本当に赦してはならない過ち


2019年4月28日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約23分)


 マタイによる福音書5章44−45節 (新共同訳)
 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。



▼キリスト教は赦しの宗教か

 キリスト教とはどんな宗教かということを言う中でも「罪の赦し」という言葉は結構よく使われます。イエス・キリストは「人間の罪を赦された」とよくクリスチャンは言い広めようとします。「私たちの罪は赦された! 私たちは救われた! ハレルヤ!」というわけです。
 しかし、その一方で、「キリスト教はとても堅苦しい宗教だ」と感じている人もたくさんいます。「あれは罪です」、「これは罪です」と言って人のやる事なす事にいちいち文句をつける連中というイメージも結構広がっています。
 たとえば、赤いスカートを履いて行ったり、穴の空いたダメージド・ジーンズで行ったら教会で怒られてしまったとか、そのようなどうでもいいことにこだわっている教会もあれば、ゲイは神の創造の秩序に対する反逆だと言って、決してその存在を認めず、「悔い改めて治療しなければならない」と言う神学者、レズビアンとは会話もしたくない、顔も見たくないとばかりに逃げ回る牧師などもいます。人間が自分らしく生きていたい思うことさえも赦さないようなクリスチャンも実際たくさんいます。
 「神様は全ての人を赦し、愛しておられます」と言って、ある時は「無条件の赦し」を語り、ある時は「悔い改めて変わらなければ救われません」などと言って、結構恣意的に(つまり自分勝手な価値観にしたがって)「これは赦される」、「これは救われない」と判別する。
 その判別基準は案外曖昧というか、実は本人の思い込みとか好き嫌い、もっとはっきり言ってしまえば、偏見や差別意識であることが多いのですが、そんな極めて主観的な判別の根拠として、神様だとか聖書だとかキリストだとか、そういった絶対的なものを持ち出します。
 絶対的なものを根拠にして、ある人を排除するということは、つまり、「おまえの存在は絶対的に否定されているのだ」と言っているのと同じくらい重いことです。そのような重い否定の発言を受けた人は、神様への思いが切実なほど大きく傷つきます。
 その一方で、神様や聖書やキリストを持ち出して、他人を否定している人自身は、自分を聖なる側、正しい側に置き、それを絶対者である神が保証していると思い込んでいるので、自分の差別性や相手の痛みなどには全く気付くことなく、のうのうと生きてゆくことができます。
 本来はすべての人が神に受け入れられ、愛されているはずなのに、その神の名を勝手に借りて、自分とは異なる人を追い払う理由にしている。そんな状況がキリスト教会の中に往々にして見られます。

▼敵を愛す

 本日お読みした聖書の記事で、イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言っています。
 キリスト教は、先ほど申し上げましたように、「赦しの宗教」とも言われますが、同時にもっと広く「隣人愛」の宗教だともよく言われております。キリスト教と言えば「隣人愛」だろうと、代名詞のように語る人もいます。
 しかし、イエス自身はもっとその先へ、「敵を愛しなさい」と言っています。敵というのは本来憎むべきものです。自分にとって、いてくれては困るものですし、できれば立ち去って欲しい。場合によっては、殺すか殺されるかという関係にもなりかねないほど邪魔な存在、それが敵です。
 けれどもイエスは「敵を愛しなさい」と言う。そんなことをすれば、私は損をする。あるいは殺される。私の命は奪われてしまうわけです。イエスは恐らくその危険性も含んだ上でなお「敵を愛しなさい」と言っていたのでしょう。
 なぜなら彼は、実際に敵に囲まれ、迫害され、殺されるという目に遭いながらも、甘んじてその運命を受け入れたからです。彼は逃げようと思えば逃げられたかも知れないのに、自分の身を敵に渡したことで、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る生き様、死に様を示したのではないでしょうか。
 その生き様、死に様が、多くの人の心と生き方を変える力になったのは確かです。ここには究極の赦しがあり、その人間の限界を超える赦しの愛に、人は新たに神を見出したのではないかと思われます。

▼真面目な人ほど怒り出す

 そしてイエスは更に、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」とも言います。
 イエスの説く神の赦しは、「悪人にも善人にも」、「正しい者にも正しくない者にも」同じように降り注ぐ自然の恵みのように、人に与えられているのだ、というわけです。
 このイエスの発言が、当時の宗教者であり、また政治権力者でもあった祭司階級の怒りを買ったことは間違いありません。それどころか現代人でも、ちょっと考えたら真面目な人ほど怒り出すような内容です。
 常識を踏まえた真面目な人なら、悪は悪であり、善は善です。また正しいことは正しいことであり、正しくないことは正しくないことです。そうでないと、人は悪を行なっても良いということになるし、正しいことを行い続けても何の報いも無いということになってしまいます。もちろん実際の世の中は、善人や正しい人が報われるとは限らないのが現実ですが、それでも「そうであってはならない」と願うのが一般的な人間の心理です。
 ですから、イエスの「悪人でも善人でも」「正しい者でも正しくない人でも」などということを本気で主張していたら、社会の秩序というものが崩れてしまいます。
 ましてや、ユダヤ人の保守派というのは古来から伝えられた律法を、そのまま神の意志として受け取って、個人の生活も社会における司法も行政もその律法に基づいて行おうとします。律法に善悪の基準も書いてあるのであり、「正しい者」というのは律法に従う者という意味であり、「正しくない者」というのは律法を破る者という意味です。ですから、イエスが言っていることは、「神に従う者にも、神に従わない者にも、神は恵みを与えられる」ということになります。

