イエスとセクシュアル・マイノリティ


(「ありのままの生き方を認め合う世界」を改題)

2019年8月25日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約30分)



 マタイによる福音書19章10-12節 
(新共同訳)
 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。
 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」



▼イエスとセクシュアリティ

 おはようございます。今日は、イエスがセクシュアリティ、すなわち性のあり方というものについて、どんな風な態度で振舞っていたのかということについて、お話をしてみたいと思います。
 といっても、イエスが性について、そんなにたくさんのことを語っていたようには思われません。例えば、マタイによる福音書の5章28節にある「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」という言葉は非常に有名です。
 それから、今日お読みした箇所の前の部分、マタイの19章の始まりで、イエスが離縁について語っているところですが、この箇所は3つの福音書でそれぞれ言いたいことが違っているように書かれているので、あまり細かいことを述べ出すとややこしいのですが、要するにイエスは離縁ということについては否定的でした。
 ただ、それは圧倒的に女性の方が経済的に生きてゆく手段が無い時代である上に、妻の方から離縁を申し出る権利はありませんし、夫の方は実に身勝手な理由で一方的に妻を捨てる権利があったために、夫に対して、「妻を路頭に迷わせるな」、「離縁して妻を捨てる権利を使うな」という言葉を発したようです。
 当時、離縁された女性は、実家に帰るか、娼婦になるしか生きてゆく術はありませんでした。イエス自身が娼婦に対して非常に優しかったのは福音書の中の複数の箇所でも明らかですし、マタイの21章31節では、イエスが「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と位のある祭司長や長老たちに言ったと伝えられています。
 ですから、イエスが男性よりも低い扱いを受けていた女性に肩入れして味方していたのは明らかですし、性産業についている女性だからといって彼が差別的な偏見を持って彼女らを見ていたとは考えられません。
 ただ、これらは全て異性愛、つまり女性と男性という異性が性的な関係を結ぶという関係を前提にした話です。イエスが例えば同性愛について何かはっきりと述べている場所というのはありません。
 そんな中で、今日お読みしたマタイの19章の10節以降は、これはその前にある離縁の話とは別に語り伝えられていたエピソードを、マタイがここにくっつけたものであろうとされているので、元々は独自の伝承なんですけれども、ここが、イエスが性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)すなわち、異性愛ではない少数の人たちに関連して語った唯一の箇所であろうと思われるのですね。

▼イエスとセクシュアル・マイノリティ

 今日の聖書の箇所、マタイの19章の10節から12節は、そもそも全部がイエスと弟子の間で交わされた会話だということは疑わしい箇所です。というのも、これはこの福音書を書いたマタイさんが、何らかの信仰的な理由で結婚をしない人々、禁欲的と言いますか、修道士のように独身を守ろうとした人たちのことについて言おうとしたのではないかという説があるからです。
 そういう意図もあって、10節では、その前の離縁についての教えに繋げる意図で、マタイが「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」というセリフを入れていると考えられるのですね。実際には、例えばイエスの一番弟子であったシモン・ペトロは妻帯者でしたので、イエスが結婚そのものに対して否定的であったということは考えにくいです。
 そういうわけで、今日の引用の箇所の締めくくりである、12節の最後の方の、「天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」という言葉も、この「天の国のために結婚しない人」というのはマタイが作った言葉である可能性があります。そもそも「天の国」というのはマタイの福音書でしか使われない言葉ですし、マタイが彼の時代に「独身制を守る教派の人がいることを受け入れなさい」と言うために入れた一言であろうと思われます。
 その一方で、12節の前半の、「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいる」という部分は、前後の文脈とはあまり結びついておらず、唐突に出てきた内容のように感じられますし、マタイが結構無理をしてこの箇所にねじ込んだ可能性が高いので、独立した断片的な言い伝えだったのだろうと考えられるのですね。
 「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいる」という言葉がイエス自身に遡るとすれば、これはイエスがセクシュアル・マイノリティについて話した珍しい言葉と言えます。

