離れていてもひとつ


2019年5月19日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約21分)



 エフェソの信徒への手紙4章1−6節 
(新共同訳)
 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。



▼近くの人、遠くの人

 今日はエフェソの信徒への手紙の4章1節以降を読んでいただきました。この聖書の箇所によって、私たちが一致していることを大切にし、「主は一つ、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ」と5節に書いてありますように、私たちはお一人である神様を信じ、その信仰、言い換えれば神様、イエス様と私たち、そして私たち相互の信頼関係は一つで結び合っているのであり、私たちの受ける洗礼は一つの神様から出ている霊に洗われて生まれ変わるという儀式でありますから、私たちはやはり一つの霊によって結ばれているのだということを確認することができます。
 なぜ、ここを私が選んだのかと言いますと、今日洗礼を受けられる方は、多くの教会におけるこれまでの慣習では、「遠隔地会員」とか「不在陪餐会員」という名称で取り扱われてきたような方だからです。
 このような呼び方をしているのは、教会が教会の周辺の地域の、「近くの」人が通うものだという思い込みが、無意識に染み付いていたからであろうと思います。
 実際、これまで交通機関も通信技術も今ほど発達していなかったわけですし、教会の伝道の仕方も地域への伝道ということを無意識の前提に置いて行ってきた歴史もあるわけですから、当然なのかもしれませんが、今の時代はそのような前提なしに伝道をしている教会も、私たちも含めて増えてきました。
 この半世紀ほどの間に、自動車を使った伝道というのは本当に浸透してきたと思うんですね。教会まで車で通う人、送ってもらう人。車で教会員を訪問したりすることもありますし、交通網の発達した都市部では電車かバスで教会に通ったり牧師が訪問したりということもありますでしょうけれど、多分日本中に散らばる各地の教会は、もはや車なしには伝道活動が成り立たないだろうと思います。

▼ウェブ教会

 そして、ここ20−30年ほどの間にインターネットというものが広がり始めて、10年ほど前からか、教会でもホームページというものを設けるところもチラホラ現れてきました。
 私自身は好奇心から19年前に個人のホームページを作りましたが、ここ5年ほどの間にリアルの教会でも雨後の筍の勢いで、多くの教会が独自のホームページを持つようになりました。
 今では、新しい教会に行こうとする人は、ほとんどの方がまずインターネットを検索して教会を探し、行っても安心かどうか、自分に合うかどうかを吟味してから行きますから、もはやウェブサイトの無い教会というのは考えられません。現に、徳島北教会に新しく来られる方も、「ネットで見ました」と言って来られる方が多いですよね。
 私たちの徳島北教会の場合は、教会の案内や礼拝予定、お知らせなどはウェブサイトに載せ、礼拝をリアルタイムで一緒に守りたいという方のためにライブ配信を行い、日曜日の朝のご都合がよろしくないという方のためにYouTubeでの説き明かしの配信を行ったり、説き明かし原稿の公開を行ったりしています。
 そういう通信技術の発展のおかげで、例えば健康上の理由やお仕事のなどの様々な都合で、教会に集い得ない様々な事情のある方が、教会のメッセージに触れることができるようになりました。
 また、元々教会に来られていた方だけではなく、遠くに住んでいて、まだお会いしたこともないような方から、「いつも見てますよ」と励ましのメールをいただくこともあったりするといった事が起こってきていますし、昨年インドネシアからこの教会に来られたクリスチャンの青年が、今でもネットを通じて互いに祈り合うという繋がりを守ってくれています。

▼国境を超える

 そういった昨今の事情を見ていると、もはや教会の近くの方が来られることだけを期待するのではなく、距離や時差も関係なく(もちろん言語の壁はありますが、日本語の通じる方で、ネット環境に手がとどく方なら)世界中に教会のメッセージを発信し、またそのメッセージを受け取られた方も応答する事ができるという時代になったのですね。
 現にこの教会に繋がっておられる方々も、必ずしも狭い意味での町内や地域に住んでおられる方ではなくて、距離を超えて参加しておられる方もだんだんと増えてきつつあるわけです。
 今日、私たちは、国境さえも飛び越えた遠距離に住んでおられる方を教会員としてお迎えしようとしているわけですが、これはインターネットという通信手段と、航空機という交通手段がなかったら実現しなかった事です。
 車が教会には無くてはならない伝道手段となったように、インターネットも無くてはならない道具だという認識が、今後教会の間にも広がってゆくでしょうし、その流れに乗らない教会はどんどん衰退してゆくでしょう。
 そのようなわけで、私たちはごく当たり前の方法を使って伝道し、たとえその方が地球の裏側に住んでおられたとしても、希望されるならば私たちの群れにつながっていただくということをも当たり前にしたい。そんな風に私は考えているわけです。

