独りで死ぬな。一緒に生きよう


2019年6月23日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約22分)



 マルコによる福音書5章1-20節 
(新共同訳)
 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が、墓場からやって来た。
 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の、身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。



▼デカポリス

 おはようございます。今日は「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」という小見出しのついた聖書の箇所を読みました。
 お読みした最後の部分にも書かれていますように、ゲラサというのはデカポリス地方にある町です。
 デカポリス。「デカ」というのはギリシア語で「10」という数字で、「ポリス」というのは植民地の都市のことですので、これは「10の町」という意味です。
 ガリラヤ湖の南東側からヨルダン川の東の岸に接している地域に、ローマによって建設された10の植民都市があったので、その辺りを「デカポリス」と呼んだのですね。
 イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖を船で渡って、向こう岸にあるデカポリス地方のゲラサという町に行ったと書いてあります。このゲラサという所は今はヨルダン領になっていて、アラビア語でジャラシュと呼ばれています。「ゲラサ」と「ジャラシュ」って、ちょっと音が似ていますよね。今でもこのジャラシュにはローマ帝国時代の広場とか劇場の遺跡が残っているようです。

▼汚れた霊

 さて、このゲラサに来たイエスは、汚れた霊に取り憑かれた人に出会いました。聖書の小見出しには「悪霊に取りつかれた」と書いてありますけれども、実際には「汚れた霊」です。「悪い霊」というより「汚れた霊」ですね。
 この「汚れた霊」というのを、現代の我々はどう解釈したらいいのかなんですけれども、今までにも何度も申し上げてきましたように、「霊」というのは「風」であり「息」です。2000年前の古代のユダヤ人は、風や息の動きそのものに何らかの命や意志が宿っているというふうに感じていたので、人間は霊を呼吸して生きているというように考えていましたし、何か体調が悪くなったり、精神状態が悪くなると、「悪い霊に入られた」「汚れた霊にとりつかれた」というふうに解釈していました。
 これは全然今の我々とは違った世界観です。この世はたくさんの個人の霊、集団的な霊、清い霊、聖なる神の霊、汚れた霊、邪悪な霊などがぶつかり合う世界というふうに見えていたわけです。
 そして、ここに出てきた「汚れた霊に取り憑かれた人」というのは、イエスが名前を尋ねると「レギオン」だと答えます。このことでわかるのでは、この汚れた霊は集団的な霊で、しかもローマ帝国由来だということです。
 「レギオン」というのは、6000人から成るローマ帝国正規軍の軍団のことです。聖書には、イエスによる「5000人の共食」という奇跡物語がありますけれども、実は当時ガリラヤ湖の周りにあるユダヤ人側の街や村では5000人規模の所は無かったらしいですね。ですから、レギオンというのが当時どれほどものすごい規模と威力を持つ軍団だったかということです。このことで更に、この汚れた霊は軍隊に関係しているということもわかります。
 ローマの軍隊に由来する集団的な汚れた霊に、この人は取り憑かれて、そして、暴れたり、叫んだり、石で自分を打ち叩いていたりしています。

