十字架につけられたままのイエス


2019年4月21日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 イースター礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約23分)


 コリントの信徒への手紙(一)1章18-25節 (新共同訳)
 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いているからです。
 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
  賢い者の賢さを意味のないものにする。」
 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまづかせる者、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。



▼「復活した」とは言うけれど

 みなさん、イースターおめでとうございます。イエスの復活をお祝いする日がやってまいりました。
 これまで、レント(受難節)というおよそ40日の間、イエスの死について喪に服する期間を過ごし、先の1週間は受難週(パッション・ウィーク)を過ごして、今日の復活日に至りました。
 先週の日曜日は「棕櫚の主日」と言って、みんなで棕櫚の葉っぱを持って、イエスがエルサレムにやってきた時に、群衆が棕櫚の葉っぱを振って迎えたということを覚える聖日でした。
 去る木曜日は「洗足木曜日」といいまして、イエスが弟子達の足を洗ってあげたことを記念する日。翌日の金曜日が「聖金曜日」あるいは「受難日」とも「受苦日」ともいって、要するにイエスが十字架の苦しみを受けたことを記念する日。そして昨日の土曜日をおいて、今日の日曜日が「復活日」、イエスが復活したことを祝う日ということになっています。
 福音書にイエスが十字架につけられてから3日目、つまり日曜日に復活したと書いてある、という読み方から、もともとユダヤ教の聖日だった土曜日から、イエスの信じた人たちによって聖日は日曜日に変えられて、日曜日の朝に礼拝することになっていったんですね。
 このイエスが蘇ったのが3日目だというのは、事実ではないと言われています。むしろ、ヨナが魚に飲み込まれて3日目に吐き出されたという旧約聖書の物語以来伝えられた、死と蘇りを象徴する記号のような数字として「3」が使われたのだという見方があるのですね。それで私自身はそういう方向性で理解しています。
 そもそも、最初に書かれたマルコによる福音書には、墓が空っぽであったことしか書かれていませんし、肉体の蘇ったイエスのことは最初には伝えられていなかったことは明らかです。後にできてきたマタイやルカといった改訂版の本の方でそういうことは付け加わってきたので、元々は墓が空っぽだったという事実しかなかったんですね。
 さらには、日本語で「復活した」「復活した」と訳されているのは、実は直訳すると「(神によって)起こされた」という言葉になるんですね。単純に「起こされた」、「神によって再起した」ぐらいの意味ですよね。ですから、肉体が蘇った、生物として生き返ったという風に解釈するのが当たっているのかは疑問だという人も多く、私も「再び起こされたイエス」という言葉が、肉体として蘇ったイエスのことを指すとは思っていない一人です。

▼十字架につけられ給ひしままなるキリスト

 それでは「再び起こされたイエス」とは何かというと、それは正確にはわからないのですけれども、恐らく、イエスを信じる人たち自身が再び力を得て、立ち上がったという面が大きいのではないかと思います。
 イエスの遺体を収めたお墓が空っぽだったというエピソードは大いに影響を与えたと思います。そして、イエスは実は生きているのではないかという噂が流れたのでしょう。
 そして、イエスの肉体に出会った者はいなかったとしても、イエスは生きていると信じた人もいたことでしょう。
 しかし、それだけではなく、どの福音書よりも先に書かれたパウロの手紙の中に、再び起こされたイエスのことが何度も繰り返し描いた記事があり、これが広く読まれるようになったことより大きな影響は無かったのではないかと思われます。
 その一つがこのコリントの信徒への手紙(一)の1章23節、本日お読みした聖書の箇所の後半に記してある言葉ですね。
 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」とあります。
 おかしいな? とお気づきになりませんでしょうか?
 パウロは「十字架につけられたキリスト」と言っていますが、「復活したキリスト」とは言っていませんね。先ほどから私が何度も申し上げているように、きれいな肉体として復活して自分で歩く人としてやってきたキリストをパウロは宣べ伝えているのではありません。そうではなく、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えているのですね。
 実はここを原文から直訳しますと、「十字架につけられたままのキリスト」となります。
 日本語でこれを正確に訳しているのは、この問題を特に深く研究しているある学者さんによれば、唯一、文語訳聖書の「ガラテヤ人の書」3章1節の部分だそうです。文語訳聖書でも、他の部分は単に「十字架につけられ給ひしキリスト」と訳しているのですけれども、このガラテヤ3章1節だけは「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」と正確に訳しています。もちろん、パウロ自身はどこでも実は「十字架につけられたままの」という表現をしているわけです。
 つまり、パウロが見ている「再び起こされたイエス」、「再起したイエス」というのは、「十字架にかかったままのイエス」なんですね。
 パウロはシリアのダマスカスに、クリスチャン討伐のために向かっている途中に、イエスの幻を見たと伝えられていますが、もしそれが本当だったとしたら、その幻は「十字架につけられたままのイエス」が目の前に現れたという体験だったんだろうと考えられるわけです。
 もし幻として見たというのが、伝説に過ぎなかったとしても、いずれにせよ、彼の言っている「再び神によって起こされたイエス・キリスト」というのは「十字架につけられたままのイエス」だったことは、彼がそう自分で手紙の中で書いているのですから、間違いありません。

