日本で一番危険なカルトについて


2019年5月5日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約49分)


 マタイによる福音書13章3−13節 (新共同訳)
 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これは産みの苦しみの始まりである。
 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。



▼カルト化する教団

 今日は、「日本で最も危険なカルトについて」お話をしようと思っています。なので、あまり嬉しく和やかで希望のあるような話ではありません。けれども、日本でキリスト教に関わって生きてゆく限りは、認識しておかないと大変なことになりかねないように私は感じていますので、この問題の一部だけでも、まとまった時間でお話をしておかなければならないと思っている次第です。
 日本にもいくつものカルトがあります。もちろんカルトとは何かという定義の問題はありますが、一応ここでは、高校生向けの簡単な説明と同じように、かなり強引に短くまとめてしまうと、「破壊的宗教団体」とでも言いましょうか。もう少しだけ言葉を加えると、「宗教的な心理を使用して、信者を洗脳し、破壊的な考え方を植え付け、指導者の利権のために利用し尽くす凶悪団体」ということになろうかと思います。
 この定義で行くと、例えば「(旧)オウム真理教」とか「幸福の科学」など、明らかにそうだという札付きのカルトだけではなく、ごくいわゆる「普通」の宗教団体も、カルト的な体質に陥ってしまうという可能性も含んだ定義になると思います。
 例えば、日本のキリスト教会のいくつかは、やたら短期間のうちに信徒が急激に増えたけれども、よく観察してみたら、口の上手いカリスマ的な牧師に、その牧師の言うことなら何でも正しいんだと洗脳されてしまって、高額な献金を要求されたり、「牧師に逆らったり戒めを破ったりしたら地獄に落ちるぞ」と脅され、反抗できなくなった信徒に、その牧師がパワハラやセクハラを加えて問題が表面化したときに、その教会がカルト的な状況に陥っていたことがわかったとか。
 そのような目で我らが日本基督教団を見てみると、教団あげて「祈りましょう、祈りましょう」、「伝道しましょう、伝道しましょう」、「献金しましょう、献金しましょう」、そればかり連呼して、自分たちの勢力の拡大や維持しか考えてない。発想が全て内向きで、外部の社会とは関わりを持ちたがらず、教団議長に異議を唱える者は徹底的に冷や飯を食わされる。そして男性牧師が女性牧師や女性信徒にセクハラを行う事例が後を絶たず、パワハラも尽きない。日本基督教団もだんだんとカルト化してきていると既に指摘している人もいます。

▼もっと恐ろしいもの

 しかし、そんなあからさまなカルトや、カルト化している教団などとは違い、国家規模で国民の大多数をほとんど自覚させずに洗脳することに成功し、忠実な信徒として命まで捨ててでも奉仕することを命じ、その結果、日本人だけでも300万人以上もの犠牲者を出した。それは何という集団でしょうか?
 もうおわかりの方もいらっしゃる思います。そのカルト集団の名前は「大日本帝国」と言います。そして、その宗教的カルトの名は「国家神道」または「近代天皇制」とも言います。
 多くの人が、これがカルトであることに今でも気づいていません。でも、これは明らかにカルト的なマインドコントロールを使ったおそらく日本の歴史上で最大の犯罪です。
 私は「天皇家自体をとり潰してしまえ」とまでは言うつもりはないので、そんなに過激なことを主張しているつもりはありません。天皇というのはキリスト教が日本に入ってくる以前から(ただし、イエス・キリストが地上で生きていた頃よりも昔からあったかはかなり眉唾だと思いますけれども)、まああったものですよね。それが一概に悪いものだと言い切るつもりはないです。
 それに、日本の古来からの神社の宗教、すなわち「神道」が元々から悪いものだったのだとも思いません。それは古代人が自然崇拝をしていた頃から、連綿と受け継がれてきたもので、その古代からの形が今でも残っているという点では、大変宗教学的に「面白い」と言っては失礼かもしれませんが、まあ面白いです。自分が神社に行って拝んだりはしませんが、拝んでいる人を見て否定したい気持ちが湧くこともありません。
 けれども、少なくとも明治維新以後の大日本帝国によって捏造された「近代の」天皇制。そして、その天皇を頂点として昔からある数多くの神社を再編成した国家神道(当然、神社の中には、この国家による神社の再編成に反対の意志を表明していたところもあったそうですが)、この元々の神道とは違う「国家の」神道。これが非常に問題だと思っているわけです。

