飲めない水を飲めるようにする木の話


2019年7月7日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約20分)



 ヨハネによる福音書15章1-5節 
(新共同訳)
 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人はわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。



▼浮世と共に生きよ

 「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」というイエスの言葉はクリスチャンの間ではよく知られています。ヨハネによる福音書は、この言葉によって、私たちが常にイエスのことを忘れず、イエスの言葉や行動に導かれて生きることを勧めています。
 しかし、近現代の日本人の傾向として、宗教は心の中の問題であって、現実社会での生活とは関係ないと考える人は多く、実はクリスチャンの中にもそういう傾向を身につけてしまっている人も少なくありません。そのために、イエスとつながって生きるということが、ただ単に熱心に信仰することだと思い込むあまり、現実の世の中の出来事に深い関心も共感も持たず、浮世離れしてしまうクリスチャンもいます。
 けれども、今日のぶどうの木の話が、そのような意味であるかという風には私にはどうしても思われません。むしろこの話は、私たちがイエスに倣って、どのようにこの浮世の苦い現実……浮世というのは、憂き世とも書きますが……その悩み多き現実に向き合って、いかに生きてゆくべきなのかということを教えてくれている、優れた譬えなのだという風に読んでいます。

▼命の木

 ぶどうの木というのは命の木とも言うべき木です。特にイエスが生活していたイスラエルの地ではそうでした。
 そもそもあの地方の湧き水は、塩分やミネラル分が多く、取水地によって多少の差があっても、だいたいそのままでは塩っぱくて不味くてとても飲めるような代物ではないんですね。だいたい死海というのが近くにあるくらいですし、地面そのものの塩分が高い地域です。
 ですから、ヘロデ大王の水道というのが今でも遺跡として残っていて、10キロ以上も北のほうから水を引いてくるわけですが、これはヘルモン山の上の雪解け水を持ってきたりしているわけです(写真右)。
 平地の湧き水がとてもじゃないが飲めませんよというのは現在でも同じでして、イスラエルではほとんどの人が瓶詰めのミネラルウォーターを飲んでいます。1本2リットル入りで1ドルです。これを持って歩きます。
 昔のイスラエルでは、瓶詰めの水もコンビニもありませんから、何を飲んでいたのかというと、ぶどうの果汁なんですね。それをそのまま飲むか発酵させて飲むかの違いはありますが、とにかくぶどうの木から絞ったものを水の代わりに飲んでいた。ぶどうというのは、不味くて飲めない水を吸い上げて、甘くて飲みやすい美味しい水、しか生水を飲むより健康にいい水に変えてくれる、素晴らしい命の木だったわけですね。
 新約聖書の後半に「テモテへの手紙」というのがあって、この手紙を書いた人が5章の23節で、宛先のテモテという人に対して、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」という言葉を書き送っています。このテモテという人は、胃の病気だけでなく他にも体調を崩すことが多かったようですけれども、「それは水のせいではないか、ぶどうジュースを発酵させたものを飲んだ方が体にいいぞ」と勧めているんですね。

▼苦い水を甘くする

 苦い水を甘くするといえば連想されるのは、旧約聖書のモーセの物語の中にある「マラの苦い水」という物語をご存知でしょうか。
 「出エジプト記」の15章に載っているんですけれども、奴隷にされていたエジプトをなんとか脱出して荒野をさまようイスラエルの人々が、持っていた水を飲みきってしまって3日間を経過した時に、リーダーのモーセに文句を言うんですね。我々の神は我々を日干しにする気かと怒ります。そこでモーセはマラと呼ばれている土地で水のある池を見つけるんですが、この水がやっぱり苦くて飲み水にはできない。そこで人々はまたモーセに文句を言う。そこでもう一度モーセは神様にお願いします。こんな風に書いてあります。「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に1本の木を示された。その木を水に投げ込むと水は甘くなった」(出エジプト記15章25節抜粋)。
 明治維新後、間もなくして同志社を創立した教育家の新島襄は、このモーセとマラの苦い水の物語を聖書から引用して、1889年6月……と言いますから開校4年目の卒業式で説教を語っています。今の日本語に直しますと、こんなことを言っています。
 「みなさんがこの学校で得たキリスト教主義をもって社会に出れば、困難が前に横たわっていることは間違いありません。これは実に忍びがたいことですが、しかしみなさんは枝を折るのです。苦い水に浸かるのです」。
 つまり、皆さんはこの世の苦い水を甘くする使命を帯びて社会に出るのですよ、という勧めを卒業する学生たちに説いたのですね。
 この時モーセが投げ込んだ1本の木の枝が何の木なのかはわかりません。おそらくぶどうの枝ではないとは思いますが、後々の時代になってイエスが「私はまことのぶどうの木である」と言った時、その言葉が意味しているところは、かつてのモーセが示した苦い水を甘くするという働きに通じるものがあるのですね。すなわち、生きづらいこの世を生きやすいものにするという働きです。

▼イエスに倣って、イエスと共に

 イエスは「まことのぶどうの木」と自分のことを言いましたが、この「まこと」というのは「真理」とも「真実」とも言える言葉です。「イエスこそ本物のぶどうの木だ」と訳してもいいと思います。イエスこそ真実のぶどうの木であると。イエスはそういう比喩を用いて、私は人間のこの苦い世の中を甘く、美味しく、体にも良いものにするのだと宣言したのでしょう。
 ということは、これは個人の内面に収まるような心情の問題にはとどまらず、この世に出て行く私たちの生き様において、イエスにつながるぶどうの枝として、美味しい実をつけなさいよという呼びかけだと読めるのではないでしょうか。
 この聖書の箇所を改めて読み直すと、最初の方に「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、神が取り除くのだ」と、少々恐ろしいことが書いてありますね。「わたしにつながっていながら」と言われているということは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」(マタイ7.21)というマタイ福音書の言葉も連想させますね。イエスにがむしゃらにつながっていさえすればいいのだという信仰生活は批判されているわけです。
 その一方で、「実を結ばない枝は、父が取り除く」と言われると、我々はどんな実を結ばなければいけないのだろうかと心配になります。
 しかし、今日お読みした聖書の箇所に、特段立派な実を結ばなくてはいけないと書いてあるわけではありません。また、自力で実を結べとも書いてありません。その代わりに、イエスにつながっていないと、実を結ぶことはできないよとは書かれています。イエスの言葉と行いに倣って行けばよいのであり、見栄えの良い実を結ぶことが求められているわけではないのですよね。
 最終的にはこの世の生きづらさを、少しでも生きやすいものにすること、まずい水を少しでも飲みやすくしようじゃないかというイエスの働きにあなたもつながって参加しないか、と彼は呼びかけているのであります。
 そんなことを言っても何も私にはできない……と思われる方は少なからずいらっしゃると思います。でも私は思います。それぞれの人がそれぞれのこの世に与えられた持ち場で、各々自分の働きによって、少しでも人の世を生きやすくしようと努めること。それで良いのだと思います。
 何もできない。何もあげる物が無い。そう思っている人にもできることはあります。
 私は先日偶然に、「あげられるものがない人は、せめて良い言葉を人に与えなさい」という言葉を残したシスターがいるという話に出会いました。「あげられるものがない人は、せめて良い言葉を人に与えなさい」。
 「良い言葉」というのは、必ずしも耳当たりの良い、褒め言葉とは限らないと思います。けれども、愛に裏打ちされた労りや労いの言葉、アドバイス、そして沈黙でさえも、祈りを込めている限り人を救いに導くものです。
 ですから私たちは、イエスに倣って、イエスと共に、イエスの働きを今、一緒に行って参りたいと思います。






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