出てゆくための集い


(「教会とは誰か、教会とは何か、教会とはどこか」を改題)

2019年8月11日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 平和聖日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約29分)



 エレミヤ書7章1-6節 
(新共同訳)
 主からエレミヤに臨んだ言葉。
 主の神殿の門に立ち、この言葉を持って呼びかけよ。そして、言え。
 「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ、そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」



▼1週間遅れの平和聖日

 おはようございます。今日は1週遅れの平和聖日の説き明かしをさせていただきたいと思います。ひょっとしたら先週、高木先生が平和聖日にあたっての説き明かしをされたかもしれませんが、恐らく別の人間が説き明かしをするので、全く違う切り口になるでしょうから、内容的にダブるということはないと思います。
 平和聖日というのは、1961年に広島県の教会が含まれる西中国教区から提唱された記念日で、その翌年1962年の教団総会で全国の日本基督教団の教会で守ろうということで、毎年8月6日(広島に原子爆弾が投下された日ですね)の直前の日曜日を平和聖日として礼拝を行うということが決定されたんですね。最初は8月6日の直前の日曜日、後に8月の第1日曜日という風に改定されました。
 とにかく、この運動が原子爆弾の落とされた地域の教区から呼びかけられたということ、また原子爆弾の落とされた日を覚えて行われるようになったということが、とても大切なことなんだと覚えておきたいと思います。その一方で、私などは「なぜ平和聖日が決められたのが、1961年なのかな? 遅すぎるんじゃないかな?」などと、最初は感じてしまいました。太平洋戦争で負けたのが1945年ですからね。それから15年も経っています。
 けれども、考えてみれば、沖縄戦での全滅、2発の核兵器を受けて、国内外でも多くの人の命を失い、引き揚げ兵もまだ全員帰ってきていない頃で、教会がやっと立ち上がってくるのには、そりゃあ15年はかかるわな、という気もします。
 また、この平和聖日が決められた頃、1960年代は他にも「戦争責任告白」や「沖縄キリスト教団と日本基督教団との合同」、また「万博でのキリスト教館の出展の是非を巡る論争」などなど、色々と戦後処理やアジアに対する侵略の責任に教団も関わっているじゃないか、沖縄も切り捨ててきたじゃないか、といった問題提起がたくさん教団の中でもあった時期なんですね。
 だから、平和聖日の取り決めも、敗戦の後、ちょっと一息経って、「あの戦争を見直そう」という機運が教団の中で高まってきたころの出来事だったということくらいは言えるんじゃないかと思います。

▼「荒野の40年」?

 ただ、残念ながら、日本基督教団はその後、特に1990年代からぐっと反動的になり、特に沖縄との合同のとらえなおしの問題は、もう一度日本と沖縄の教団の合同を、吸収合併のような形であったのを見直して、対等な合同という風にやり直そうじゃないかと、そのために教団の名前を「日本合同キリスト教会」という名前に変えようじゃないかという案、また他にもいくつも改革案が沖縄教区から出されていたんですが、全て強行的に「時間切れ審議未了で廃案」ということにされてしまったのが2002年の教団総会です。
 この時、時間切れだという理由で議案を切り捨てられた沖縄教区の議員団は、その瞬間、議場を静かに出て行きました。それ以降、沖縄教区は「日本基督教団とは距離をとる」と言って、教団総会には来なくなりました。
 そして、次の2004年の教団総会では、当時神奈川県の紅葉坂教会の北村慈郎牧師が「こんな沖縄教区を切り捨てた状態での聖餐式に、何もなかったかのようにあずかることなどできない」という抗議の意志表示として、総会での聖餐式の聖餐を受け取らなかったんですね。その事が山北宣久議長以下、教団の首脳部の怒りを買って、それで北村牧師は陥れられた……というのが、北村牧師免職事件の発端でした。
 さらにその3年後、2007年には、どこかのキリスト教学校の教員がキリスト教の入門書を書いて、この内容も怒りを買って、回収・出版停止・絶版にしろという勧告書を出したなんてこともありました。これも、その山北議長ですね。
 この山北議長はさっきの60年代以降の様々な出来事を「荒野の40年」という言葉で呼んで、非常にネガティブに捉えてるんですね。そして「日本基督教団の信徒が減ったのはその対立のせいだから、これからは社会のことなんか関心を持たずに、伝道しましょう」というような方針を出しました。そしてその路線を受け継いで、「伝道に燃える教団」というスローガンを上げているのが現在の石橋秀雄議長です。