▼私は神である

 もうご存知の方にとっては、仏に説法と言いますか、イエスに説教になってしまうんですけれども、あえてまとめますと、この国家神道というものは、要するに「天皇は神の子孫(具体的には天照大神という太陽神の子孫)であるから神なのである。人であり、神である。神が人間の姿をとって日本を支配する。これを「現人神(あらひとがみ)」といいますよね。
 天皇は神、それも日本中にある八百万の神々の頂点に立つ神ですから、絶対的な存在です。絶対というのは「対するものが絶えている」つまり「対抗できるものは存在しない」ということですから、この神に逆らうということはあり得ない。
 この件について、「キリスト教だって似たようなもんじゃないか」と反論してきた高校生がいまして、この子が言うには「例えば、イギリスでは国歌で『God save the Queen』とか歌うじゃないか。あれだって君主が神の権威を借りているじゃないか」と言うわけですけれども、やはりそれは違うわけですね。
 「神様は女王を守ってくださいます」なので、本来は女王よりも神の方が上ですよね。また、オーストリアのどこかの昔の戴冠式で「『(王は)神の使徒である』という聞いたことがある。だから王は神の代理人なんだ」とも言うわけですけれども、やっぱり「神」ご自身と「使徒」という使いっ走りとは格が違うんだよと。これに対して、天皇というのは「私が神だ」と名乗ってしまったのさと。
 「私よりも上の存在はいないのだ。私の命令に背かないということはあり得ないのだ」と言ってしまったことの恐ろしさというのは、ものすごいことなんだぜ、と私はその生徒さんに話しましたけれども、私の説明が下手くそだったせいか、全く納得していない、というより納得する気もしないという態度でした。
 確かにキリスト教徒も、随分神の名の下にひどい戦争や差別などを行ってきました。世界で一番人を殺してきたのはキリスト教徒だとも言われます。けれども、それでもどんな専制的な君主でも「自分はひょっとしたらあの世で神に罰せられるかも知れない」と思うだけの最後のひとつまみの謙虚さみたいなものの可能性はあると言えるわけです。
 それを、「私は神である」とやってしまうと、この人間を止めることができる人はこの世人もあの世にもいないということになります。こんな危険なことはありません。お分かりいただけますでしょうか。

▼英霊と靖國

 この天皇すなわち現人神が君主であり支配者であることに加えて、日本の国は、天皇という神の体である。それを「国体思想」と言いますし、この日本の国は先祖代々大昔から「万世一系」の天皇の国だったのであるという考え方(もちろんこれは明治になってから捏造された嘘の歴史ですが)これを「皇国史観」と言います。
 そして、この支配者たる現人神:天皇のもと、国民はどういう位置づけかというと、国民は「天皇の赤子(せきし)」であるとされます。天皇の赤ん坊ですね。つまり、国民一人一人は天皇によって命を与えられた存在なのであると。
 これは、よく考えたら本当に変わっているなと思うんですけれども、普通は誰それの赤ん坊で親子関係だというなら、親が子のために身を呈してでも守るという発想になるんじゃないかと思うんですけれども、この国体思想の場合は、赤子つまり赤ん坊の方が、命を与えてくださった現人神のために、いざという時には命を捧げよ、命をお返ししなさいと言われるわけですね。
 それが最悪な形で実行に移させられたのが戦争で、特に太平洋戦争ではおよそ300万人もの大日本帝国軍兵士(またの名を「皇軍兵士」つまり天皇の軍隊)が命を奪われました。しかし、最近はよく知られるようになりましたけれども、この300万人のうち7割から8割の人々は作戦行動に戦闘で命を失ったのではなく、餓死か病死だったらしいですね。つまり軍の作戦失敗によって犠牲となってしまった人たちがほとんどだったということです。
 この場合にも、「日本は負けるはずがない。神風が吹く」という信仰が上から下まで日本人を洗脳していて、日本人はほとんどこれに逆らうことができませんでした。
 こうやって天皇のために死んでいった兵士の魂は、皆「英霊」という「神」になって靖國神社で祀られると教育されていました。そのために、多くの兵士達が「靖國でまた会おう」という言葉に騙されて、神風特攻隊のような自爆テロのような作戦で殺されていきました。