▼ユウヌーコスとサリース

 これは以前にもお話したことかもしれませんが、ここで「結婚できない者」とか「結婚しない者」という日本語に翻訳されているのは、あまり適切ではないと私は思っています。
 というのは、ここで使われているのはギリシア語で「ユウヌーコス」という単語で、大抵の場合「宦官」を指す時に使われる言葉です。宦官というのは、エジプトエチオピアなどで王宮に仕える高い位の家来で、王妃や女王に近づかないように去勢された人たちのことですよね。男性としての機能を果たさないように手術をされた人たちです。
 で、この「ユウヌーコス」というギリシア語は、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語で「サリース」と言いますが、この言葉が狭い意味での宦官をさすだけでなく、男性として役に立たないという意味で、どうやら非常に差別的に日常会話で使われていたのであろうと言われているのですね。
 適齢期になっても(と言っても適齢期というのは当時は10代前半のことですが)、その年頃になっても女子に関心を持たない男子や、結婚したがらない男性がいても当然なわけですが、当時のユダヤ人社会で子孫を残すために結婚をするというのは男性にとっても女性にとっても至上命令で、当人たちの了解もなしに父親たちが許嫁を決めてしまうのは当たり前のことでした。
 しかし、それでも女性と関係を持つことを嫌がる男性は、現代も2000年前の人間もさほど生物として変わらないとするならば、少数ではあっても確実にいたに違いありません。そのような男性を当時の人は「男性として異常である」として、「あいつはサリースだ」あるいは「ユウヌーコス」だと言ってからかったり虐待したりしていたのですね。
 実際、旧約聖書の申命記の23章2節に、「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」と書いてありますが、これは先天的に肉体的に男性器に障がいがある人と、宦官のように人工的に男性器を取り去られた人の両方を含んでいて、そのような人は村八分にしても構わないと言っているわけですね。
 そういうわけですから、女性と関係を持ちたくないと言っている男性は、「あいつは大事なところがつぶれているに違いない」と言って排除するということは、当時の人にとって当たり前になっていました。「サリース」という言葉は今で言う「玉無し」とか「オカマ」と言った侮辱の言葉だったわけですね。

▼直感的な違和感

 今日の聖書の箇所でイエスが言っている「人から結婚できないようにされた者」というのは、直訳すると「人によってサリース/ユウヌーコスにされた者」、つまり去勢された宦官のような人のことをさしていることは明らかです。
 では、それに対して「結婚できないように生まれついた者」というのはどういう人のことでしょうか。これを直訳すると「母の胎からのサリース/ユウヌーコス」となります。これがおそらく「サリース」という言葉で差別され、排除されていた少数の人たちのことを指しているのではないかと思われるのですね。
 もっともイエスの生きていた当時は、今ほどセクシュアリティについての研究が進んでいませんでした。今でこそ、少数者の人たちの中には、同性愛者の人もいれば、両性愛(すなわちバイセクシュアル)の人もいるし、トランス(自分の性別に違和感を持っている人)、あるいはアセクシュアル(性愛というものに関心が向かない人)の人もいるという風に人間の性も色々あり、決してLGBTという4種類なのではなく、本当に千差万別なんだよということがわかってきましたが、イエスの時代はそんな分類も便利な言葉もありませんので、イエス自身も使う言葉が無かったんですね。だから「母の胎からのサリース」と言うしか無かったでしょう。
 けれども彼がこのように言った時、本人の生まれつきの性質や、本人が望んでなったものではないマイナスの事柄に対して、本人をいじめたり差別したりすることはおかしいんじゃないか」という、イエスにいつも見られる直感的な違和感が働いていたことは間違いないと思うんですね。

▼あなたは罪人じゃない

 障がいのある人や病気の人、また貧しい境遇に生まれた人も、古代のユダヤ人社会では「神の罰である」とか「悪霊に取り憑かれたせいである」とか「呪われたためである」と考えられていました。そして、本人がそのようになったのは、本人あるいは先祖に「罪」があるからだとされました。イエスもそういう世界観の中に生きていた人なので、「罪」とか「悪霊」とか「呪い」というものの存在自体を疑っていた様子はありません。
 ただ、イエスが当時、周囲の人と違っていたのは、「そういう風に人を『罪』に定めたり、呪ったりするのは間違っている」と考えたように見られる点です。どうも「元々人は罪があったり汚れていたりするもんじゃないんだ」と素朴に信じ、その信念を突き通そうとしていたらしいのです。
 だから、民の指導者である祭司や律法学者や長老たちが庶民に対して、「それは罪だ」、「神の罰が下るぞ」と事あるごとに警告したり呪っていたりするのが、実は大きな間違いをしているのではないか、神を冒涜しているのはあいつらじゃないのかと感じ、彼らに抵抗するようになったのだろうと思われるのですね。
 このイエスの信念の根底には、旧約聖書の創世記の天地創造物語にあるように、「神はお造りになった全てのものを見て『良し』とされた」、つまり、「神に造られた存在は全ては『良い』ものなのだ、だから人間も誰一人、生まれながらに『良い』ものなのだ」という純粋な信仰があります。
 「人は生まれながらに罪がある」という考え方が、イエスよりも遥かに後の5世紀になってからアウグスティヌスが唱えて、7世紀になってからカトリック教会で承認された神学なので、イエスがそう思っていたわけではないのですね。
 そんなことよりも、イエスには「人が人を罪に定めて『神の罰が下るから我々のいうことを聞け』と言って支配している」ということへの怒りの方に大きな関心があって、「その支配から人々を解放しなければ!」という思いが強かった。
 だから、イエスは「あなたは赦された」とたくさんの「罪人」と呼ばれた人々に宣言したのであろうと思われます。今風な言い方をすれば、「あなたは本来、神に愛された神の作品なんだ」と宣言することによって、「罪人だ」というレッテルを貼られる人たちを解放しようとしたのですね。
 「あいつらはあなたを罪人だと言っている。しかしもう私が宣言する。あなたは罪人じゃない!」ということです。