▼野良牧師

 こういう教団の中にある対立を、「教会派」と「社会派」の対立という呼び名でラベルを貼る人がいます。そして、「教会派」の人が「伝道」をしたがっていて、「社会派」の人たちが「宣教」をしたがっている、という風に言うわけです。
 まあ仮にそういう風に大きく2つに分裂しているとしたとしても、今は「教会派」の人たちが多数派をとって、社会のことには深く関わらないようにして、もっぱら「伝道」をしましょう、教会の信者を増やしましょうという方向に持って行こうとしているだけで、別に対立が解決されているわけではないのですね。
 私自身はよく教団内では「社会派」とか「リベラル」といったラベルというかレッテルを貼られがちな人間です。差別や平和の問題、歴史や政治の話題について発言することが多いせいでしょうか。けれども、私はいわゆる社会派とかリベラルという人々とあまりつるんで動くという事がないのですね。どちらかというと勝手に一人でやっているという感じです。教団の中では、どこにも属していない野良犬みたいな、言ってみれば「野良牧師」です。

▼教会を大切にしたい

 それに、教会が何らかの市民運動や政治運動の拠点になるべきだとも思っていません。私が教会に対して思っていることは、ここがみんなのこの世の生活での疲れや悩みを持ち込んできて、ここで近況報告をしたり、愚痴を言ったり、人生相談をしたり、冗談を言ったり、楽しく過ごして、神様にお祈りして、この先の暮らしで神様が守ってくださることをお願いして、そしてまた新しい1週間を送るために、それぞれの現場に戻ってゆく……単純にそんな場所であっていいと思っているだけです。
 教会というのは「エクレシア」つまり「集い」であり、この集いで息を吹き返してまたこの世に送り出されていく、そういう仲間がイエスの名によって集まる集いである、それで十分だと思います。
 ただ、私たちが世の中で苦しむ課題、負わされる重荷というものには、何一つ社会や政治と無関係なものはありません。
 例えば、一人の人が鬱を患って動けなくなって寝込んでしまったとして、それはその人個人の問題であって、世の中とは何の関係もないと言い切ってしまえるでしょうか。
 その人自身を医療や保険がどう支えてゆくのか、精神障害を負った人をケアする福祉の制度はどうなっているのか。家族の人々の負担をどうやって軽減するのか。また職場はその人の地位をちゃんと守ってくれるのか。鬱そのものに対する偏見や誤解に対して、どのように正しい知識を世の中に広めていくのか。そして、大切なことは、本人のことを忘れずに覚え続け、いつでも戻ってこれる場所を用意できているか……などといったこと。他にも色々あるでしょうね。
 こういった小さいことから大きいことまで、私たちが人間同士として助け合おうとするならば、それらはみんな社会的な事柄なんだと言う事ができます。
 もし、「それは教会の事とは関係ない」とか「それは伝道には直接役立たない」と誰かが言うならば、私たちはどう感じるでしょうか。 
 そんな風に、私たちの目的は、教会の儀式や建物なのでしょうか。それとも私たちが関係を持つ一人一人の人でしょうか。私たちが「教会を大切にしたい」と言う時、それは「教会で繋がることのできる一人一人のことを大切にしたい」と言うことになるのではないでしょうか。そして、一人一人を大切にするということは、その一人一人の社会的背景や事情も含めて配慮することになるのではないでしょうか。
 ですから、個人の問題と社会の問題というのは、厳密には分けることはできないし、社会の問題と教会の問題というのは、無関係であると考えるのは非現実です。個人の問題は社会とは無関係ではなく、したがって私たちは個人の人生に関わる限りは、社会にも目を向けないと本当の意味でその人の人生をきちんと受け止めることはできないのであります。

▼お前たちの道を正せ

 教会の本当の役割とはなんでしょうか。それは一人一人が信頼を高め合い、愛し合い、平和を作り、希望を生み出すところと言えるでしょう。ただ、教会は終着点ではなく、出発点なのです。ここがゴールではなく、スタートラインなんですね。
 教会に来ること自体が目標なのではなく、教会で与えられた信頼や希望や愛、そして平和を、この世にも実現してゆくために、教会からこの世の皆さんの現場に送り出されてゆくということが大事なんですね。
 だから「疲れている者、重荷を負っている者は、イエスのもとに来なさい。休ませてあげよう」ということになるわけです。
 本日の聖書の箇所、エレミヤ書7章1節からは、信仰熱心な人に対して「お前の行いを正せ」と与えられた警告です。特に4節からは、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という虚しい言葉により頼んではならない」という厳しい言葉があります。神殿というのは、今で言えば教会と同じですから、今のクリスチャンに対しては「主の教会、主の教会、主の教会という虚しい言葉にのより頼んではならない」と言っているのと同じです。つまり、教会、教会、教会と言って教会を有り難がる事が、信仰の上で一番大事なことではないぞよ、ということなんですね。
 これはイエス自身が言った、「『主よ、主よ』と言う者が皆、天国に入るわけではない」という福音書の言葉とも相通じるものがあります。信仰深いふりをしている者が天の国に入るわけではないのであるぞよ、と。じゃあ天の国って一体なんなんだ、ということになるのですが、天の国というのは、本当にこの世に信頼と希望と愛と平和が実現した状態、つまりこの世に神の想いが実現した状態のことを表すのですね。それを目指さないで「教会、教会」、「主よ、主よ」と言っていても、虚しいでしょうというわけです。