▼沖縄

 最終的に日本は、広島と長崎の2カ所に原子爆弾を落とされて、1945年8月15日に敗戦を認め、無条件降伏したわけですけれども、その前に絶対に忘れてはいけないのは沖縄戦ですね。
 沖縄戦は、アメリカにとっては日本での本土決戦のための基地を確保するための戦闘、日本にとっては本土を守るための時間稼ぎでした。この時の死者がおよそ11万人で、軍人の死者がおよそ9万5千人、一般人の犠牲者が9万5千人、つまりほとんど同数です。
 生き残った人たちの証言によれば、軍は一般人を守るのではなく、一般人の住む村を縦にして自分たちを守ろうとし、また「生きて捕虜となる辱めを受けるな」と言って一般人に手榴弾を渡し、集団自決させました。その一方で自分たちは自決せず、隠れて生き残ろうとしていた兵隊もいたといいます。
 そして、この沖縄戦が日本軍の敗北で終わったのが6月23日。この時点で天皇とそれを囲む御前会議が無条件降伏を決断していれば、世界史でも唯一の実戦での核爆弾の投下は避けられたかもしれないのですが、ここでも彼らの「もう一撃アメリカに打撃を与えて、陛下のために一花咲かせてからでないと降伏はできない」という甘い願望のために決断が遅れ、8月6日の広島と8月9日の長崎への原爆投下で50万人近くの人の命が一瞬にして奪われました。
 もちろん核兵器を投下したアメリカの罪は重いでしょう。しかし、沖縄の人びとを本土の防波堤として利用して多くの犠牲を出し、それでもなお後戻りすることができない愚かさのために、更に多くの犠牲を出してしまうという罪を、天皇とその側近たちは犯してしまったわけです。
 
▼人間宣言

 更に私が「これは赦せない」と思うのは、この後、日本が敗戦を認めてから、昭和天皇が「人間宣言」を行ったことです。
 もちろん天皇は人間である。当たり前のことです。正真正銘の人間です。でも、定着し始めたばかりの日本最初の学校教育制度に則って、「天皇は神である」と政府は全国民に教育しました。そして、神である天皇のために死ぬことこそが、皇国の民として最も光栄ある生き方、死に方だということを徹底的に洗脳しました。
 私がこの洗脳が凄まじいものだと実感したのは、当時皇軍兵士だった男性の方々や、自分の息子たちを万歳三唱して兵隊に送り出した母親だった女性の方々が、「日本が負けるなんてことは少しも考えたこともなかった」と言い切っているのを、テレビのインタビューなどでいくつか見たときですね。この時、人間というのは閉鎖的で他からの情報が一切入らない環境に置かれてしまうと、こんなに完璧にマインドコントロールされてしまうものななんだなと思い知らされました。
 昭和天皇が敗戦の詔勅をラジオで読み上げた時(いわゆる「玉音放送」ですが)その時も、多くの日本人は「ホッとした」とか「これで死ななくて済んだ」と安心したのではなく、「一億総懺悔」と言ってみんなで皇居に向かって土下座したんですよね。「陛下や政治家たちが悪いのではなく、自分たちがいけなかったのです。戦争に負けてしまって申し訳ございません」と言って、天皇に謝ったんですね。それくらい洗脳が深かった。
 そこまでやらかしてしまって、自分を信じる膨大な数の人びとが自分のために命を落とした。この現実に対して、昭和天皇は「人間宣言」です。「私は実は神ではありませんでした」。そんな事を言って謝って済むと思うのかと、私は憤りを抑えることができません。こんな男を生かしておいてよかったのだろうか。なぜ彼は戦後ものうのうと生きておられたのかと。
 しかし、この時もしも昭和天皇を処刑などしてしまったら、それこそ彼は悲劇の英雄、最高の英霊として祀り上げられ、更に国家神道が強まってしまって、もっと日本は狂っていったでしょう。ですから、結果的には死刑にならなかったことで、まだ日本のためには少しはマシだったのかもしれません。

