれども、その苦労を習慣化することが、自分を予想もつかない所に連れて行ってくれるんですね。
 今、私が「苦労を習慣化する」とも言いましたけれども、これもイチローの言葉ですね。「努力とは意欲のことではなく習慣のことである」とも言っています。
 これらの言葉は、野球に限らず、何かに取り組もうとする人間にとって、「何か特別なことをしなければいけないんじゃないか」という気負いを取り去ってくれたり、派手なことが苦手な人にとっては、「日々の地道な努力を習慣にようにやっていれば、きっと報われるんだ」という希望を与えてくれるものではないかと思います。
 そして、今日お読みした詩編の言葉も、日々の代わり映えのない仕事の連続に一体どんな意味があるのかと思いがちな私たちの生活にも、実りの時、収穫の喜びの時があるのだという希望を与えてくれるものではないかと思うのであります。

▼先天的なる愛

 さて、私たち徳島北教会は、教会の使命(ミッション)として、「愛される喜びを伝えたい」という言葉を掲げています。
 この言葉には主語がありませんが、あえてそれを読む人に考えさせる余韻があります。改めて考えてみると、「愛される」というのは誰が誰を愛するのでしょうか。それはおそらく神様が私を、あるいは私たちを愛している、というのが、まずは模範解答でしょう。そして、それを誰に伝えるのかというと、まずは第一に「教会外の人々」「まだ神様に愛されることを知らない人々」ということになろうかと思います。
 しかし、少し突っ込んで考えますと、私たちは「神に愛されている」ということをどれだけ実感して受け止めているでしょうか。神様は眼に見える方ではありませんし、その声が耳に聞こえる方ではありません。いま突然「神様、どこにいますか?」とか「神様、語りかけてください」と祈っても、「はいはい」と神様が答えてくれるということはまずありません。
 けれども私たちは、人とのつながりの中で、愛というものの温かさや人を活かす力をいうものを感じることができます。人間の赤ん坊が生まれつき持っているのは愛を求める力や、愛を受け取る感受性、そしてその愛に応えようとする応答性です。もしその人に必要な愛を十分与えられずに育つと、脳も心も十分に成熟することが困難です。悪意や虐待によって人がますます育つということはありません。愛こそが先天的に与えられた、人間を活かすためのエネルギーなのだと思われるのです。
 愛というものは、人間がこの世に産み落とされる前に、まるで生命が宿った瞬間に、誰に命令されたわけでなく、心臓と血液が動き出していてたように、また生まれた後はたとえ眠っている間も肺と呼吸が動いているように、それは私たちが教育を受けたからそれを学んだというわけでなく、意志で動かそうとして初めて可能になるわけでもなく、生まれつき自分の中に備わっているものです。
 ということは、愛というものは、人間に生まれる前から与えられた臓器のようなもの。命と同じように人間に与えられたエネルギー、それは人が自ら手に入れたものではなく、神から与えられたものではないかと私は信じたいのです。
 ヨハネの手紙には、「愛することのない者は神を知らない。神は愛である」という言葉がありますが、この言葉がいま私が申し上げたことの本質をそのまま表しています。

▼愛を行う方法

 ただ、他の無意識の体の動きとは違うのは、自分以外の人間の愛と交わることがなければ、大きく育つことはないということです。愛は自分以外の人の愛と繋がり、交わることが絶対に必要です。より良く生き、生きていることの喜びを味わうためには、愛し愛されることがどうしても必要です。そして、先に申し上げましたように、私たちは神が愛しておられることを直接経験することはできません。そうではなく私たちは、私たち人間同士で愛し合うことによって、神様が造り、与えられた愛を伝え合うことができるのですね。
 ですから私たちは、互いに愛をもって配慮するとき、その愛が神様から与えられたことを忘れないようにしたいと思うんです。また逆に言うと、神の愛は、人間同士の愛の言葉、愛の行動、愛の交わりにおいてしか伝わりません。愛される喜びを伝える方法は、言葉と行動と交わりによって愛を行う以外にはないのです。
 さあそれで、どうやって人を愛する行いをするのかというと、一体どうしたらいいのだろう、人を愛するなんて……と大きく構える必要は特にないのですね。
 そこで先ほどのイチローの話が再び登場するのですが、最初からとんでもない努力をする意欲やエネルギーが必要ということではないのですね。日々、特別でもない小さな営みをただ持続すること、それが自分をとんでもない距離へと連れて行ってくれるんですね。それは、山の尾根伝いを長く歩いてみて、ある時ふと振り返ってみると、「おお案外たくさんの距離を歩いてきたもんだな」と気づくような、そんな感じに近いのではないかと思います。

▼喜びの種を蒔こう

 私はこの2019年度の教会の指針として「喜びの種を気長に蒔こう」という言葉を役員会で検討する原案として提案しようと思っています。これは「愛される喜びを伝えたい」という教会のミッションをいかに実現すれば良いのかということを考える中で、本日の詩編の言葉に出会ったことから思いついたものです。
 「涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
   喜びの歌をうたいながら帰ってくる」
 私たちは特別なことをすることを望まれてはいない。ただ、ゆっくりと、でもしっかりと、自分にできる小さなことを、日々の習慣のように行うこと。自分が出会う人に愛のこもった言葉をかけること、愛のこもった行いをすること、愛のこもった交わりを持つこと、そして愛の祈りを捧げることによって、私たちは「神に愛される喜びを伝える」ことができるのではないでしょうか。
 ここから始まる1年、地道に気長に歩む教会でありたいと思います。






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