▼どのように道を正すのか

 そして、今日の聖書の箇所、それ以降には、神様を信じようとする者が、その信じる心を実のあるものにするならば、どういう世の中を目指すべきなのかということに具体的に書いてあります。
 読んでみますね。
 「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」
 非常にわかりやすいですね。あなた方の生きる道と行いを正して、お互いの間に正義を行いなさい。具体的には、「寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げるのをやめましょう」。
 今、私たちの社会で寄留の外国人に優しくしているでしょうか。入国管理局では多くの渡航者が放置されて、餓死したり病死したりしています。また多くの企業で外国人研修生が奴隷にされています。
 また私たちは、孤児や寡婦を大切にしているでしょうか。日本の子どもの7分の1が貧困に陥っていると言われている。日本の単身で暮らしている女性の3分の1が貧困に陥っていると言われている。このエレミヤ書で指摘されているのは、まさにこの国の状況ではないでしょうか。
 そして、こうとも書かれています。「無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」。
 今の日本で「無実の人の血を流す」というと、私は沖縄で新しい米軍基地を建設することに反対している人たちのことを思い出します。暴力を使わずに座り込んでいる人たちを、各地から派遣されてきた警察や警備会社が力づくで排除したり、海の上でカヌーなどに乗って抗議している人を、海上保安庁が警備船で体当たりしたり、乗り込んで押さえつけたり、首を絞めたり、溺れさせたりといった暴力を振るっていることを思い出します。
 そのような「無実の人の血を流す」一方で、「有罪の人を裁かない」という状況がこの国に蔓延しているということも、今更説明するまでないことでしょう。
 「異教の神々に従うことなく、自ら災いを招くな」。これについてはどうでしょうか。

▼平和のために祈り、行う

 私がこの言葉で、この日本社会で連想するのは、今の内閣の十数名の閣僚のうち、たった1人を除いた全員が「神道議員連盟」という「国家神道によって政治を行いましょう」という意図で一致した国家議員のグループのメンバーであり、2人を除いた全員が「日本会議」というカルト教団の信者であるという事実です。
 もうこのカルト教団についての詳しいことは、別の勉強会か何かでも扱った方がいいと思いますが、とにかく、現在の政府は完全に1つのカルトに乗っ取られてしまった状態で、これを放置しておくと、近いうちにもっととんでもないことになるでしょう。
 例えば、太平洋戦争の最中には、キリスト教会の礼拝も憲兵に監視され、戦争反対などを礼拝で唱えると、牧師が逮捕されて警察署で暴行を加えられることも珍しくなかったと言いますが、そのような時代に逆戻りすることも、十分予想されるということです。まあ、沖縄で排除されたり逮捕されたりする座り込みの人たちの様子を映像で見ると、そんなに非現実的な景色でもないんだなあと感じます。
 今日読んだのと同じエレミヤ書の、次の章、8章の11節にはこんな言葉も書いてあります。
 「彼らは、おとめなるわが民の破滅を、手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」。
 私たちが生きている世の中とそっくりではないかと思わずにはおれません。私たちが「平和聖日」と名付けられた礼拝を行うとき、それは社会が本当に平和だろうかという問いと無関係ではあり得ません。社会に無関心なまま「平和、平和」という言葉だけを虚しく唱えていても、それは本当に平和のための礼拝とは言えません。
 私たちは、教会堂の中で信頼と希望と愛を確かめ合うためにだけではなく、教会の外でそれらを分かち合うためにこの世に送り出されているのです。ですから、教会とは教会堂のことではなく、私たちが派遣されていくこの世の全ての場のことなのであります。
 そういうわけで、今日の「平和」を覚える礼拝において私たちは、平和を未だ実現できていない私たちであるこの現状を悔い改めて、改めて平和のために私たちにできることを示し、それを実行させてくださいと祈りたいと思うのです。






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