▼文部省訓令第12号

 随分長い話になってしまいましたが、これでもかなり端折って簡潔にお話をしたつもりなんですね。最後に私たちキリスト教会と関連する話を2つしたいと思います。
 この件で、私が皆さんにご記憶願いたいと思うのは、まず1899年(明治という元号で言えば32年)に出された「文部省訓令第12号」というものですね。これで、日本中の全ての学校での宗教教育は禁止されました。
 これはキリスト教学校においては、存亡の危機に関わる命令です。そして実際、潰れていった学校、キリスト教教育や礼拝を表向きやめてしまって生き残った学校、キリスト教をやめないで、規模を大幅に縮小しながらも辛うじて生き残った学校など、色々な分かれ道がありましたし、それぞれの学校の取った方法について賛否両論があります。
 この訓令第12号は学校における宗教教育を禁止すると同時に、「国家神道は宗教ではない」、「国家神道は宗教以上に優先するべき国民の義務である」という姿勢を政府が固めていたため、事実上国家神道が学校で教えられる唯一の精神論となったわけですね。
 既にその9年前、1890年(明治23年)には明治天皇による「教育勅語」も発布されていたので、これによって教育と政治、そして(当局は宗教だとは認めないけれども、実際には宗教としか考えられない、しかし)急ごしらえの、人間を神に仕立て上げるという嘘を広めて、国民を騙して戦争で内外ともに多くの命を奪い、そして最後は「私は神ではなく人間でした。ごめんなさい」と幕を閉じることになる、このカルトとしか言いようのないもの。教育と政治とカルトの一体化したものが国民を洗脳してゆくことになりました。
 その洗脳のための決定的な一撃が、この学校教育で国家神道以外の教えを認めないとした訓令第12号でした。このことは今はキリスト教学校の先生でさえよくわかっていない人が多いので、これは私のようなキリスト教学校の教職員の不手際ですけれども、キリスト教への弾圧というものが、たったここ100年の間でもこういう形で実行されてきたのだということ、そして今もまた「特別の教科 道徳」という名前で、実際教科書を見ると、再び国家神道の教えが子どもたちに広められようとしている。そういう意味で、教会に関わる方々にも、よくご認識いただきたいと願っています。
 