▼聖なる阿呆

 これは私たちが普段思い浮かべがちなイエスの復活のイメージとは違うのではないでしょうか。
 翻訳というのは実に恐ろしいものだと思いますね。今私たちが通常読んでいる日本語の聖書は、パウロが「十字架につけられたままのイエス・キリスト」と書いている所を全部「十字架につけられたイエス・キリスト」という風に、単純な過去形に訳していますから、本来パウロが言いたかった「今もイエスは十字架につけられたまま苦しんでおられるのだ」というニュアンスは全く隠されてしまっているんですよね。
 この翻訳は、ほとんど陰謀ではないかと思うくらい罪深いです。
 このパウロの言っている意味合いをちゃんとわかった上で読むと、例えばこの今日読んだ聖書の箇所も、少しスムーズに頭に入ってくるのではないでしょうか。
 今日読んだ18節以降は、人間的な知恵ではイエスが十字架にかけられた事は、世の中一般の人には愚かな手段でしかないだろう。しかし、そのような一般的な人間の知恵では、神を知る事は出来ないんだよと。
 世の中の貧困や差別や暴力を受けている人、病気や障害を抱えていて「悪霊が取り憑いている」と言われている人、また現代の私たちが「犯罪だ」と思うようなことだけに限らず、安息日が守れないほど仕事や生活に追われているとか、人間や動物の死体に触らないといけないような仕事についていて「汚れている」と言われるような、それらのいわゆる当時のユダヤ教で言う「罪びと」と呼ばれる人たち。
 そう言った人たちの苦しみを全部担って、身代わりとして殺された。みんなの苦しみを全部理解して、全部一緒に苦しみを負うつもりで、殺された。弟子たちと一緒に逃げることも不可能では無かったのに、弟子たちを全部逃して、自分だけ逮捕されて、あっという間に処刑された。処刑された時の最後の叫びが「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのですか!」です。
 普通に賢く生きなければと思っている人たちから見れば、こんな阿呆
みたいな生き方、愚かな死に方はありません。大失敗の人生といいますか。私が高校時代、こんなイエスの死に様を、「聖なる阿呆」と言った牧師がいましたが、まさに「阿呆」でしかありません。
 でも人間的に見て阿呆みたいな、この愚かなやり方が、神の知恵だったんだと、パウロは言っているのですね。

▼パウロの復活

 パウロは、十字架にかかって血まみれになりながら、今もなお苦しみ続けているイエスから「サウロ、サウロ(サウロというのは、パウロのヘブライ語での名前ですが)、なぜ私を迫害するのか」と話しかけられるという体験をしました。
 驚いたと思います。両手両足を木に打ちつけられた、息も絶え絶えの血まみれの男が、「お前はなぜ私をこうやって迫害するのだ!」と問いかけてくるのですよ。怖かったと思います。
 そしてその時、パウロは自分が今までユダヤ人のエリートとして迫害してきた「罪びと」たち、殺されてゆく社会的弱者、自分自身が手にかけてきたイエス派の人々の死に様と、そのイエスの痛々しい姿が重なったのでしょう。自分がいかに罪深いことをしてきたかということ、イエスを殺した社会の罪、それは自分自身の罪であるということを自覚したのではないでしょうか。
 そうして、パウロの魂は死んでしまいました。今風に言えば鬱病にかかって動けなくなってしまったとでも言いましょうか。ダマスカスに着いてから、彼はアナニアというイエス派の信徒に介抱され、体調を戻し、使徒言行録(使徒行伝)の9章によれば、「身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した」(使徒9章18-19節)と書いてあります。
 お気づきになりましたでしょうか。もう一度繰り返します。「身を起こして、バプテスマを受け、食事をして元気を取り戻した」です。
 パウロはクリスチャンの介抱を受けて、再び起きることができた。つまりパウロ自身が復活したわけです。そして、バプテスマを受けて、食事をした。この食事をしたというのは、クリスチャンの共同の食事、つまり聖餐と愛餐です。初期のクリスチャンの間では聖餐と愛餐は分かれていませんでしたから。ですから、彼はイエスの信徒たちとの食事をモリモリ食べた。アナニアの介抱に癒されて、食欲を取り戻し、初代教会の食事を食べられるようになって、元気を取り戻し、そしてやがてキリスト教の宣教者として人生を変えられてゆくんですね。

▼共に「再起」しよう

 ですから皆さん、復活という言葉にはたくさんの誤解がまとわりついていますが、本当にこのイースターに私たちが思いを新たにしなければならないのは、「再び起こされたイエス」すなわち「十字架につけられたまま再び起こされて、私たち人間に『なぜあなたは私を迫害するのか』という問いを突きつけてくるイエス」に、どう応答するかということなのですね。
 イエスは、この世の知恵ある人の視点から見れば、阿呆みたいな生き方と死に様を晒しましたが、実はそれは知恵ある世の中の人に、「お前たちはなぜこのように弱い者たちを痛めつける世の中を放置しているのか」と問いかけ、世の中で知恵もなく苦労して生き、苦い、痛い思いをして死人のように生きている人には、「私があなたと一緒に苦しんでいるよ。でも、一緒に神様に再び起こしていただこうじゃないか。再び起こされて、あなたも他の先立つクリスチャンたちのように、元気に生きてゆきなさい」と呼びかけています。
 知恵ある人には悔い改めて生き直すこと、底辺の人には共に苦しみながらも癒されることを願っている、そんな今も十字架に架けられたまま生きているイエスを心に抱きながら、私たちもパウロのように復活して、元気に生きて参りたいと思う者であります。
 本日の説き明かしは以上です。





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