▼正直者は馬鹿を見る

 こういうことを言われると、真面目に律法を守って生きている人間からすれば、「我々は何のために先祖代々律法を守ってきたのか、全く意味がなくなるではないか」ということになりますし、結局「律法を破ってもいいよ」というお墨付きを与えるようなものであり、「神の与えた掟に対する冒涜」、つまりは「神への冒涜だ」と告発されるのは当然なわけです。
 しかし、イエスはちょっとした思いつきや言葉遊びでこういうことを言っているわけではないことは、福音書の中の他のイエスの言葉を見ても明らかです。
 例えば、彼のたとえ話の中には、「ぶどう園の労働者のたとえ」として知られているものがあります。真面目に朝から働いた人も、夕方から来てちょっとだけしか働いていない者も、もらう賃金は同じである。「やってられるか」と朝から来ていた労働者が怒り出すとか。
 あるいは、「放蕩息子のたとえ」では、真面目に働いていた兄貴よりも、放蕩の限りを尽くしておめおめと戻ってきた弟の方が祝福される。「何だよそれは」と兄貴が怒り出すとか。
 「後の者が先になり、先の者が後になる」とか。「7の70倍赦せ」とか。イエスの教えというのは、そういう「正直者が馬鹿を見る」という話が多いのですね。そういう話をイエスは何度も繰り返し、いろんな場所で語っていたわけです。
 先ほども申しましたように、実際の世の中というのは、正直者が馬鹿を見たり、悪人や罪人が富や権力を手に入れて、のうのうと生きているといったことがよくあるものです。ですから、案外イエスの考えは、それほど悪いものでもないのかもしれません。
 しかし、善人や正しい人こそが報われるべきだ、あるいは自分が報われなかったとしても、少なくとも悪人や罪人は裁かれて痛い目に遭って当然だと思っている多くの人にとっては、このようなイエスの話はカチンと来るというか、そして民に律法を守らせ、取り締まる立場にいる人間としては黙って放置しておくわけにはいかなかったわけですね。
 それでも、イエスは確信犯的に「律法を守らない者も、神に愛されている」と説いて回ったのでした。

▼反逆を演じる

 ただ、そんなイエスが決して赦さず、怒りや憤りを隠さなかったものがあります。それは何でしょうか?
 それは、律法や宗教的信念などによって、ありのままの自分を生きようとする人間を否定することです。「正しい」」とか「善い」といった価値観を他人に押し付けて、「お前は間違っている」とか「お前は悪い」と言って区別したり、差別したりすること自体が間違っているというのですね。
 しかもイエスは非常に口が悪いです。祭司たちや律法学者たちに対して、「蝮の子らよ」と言ってみたり、「白く塗った墓だ」と言ってみたり、「人に背中に重荷を載せておいて、自分は何もしない奴らだ」とか「お前たちより娼婦たちの方が先に天の国に入るんだからな」と祭司たちに喧嘩を売ってみたり、言いたい放題です。
 彼自身が不作法で、およそ善人とか正しい人とは思えないようなスタイルで言葉を叩きつけてゆきます。わざとそういうスタイルを演じていたのかも知れません。真面目さや聖なる立場を装っている聖職者たちに対して、そんな偽善的な態度を嘲笑うために、あえてそのような不作法な様子を見せつけたのかも知れませんね。
 そこまでやってイエスは、神の名によって裁かれる人たちを守ろうとしたのでしょう。「神に対する反逆」を演じてでも、「神によって裁かれる」人々を守ろうとしたわけです。

▼「正しい者」の闇

 人が他人の過失を責めたり、欠点をあげつらったり、陰口を叩いたりするのは、よくあることです。それで自分の気分がスッキリするのなら、どうということはありません。
 人のことを好いたり嫌ったりするのも、結局は相性やタイミングの問題であったり、自分の主観的な思い込みに過ぎないんだろうけどね、ということを自分でわかっていれば、あっても当たり前のことで、目くじらを立てるほどのことでも無いのでしょう。
 しかし、そのような利害関係や損得勘定、あるいは好き嫌いに過ぎない感情問題であったり、食わず嫌いに近いような無知から来る嫌悪感や偏見であったりするものが、神の権威を借りて自分を正当化し始めると、深刻な人権侵害や差別になるのですね。
 人にはどうも、神とか国家とか歴史とか学問とか、そういったもので自分のしょうもない思い込みを、確固たる根拠に則っているのだと思ってしまいたい欲求があるのではないでしょうか。そして、相手を「正しくない者」や「邪悪な者」、あるいは「無知な者」や「異端者」だと仕立て上げて、自分を正当化したくなってしまうものなのではないでしょうか。
 しかし、そのような欲求は、神様という絶対者を引き合いに出してしまうと、正しい側に立っていると思っている人自身も引っ込みがつかなくなり、正しくない側にされてしまった人間を絶望的なまでにはたき落とし、時には命まで奪ってしまうような差別を生んでしまいます。
 イエスはそういう権威にすがる人間の闇を暴き、権威によって裁かれる人間を守ろうとしたのだと思えるのですが、皆さんはどのように思われるでしょうか。
 かく言う私も、自分が牧師であり、教師であるだけに、自分でも全く気づかないうちにこのような過ちを犯すことがあります。私自身がイエスの一番嫌うことをやってしまい、激しく反省を迫られてしまうことがあります。
 宗教とは、人をそのままに愛し活かすもの。人を裁いたり、貶めたりするために利用するものではありません。単純なことですが、自戒を込めて、そのことを改めて覚えたいと思います。





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