▼日本基督教団

 それから、日本基督教団の成立に関することです。
 日本基督教団は、1941年(元号で言うと昭和16年)に、その前年の1940年から施行された「宗教団体法」という法律に基づいて、これから太平洋戦争に突入してゆく戦時体制の中で、宗教団体も一層天皇の戦争に協力するようにという政府の要求に応じて、国内のプロテスタントの教会が合同してできた教団です。
 これを、現在の日本基督教団の公式ウェブサイトでは、「創立以来くすしき摂理のもとに御霊(みたま)のたもう一致により堅実な教会形成の努力を続けて来た」(つまり「教団が一致しているのは、創立以来、神様の聖霊のおかげですよ」)と書いていますし、宗教団体法による圧力のことを、「たまたま宗教団体法の実施せられるに際し」と白々しく書いています。
 でも、創立した時の教団の体質というのは完全に大政翼賛的なものです。そもそも教団創立の宣言がなされたのが、「皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」という集会ですね。もうこの時点で完全に天皇のためのキリスト教になってしまっているわけです。
 創立の総会も「君が代斉唱」、「宮城遥拝(皇居に向かって最敬礼する)」、「皇軍兵士のための黙祷」、「皇国臣民の誓い」の国民儀礼から開始されました。そしてこの総会で「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」という宣誓がなされました。
 1944年ですから沖縄戦の1年前になりますけれども、第二次世界大戦、太平洋戦争の真っ最中のアジアの国々の教会に対して、教団は「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」という文書を送っています。
 この文書の第2章には、こんな文言が見られます。
 「 全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体であるという事実を、信仰によって判断しつつ、日本基督教団を信頼するように求める。正義と共栄との美しい国土を東亜の天地に建設することによって神の国をさながらに地上に出現させることは、われらキリスト者にしてこの東亜に生を享(う)けし者の衷心(ちゅうしん)の祈念であり、最高の義務であると信ずる」
 第3章には、日本基督教団の成立について、「わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者にして初めてよくなしえたところである」とも書いてあります。
 つまり、「教団を創立できたのは、天皇のために生きる精神が浸透した日本人のクリスチャンだからこそであり、世界を救うのは日本の国体であり、神の国をアジアに建設するのが我々の最高の義務だ」と言い切っているんですね。
 この思い上がりと盛り上がりよう。まさにカルトに洗脳されてしまった人々の暴走にしか私には見えません。でも、その時教団の人々はそれこそが日本クリスチャンの進むべき道だと信じて疑わなかったんです。

▼合同のとらえなおし

 もちろん戦後はこの戦争協力について反省するべきだという声も上がりました。もう細かい論議の話は省略しますけれども、1967年(ですから昭和で言うと42年)には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(略して「戦責告白」と言われますけれども)が発表されました。
 この「教団にも戦争に協力した責任がありました」という告白を出すにもかなりすったもんだの論議がありまして、結局「日本基督教団」の名前では出せずに、「日本基督教団議長 鈴木正久」という名前で出すことになったという経緯もあります。そういう意味では、まだ教団の戦争責任については本当には全員の悔い改めにはなっていないのではないかという疑念があります。
 また沖縄戦から敗戦に至る大混乱の中で、日本基督教団は沖縄のキリスト教会と音信不通になってしまい、そのまま敗戦直後の1946年に規則を変更して、沖縄教区を教団から抹消したんですね。沖縄は敗戦後になって日本の教会から切り捨てられたんです。そして、沖縄の教会は「沖縄キリスト教団」という団体を作って、米軍の占領のもと生き続けました。
 その後、1969年に日本基督教団と沖縄キリスト教団は「合同」つまり合併したんですけれど、沖縄戦を経験した直後に教団から切り捨てられた、沖縄をただ吸収合併しておいて、「沖縄が戻ってきた!」と勝手に喜んで「日本基督教団 沖縄教区」としてしまった。
 それではダメじゃないか。歴史をきちんと見つめ直し、沖縄と日本のキリスト教団の対等な合同にできないかと、1996年以降「合同のとらえなおし」に関する議案が教団総会でなされたんですが、6年間放置された上に、2002年に総会で終了間際に当時の教団議長、山北宣久によって「審議未了廃案」の強行採決がなされ、それ以来17年間沖縄教区は「日本基督教団とは距離を置く」として、教団との関係は断絶したまま今に至っています。

▼まだ終わっていない

 このような現実を教団は抱えたままですので、私は「日本のキリスト教会においてはまだ第二次世界大戦は終わっていない」、「戦争協力の反省も戦争責任の悔い改めも終わっていない」、つまり「国家神道や近代天皇制に積極的に協力してしまったことへの悔い改めもなされていない」と感じています。
 この悔い改め、聖書の言葉で言えば「メタノイア」、すなわち「全面的な生き方の方向転換」が未だなされていないことの証拠が、クリスチャンでも元号が新しくなったことや、新しい天皇が即位したことをお正月気分で祝っているということだと思うのです。
 国家神道がいかに自分たちを洗脳し、自分たちも積極的に天皇の戦争に加担していた、その歴史が戦後まだ100年も経っていないのに、もう伝えられなくなってしまっています。何も知らされず、悪びれもしないで「平成ありがとう。令和おめでとう」なんて言ってしまっている。
 「これは日本基督教団の問題だから」と言って他の教団も言い逃れすることはできないと思います。なぜなら敗戦前は、日本のプロテスタント教会は全員「日本基督教団」だったからです。そして、みんなで沖縄を見捨てたからです。教団から脱退した現在の各教派の教会も、この辺りを完全に清算したと言い切れるところはおそらくないでしょう。
 