▼パクス・ロマーナ

 ローマ帝国と言えば「パクス・ロマーナ」という言葉がよく知られています。パクスというのはローマの平和の女神の名前で、「パクス・ロマーナ」というのは「ローマの平和」という意味です。
 この「パクス・ロマーナ」という言葉が出てきたのはずっと後の時代ですけれども、呼ばれている時代はイエスの生まれた20年前から150年後までの時代で、ちょうどイエスが生きていた頃と被っています。
 そして「パクス・ロマーナ」というのは、結局は圧倒的な軍事力を持つ1つの国が、抵抗勢力を抑え込んで、見かけ上の平和を保っている状態のことです。ローマ帝国は、あちこちに植民都市(ポリス)を作って領土を広げていったのですけれども、当然現地に前から住んでいた先住民というのはいるので、それらの民族を征服し、占領し、反乱を鎮圧して、自分たちの支配する地域を「平和」としていたわけです。
 今日の物語に出てくる汚れた霊に取り憑かれた人というのは「ゲラサ人の地方」の人とされているので、ローマによって制圧された方の先住民の人かもしれません。もちろん、イエスや弟子たちを含むユダヤ人も、ローマに制圧され、抑圧されている側の民族です。
 ローマ側から見れば、これが平和な状態だと主張するかも知れませんが、抑圧されている側の民から見れば、税を搾り取られ、軍隊に駐留され、基地の近くではローマ軍の兵士たちによる犯罪に巻き込まれることも多かっただろうし、自分たちとは相容れない文化や価値観を持ち込まれ、宗教を持ち込まれといった具合で、経済的にも困窮し、精神的にも非常にストレスの強い状況に追い込まれるわけです。
 そして、このような状況において生きづらさを抱えた現地の人間が、組織的に怒りを訴えたり、反抗したりすると、容赦なく鎮圧され、そのリーダーが見せしめとしてローマの方法で処刑される。つまり十字架にかけられるのですね。
 その息が詰まるような抑え付けられた生活の中で、怒りや不満を吐き出せなくなった人が、個人的に怒り狂ったり、暴れ回って人を傷つけたり、殺人を犯してしまったり、あるいは自分を痛めつけるような自傷行為に走ったり、病を抱えてしまったりすることはおかしなことではありません。そして、そういう人間は精神異常者だとか犯罪者だとか言われて排除されるのです。
 現に私たちの今暮らしているこの日本でも、生活に困り果てたり、誰も助けてくれない絶望的な状況で孤立してしまった人が、自ら命を絶ったり、人を殺めてしまったりということが日常茶飯事で起こっているのではないでしょうか。
 政治が腐れば、弱い個人にしわ寄せが行くのは当然ではないでしょうか。

▼豚

 そういうわけで、このゲラサの人は、ただ単純に個人的に精神に異状を来たしている人というだけでなく、その根底には、社会から何らかの事情でドロップアウトせざるを得なくなって、その社会にはセーフティネットも無くて、墓場で暮らしながら荒れ果てた精神状態で暴れながら、自分を傷つけながらも死にきれずに生きていたと見ることができるわけです。
 イエスはこの人と話すうちに、彼の病の原因がレギオンであることがわかりました。ローマの軍団です。イエスを含めたユダヤ人が苦しんでいるのと同じ問題です。
 そして、ここからがイエスのような古代人と、私たち現代人の違いなのですが、私たちは政策学とか社会学とか心理学などを使って理解しようとしがちなところを、あの地方の古代の人たち、特にイエスのような宗教的な感性の鋭い人物は、「これはローマから送り込まれている汚れた霊のせいだ」と直観するのです。そして怒り、「この汚れた霊をこの人から追い出さなくてはならない」と判断します。
 イエスと話しているこの人も、自分がローマから持ち込まれてきた汚れた空気に感染してしまっていることを自覚しています。そして、その汚れた霊をいっそのこと豚に乗り移らせてくれと懇願します。豚というのはローマ人は食べますけれども、ユダヤ人にとっては汚れた動物で、これもローマ帝国の象徴です。「汚れた霊は汚れた動物に乗り移らせて、湖に放り込んでしまえ!」ということで、この人はイエスに気迫の溢れる対応によって、再び生きる気力に目覚めることができたのでしょうね。

▼独りで死ぬな、共に生きよう

 当然、こういうローマの空気を拒否し、自分の生き方を変えようとする人が出てくると、そのような別の空気、つまり古代人風に言えば、「異なる霊」を送り込もうとする人間は疎まれますから、人々は「ここから出て行ってくれ」と言います。
 イエスに癒してもらった人も、もはやゲラサの町に留まることは望みませんから、イエスについて行きたいと願います。
 ところがイエスはそれを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と告げました。そこで、その人はイエスが自分を解放してくれたということを、デカポリス地方全体を旅しながら言い広める人になったということです。
 この「言い広める」という言葉は、実は他の多くの聖書の箇所で「宣教する」と訳される言葉でもあり、この人はイエスのことを宣教する人になったということもここで示されています。
 このようなわけで、今日お読みした物語は、腐ってしまった社会風潮の中で、生活を奪われ、心まで毒されてしまった孤独な人が、死んでも死にきれずにいた時に、イエスが来てくれて、その毒された心を解放してくれた、という話です。
 それにしても、この人が自分を傷つけながらも、死なずにいてくれてよかったと思います。生きていてくれてこそ、自分の生涯の中でイエスと出会うということができたからです。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。






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