伝道か社会かではなく


2019年7月21日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 部落解放祈りの日 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約31分)



 使徒言行録10章9−16節 
(新共同訳)
 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。
 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こして、屠って食べなさい」と言う声がした。
 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。



▼1週間遅れの部落解放祈りの日

 おはようございます。みなさんお元気でいらっしゃいますでしょうか。梅雨時で湿気のひどい、スッキリしない天候のもと、体調や心の調子も崩しがちになる今日この頃ですが、「色々あるのが順調な人生、「今日も順調に問題だらけ」という、北海道浦河べてるの家の合言葉を思い出して、なんとか1日1日をやり過ごしてゆきたいものです。
 さて、今日は1週間遅れの「部落解放祈りの日礼拝」です。
 この「部落解放祈りの日」というのは、日本基督教団の暦で、毎年7月の第2日曜に定められています。
 この始まりは、1975年の7月第2週といいますから今から40年余り前になりますけれども、日本基督教団の常議員会で部落解放特別委員会の設置を決めて、部落の解放に教団として取り組んでいくということを表明したんですね。そして、そのことを記念して毎年7月の第2日曜日に「部落解放祈りの日礼拝」を行うことを呼びかけることになり、私たちの教会もこれに応えて、その礼拝を行うとしてきたわけです。

▼自分ごと

 それ以来、教団は教会の内外の部落解放に取り組んできたわけですが、教団として全てのクリスチャンが、というよりは部落解放を志すの有志の人たちとその人たちの連帯によって、取り組みが維持されてきたなあという感想を、私個人的には抱いています。悪い言い方をすれば、本当の意味で全員の活動になっていなかったような気がするということです。
 逆の観点から言えば、こういう問題は、個々人が「自分ごと」として部落差別やその他の人間がないがしろにされている現実を知り、「自分の身の回りから差別をなくしていきたい」、「差別されたくないし、差別したくもない」と強く思わなければなかなか良くなってはいきません。
 みんなが「自分ごと」として、「人が人として扱われていない」「人が不当に貶められている」、そして「人が人としてありのままに神様に受け入れられている、ということを表すことのできない教会は、本当の意味では教会(エクレシア)ではないのだ」と深く認識し、そのように振る舞える教会であって初めて、部落解放・人間解放という方法に歩んでいけると思うのですね。

▼クリスチャンが罪を犯すとき

 そして、今は部落差別の問題のみならず、在日外国人(特に韓国人や朝鮮人、その中でも特に朝鮮学校の子どもたちへの嫌がらせ)、また滞日外国人(例えば、フィリピンやベトナムなどのアジアの国々から来ている留学生や企業の実習生を奴隷としてこき使って潰してしまうとか)、あるいは「LGBT」とか「lGBTQ」という言葉で簡単に括られることが多くなりましたけれども、性的少数者への差別・排除の問題は多くのキリスト教会ではまだまだ本当に根深く、日本基督教団が今まさに大きく揺さぶられている問題でもあります。
 このような時代にあって日本基督教団は、これらの差別からの解放を邁進してゆこうという積極的な姿勢は、失ってしまっているように見えます。
 今、日本基督教団では、もう6年前から宣教研究所というところが作った「改訂宣教基礎理論」というものの草案が検討されていて、教団議長はあちこちで教区総会があるたびに、「これを早く決議してくれ、決議してくれ」としつこく言って回っているんですけれども、なかなかこれが全国の教区の合意を得ることができていません。
 この「改訂宣教基礎理論」の中身を読んでみますと、ほとんど神学用語の羅列で、よくわからないんですけれども、私自身の感想としては、とにかく「教会の方が上で、世の中は下」という上から目線の発想でした。
 教会とその信徒は、世の中に出ていて、福祉、医療、学校と協力しながら、神様の福音を宣べ伝える思いで活動しなさい、と書いてあるので、「ああ、なかなかもっともなことも書いとるなあ」と感じるのです。具体性はないですけれども、まあ悪いことを書いているわけではないのです。
 でも、教会が世の中と関わる時、基本的には「世の中の人が罪人で、それを悔い改めさせて、神の義を広めるために関われ」ということも書いてあって、なんかこうイマイチ上から目線なんですね。
 けれども、今実はキリスト教会のあちこちで起きているのは、むしろ教会や牧師が差別や虐待・ハラスメントを起こしてしまったのを、隠蔽したり、はぐらかしたり、形だけの謝罪をして事が済んだように振る舞ったり、「神様が赦してくださいましたように、あなたも赦してください」とか加害者の牧師から被害者に要求してみたり、といったような事なんですね、実態としては。
 そういう、クリスチャンが罪を犯してしまう。差別をしてしまう、人間の大切な魂を踏みつけにしてしまう。そうしてきたし、これからもそうなる可能性がある。そのことへの悔い改めとか懺悔、そして2度と起こさないことへの取り組みとか、そういうことには一切触れられていません。
 そういう視点で読むと、この教団の偉い人たちが出した「宣教基礎理論」というのは、基本的に教会は清い所・社会は汚れた所、教会は教える側・社会は教えられる側で、しかも悔い改める側なのも一方的に社会。神に近いのは教会。そういう思い上がりが見え隠れするのですね。こういう発想があるから、牧師によるハラスメントというのは後を絶たないんでしょうね。