▼形だけの一致

 そこで私たちが特に大切にしたい、大切にしなければならないと思っているのは、たとえ距離が離れていたとしても、私たちの信仰は一つであるということです。
 本日お読みしたエフェソの信徒への手紙4章の2節から記してあるように、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つよう努め」るということが、私たちにとってとても大切なことなのですね。
 たとえ距離が離れていたとしても、私たちは同じ神さまを信じ、同じイエス・キリストをより頼み、同じ洗礼によって、同じ聖霊に包まれて、満たされて生きるものとされる者です。そのことを再認識し、これからも大切にして行きたいと思います。
 ただ、この「一致」という言葉を誤解している人は日本基督教団にはたくさんいます。声高に「一致、一致」という人たちは、同じ信仰告白を唱えないとか、同じ形で聖餐式を行わないというような理由で、形だけの一致を重んじます。そして、「自分たちが正しいのだから、自分たちに合わせるのが一致である」という姿勢を崩しません。自分たちと違うものは「あそこは信仰が違う」と言って、そのような異分子がいるから一致ができないと圧力をかけてくるのです。そこには柔和も寛容もなく、忍耐も平和のきずなも無く、霊の一致もありません。
 そこにあるのはキリスト教の精神でさえないのかも知れません。「同じように考え、同じように振る舞う奴でないと、仲間にしたくない」という、日本でよく見られる同調圧力でしかないのかも知れません。
 しかし、私たちが求めているのは、そんな形だけの一致ではないのではないでしょうか。私たちの求めているのは、様々な形や様々な信仰を持ち方をする多様な人々が、一つの神に赦された者として互いに赦し合い、平和のうちに共に生きることができるという、信仰における一致、見えない霊の一致なのですね。

▼霊の一致

 このエフェソの信徒への手紙を書いた人は、今日お読みした6節までで、「一致を保ちなさい」「私たちは一つですよ」と口を酸っぱくして説いた上で、そこを一区切りとして、続く7節からは、このように書いていますね。
 「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(エフェソ4.7)。
 そして、11節からは「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」とあります。
 説明の必要もないと思います。私たちはあるものは目であり、ある者は口であり、ある者は手であり、ある者は足です。皆、違う個性、違う形の奉仕をしながら、キリストの体と呼ばれる教会を造り上げてゆくということなんですよね。
 問題は距離ではないし、形式でもない。大事なのは神様を信頼し、神様と共に歩もうとする気持ちがあるという点で同じであることです。
 さらに聖書の言葉を読み進めていきたいと思います。14節から。
 「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに」(14節)、
 (あ、ここで念のために注釈しておきますが、ここでの「風」はギリシャ語で「霊」という意味を持つ「プネウマ」ではなくて、「アネモス」という単語です。台風とか暴風というニュアンスが強い、霊とは関係ない風ですね。エフェソの著者はちゃんとそこは使い分けて、人に害を与えるような風:「アネモス」という言葉を使っているんですね)。
 「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(14-16節)
 私たちは、それぞれ異なる場所で異なる働きをしていても、一つの体です。頭はキリストですけれども、体は私たちなんですね。そして私たちは体のあらゆる節々として、互いに補い合うことによって組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛によって人格が作り上げられてゆくと、ここでは説かれているのですよね。
 どうか皆さん、今日新たに私たちの仲間、神様の家族に加えられる方を迎えて、たとえ距離が離れていようとも(まあ私自身も細かいことを言えば、海を隔てた所に住んでいる人間ですけれども)、一緒に成長して行ける体として共に歩んで参りたいと思うのです。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。






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