▼これから

 さて、随分長時間、歴史的な話をしてきました。日本人のほぼ全員が国家神道によって洗脳され、天皇崇拝は宗教ではなく単なる文化であり習慣であり、明治時代に捏造されたに過ぎない儀式も、古来からの伝統だと騙されて、それにクリスチャンたちも乗っかってきたというお話をしました。
 最後にこれからの話ですが、もう今の時点でかなり私たちの首は締まってきていると私は感じています。
 去年から小学校で、今年から中学校で、「道徳」の授業が公立学校で始まりました。この「道徳」の教科書には、日本人の理想の生き方を武士道であるとしてみたり、個人の自由や権利などを後回しにして、国のために尽くす生き方を教えようとしています。
 それより以前に、育鵬社という出版社が、唯一総理大臣安倍晋三のお墨付きを受けた社会科の教科書を出しており、「公民」の教科書では、「日本の宗教は神道です」と教えています。
 かつての訓令第12号のように、教育の現場から日本は再び、国家神道への誘導を行い始めています。
 国家神道を再び日本の国教にすることを目的とする政治家で構成されている「神道政治連盟」という組織がありますが、現在の内閣閣僚のほぼ全員がこの神道政治連盟のメンバーであり、「日本会議」という右翼団体の役職です。総理大臣である安倍晋三は国際的には「ウルトラ・ライト」(Ultra Right)、すなわち極右の政治屋であると認識されていますが、そのことを知っている日本人がほとんどいません。
 私がなぜこんな話を、例えば平和聖日とか終戦記念日などにしないで、こんな5月の最初にしているのかというと、この5月1日から新しい元号が始まり、多くの国民だけではなくクリスチャンまでが、浮かれ騒ぎに乗じているという現実をとても見過ごしにはできないと思ったからです。
 もう国家神道の復権は間近です。またクリスチャンたちが国家神道に知らないうちに取り込まれ始めているのも、今回の元号騒ぎで明らかです。何の問題意識も感じていないクリスチャンが多過ぎます。
 これからは、ちゃんと問題意識を感じ、目覚めた信仰に生き続けたいと願う誠実なクリスチャンは、今日の聖書の箇所でイエスが予言しているように、当局に連行されて打ち叩かれたり、司法機関で証言をさせられたりするでしょう。イエスの名のために人びとから憎まれるということも起こりうるでしょう。
 実際、戦時中には特高警察が教会の礼拝堂の後ろに立って監視し、牧師が天皇制を批判したり、戦争への反対をちょっとでも口に出そうものなら、しょっぴかれて警察署で殴る蹴るの暴行を受けたなんていうことは日常茶飯事だったわけです。
 そういうことが間も無く再び日本でも起こるでしょう。
 その時、私たちはどうするのか。
 イエスは言っています。今日お読みした聖書の箇所、コリントの信徒への手紙(一)13章11節。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。
 その時こそ、私たちは神様に、生きるも死ぬも全て任せ切らないと稲ないのかもしれません。
 そのような試練が私たちを襲わないことを願いたいと思います。私もそんな目には遭いたくありません。
 しかし、もしそのような試練に遭っても、人間が作った偶像の神には仕えたくはない。できれば自分の信じる神様を裏切りたくはない。信じる神を求め続け、信じてきた自分を裏切りたくない。そのように願っています。
 皆様はどのようにお感じになりますでしょうか。
 本日の説き明かし、長くなりましたが、ここまでと致します。






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