▼伝道と社会

 こういう「宣教理論」のようなものを作る「偉い」人たちは「社会問題に関わる」ということを禁止したりはしません。しかし、それはあくまで「この世の人を悔い改めさせるため」なんですね。「変わるのは世の中の方だ」と思っているわけです。そしてそれが伝道だと思っているわけです。世の中のいろんなところで頑張っている人たちと「一緒に頑張っていこうよ」じゃなくて、キリスト教徒に改宗させることが最終目的になっているわけです。
 これは、ずーっと昔から日本基督教団の中で対立してきている「伝道か、宣教か」、「教会か、社会か」という図式のまんま、これが実も続いているということの現れです。「信者を教会に呼び込んで増やすのが目的なのか」それとも、「教会から送り出されて、この世の人と一緒に生きるのか」という二元論ですね。
 こういう二元論の発想の中にいるから、「世の中に出て行っているのに、信者を1人も獲得することができないのは、私の信仰が足りないせいだろうか?」といった悩みや、逆に「教会の中にばかりいて、よくわからない説教ばかりしているあの牧師は、世の中に存在の意義があるのか?」といったいぶかりなど、悩まなくてもいいようなことに振り回されて、すっかりキリスト教そのものが楽しくなくなってしまうんですね。
 でも私たち、いわば、これまでのこういうあり方に疑問を感じ、何か新しい道で楽しくキリストの道を歩んでゆきたいと探っている者たちとしては、この「伝道か社会か」という図式は壊して捨ててしまってもいいんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

▼神が清めた物

 そのヒントになる1つの聖書の箇所が、今日お読みしたペトロの見た幻の場面です。
 ペトロがヤッファという海の近くの美しい街にある、革なめし職人のシモンという人の家に滞在していた時に、屋上に出てお祈りをしようと思ったときに、お昼だったのでお腹が空いていたのに気づいたら、空から色々な獣や、地を這うものというのは蛇や爬虫類系動物でしょうね、そして鳥などが入った入れ物が吊るされて降りてくるのを見たと。そして、彼の耳に聞こえてきたのがイエスの声です。(右の写真はヤッファの皮なめし職人シモンの家と呼ばれている古い家です)。
 「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」。これらの動物を屠殺して食べなさいと。すると、ペトロは慌てて「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことはありません」と答えます。これは要するに、私はユダヤ人の掟(つまり律法)を破ったことなんかありませんよ! と主張しているんですね。真面目な生粋のユダヤ人ですよ! ということを、むしろいい事なんだという自信を持って強調しているわけです。
 ところがイエスの声は彼の信念に反したことを要求します。
 「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。
 こういうことが3度あったと書かれています。そしてその後、ペトロは見たことが一体自分に何の意味があるのだろうかと思案に暮れます。

▼神が清めた人

 ペトロが見たその幻の意味は、程なく明らかになります。
 ローマ軍の「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長のコルネリウスという人が、先ほどのヤッファの近くのカイサリアという、これも海沿いのローマ軍の基地の町にいまして、そこから3人の部下を派遣して、ヤッファに滞在しているペトロに使いをやるんですね。
 この人は、まだ始まって間もないイエスの道、すなわちナザレ派(のちにキリスト教になる宗派)に改宗したばかりの人ですけれども、この人も天使が話しかけるのと聞いて、「ペトロを招きなさい」と勧められたんですね。それでヤッファに使いをやったわけです。
 そしてペトロはこの使いの人たちと共に、カイサリアにコルネリウスを訪ねて行きました。その辺りは10章の24節以降に書いてあるんですけれども、こんな風に描かれていますね。
 「次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類は親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」(使徒10.24-29)。(左の写真は2017年現在のカイサリアです)。
 ペトロは、ローマ人からの招きを受けた時に、なぜ自分を招きにきたのか用件も聞かないうちに、「これか!」と悟ったということですね。「自分はユダヤ人だから、この食べ物は食べられません」と大真面目に言っているのに、「神様は全ての生き物を清いとされているのだから、汚れているとは言ってはならない」とイエスに教えられた。
 その意味が、外国人から招きを受けたときに、「あ、このことか!」とペトロの頭の中で繋がったんですね。「ユダヤ人は外国人とは交流してはいけないと言われてきたけれども、今それを自分は打ち破らないといけないんだ。全ての人を神様は清いと言っているのだ!」と悟ったんですね。
 そして更に、この聖書のページの最後、14節でペトロは言っていますね。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と。偉そうにコルネリウスたちに上から目線で教える立場であるという居丈高な態度ではなく、「自分自身もこの事を通して教えられました」と感謝しているのですね。

▼教会よりも先を

 こうしてペトロは自分自身の、イエスの良い知らせを宣べ伝える旅の中で、自分たちユダヤ人と外国人の壁を打ち破ってゆき、そうやって「自分たちと違うタイプの人と当たり前のように交わる」ということ自体がイエスの教えそのものなんだという事に気付かされてゆきます。
 ここで注目したいのは、ペトロがコルネリウスの用件を知らずに彼のところに出かけていったということです。何の目的で自分が呼ばれているのか分からない。接触してはならないと子供時代から教えられてきた外国人の所からお呼びがかかっている。不安も大きかったと思います。しかし彼は、それよりも「イエスが人を分け隔てするなと言ってくれているから」という思いの方を優先したんですね。
 また、もう一つ皆さんにお知らせしておきたいのは、11章以降にペトロがエルサレムに帰って、他の使徒たちにこのことを報告するのですね。その時にペトロは他の使徒たちや信徒の人たちに非難されています。エルサレムの教会の人たちは、外国人と聖餐を一緒に交わすなんて! と最初は怒るんです。
 けれどもペトロは、自分が見た幻を通して、どんな人をも分け隔てしてはいけないとイエスが教えてくれたんだ。「ためらわないで一緒に行きなさい」と霊が導いてくれたんだ……といったことなど、自分の体験を話して、教会の人々を静まりかえらせてしまったと、11章の中ごろまで書いてあります。
 要するに、イエスは、凝り固まってしまった教会よりも先を進んで行かれるということです。イエスが「異質な人を分け隔てせず受け入れよ」と言っているのに、教会の人間の現実がそれについていっていないということがあるということです。
 しかし、私たちはこの時のペトロのように、イエスの示す道に気づき、自分の行いを改め、そして願わくば、教会をも変えてゆくような者でありたいと思います。
 教会がいつもイエスに忠実であるとは限りません。キリスト教会だからイエスの言う通りやってるのだということは自明ではありません。けれども私たちはイエスならどう言っただろう、イエスならどうしただろうということを考え、実行に移してみる試みを通して、教会を変えてゆくこともできます。
 私たち一人一人がイエスのように、誰をも分け隔てしないということを実践できる人間になれますようにと、祈らずにはおれません。






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