▼人を裁くな

 そういうわけですから、イエスがセクシュアル・マイノリティ、当時「サリース」とか「ユウヌーコス」と呼ばれて蔑まれていた人に対して、「そういう人を蔑んでいる方がおかしいんじゃないか」、「生まれつきそうなんだから、むしろ神様は『良し』としてくださるだろう」と直感的に判断したのは間違い無いでしょう。
 このイエスの態度が教えてくれるのは、彼自身が別の箇所でも言っているように、「人を裁くな」(マタイ7.1)という単純なことです。特に宗教的な意味を含んで、「罰が当たるぞ」とか「神に対する罪だ」と人に対して言うことは間違っているということです。今日のテーマに即して言えば、異性愛とは違った人の愛し方をする人に対して、「それは罪だ」と言うことは、イエスによれば間違ったことだということです。
 イエスは誰もがありのままで認められ、愛されていることを宣言し、もし苦しみがあるならそれを取り除こうとしました。それが「霊」による苦しみでも「人」による苦しみでも、苦しみがある限り治すこと、癒すことに取り組みました。
 と同時に、人が人に苦しみを与えているならば、それに対しては相手が権力者であろうと、はっきりと異議を唱え、抗議しました。そして、「人を罪に定めて苦しめる」という宗教者の行為もイエスの怒りの対象でした。ですから、私たちがイエスに倣おうとするなら、「あなたは罪人だ」と言うこと自体をやめなくてはいけません。
 残念ながら、現代になっても私たちの多くは、セクシュアル・マイノリティに対する偏見や差別から解放されていません。偏見を持つ心、差別をしてしまう心から解放されていない。むしろキリスト教会の内部の方が、同性愛者に対する差別が激しいような状況です。それも「神に背いている」と言って、自分の差別的な心理や偏見をキリスト教で正当化しているという有様です。でも、それはイエスの姿勢ではないのです。

▼誰のプライドも否定しない

 繰り返しになりますが、イエスは人間のセクシュアリティについて、現代の我々と同じような細かい知識を持ってはいなかったでしょう。でも、イエスが同性を愛することで本来の自分の愛を発見した人と出会った時に、その愛を否定したとは私には思えません。
 彼は「生まれつきのオカマもいるんだよ。人の手によるオカマもいるしな」と言って、同性愛者を蔑む人の行いに対する違和感を口に出したのでしょう。つまりイエスは「同性愛は罪ではない」と直感的に気づいています。「少数ではあるけれども、出会ってみるとただの人」という単純な事実をちゃんと知っているのですね。
 現代では、同性愛をはじめとするセクシュアル・マイノリティは、人口の一定の割合で生まれるということは明らかになっています。自分の肉体的な性別に違和感を感じる人のことも、かつては「性同一性障害」という病名で呼ばれましたが、最近は「性別違和」という言葉に置き換えられて、それは病気ではないという見方も広がりつつあります。
 また、同性愛者も大抵は、自分の性別に違和感を持っている「性別違和」というわけではなく、女性は女性としての自分に違和感なく女性を愛し、男性は男性として違和感なく男性を愛するという人です。つまり、生まれつきそれが本人にとっては自然なので、治療の必要はありません。世の中に差別がなかったら、問題なく自由に生きられるので、問題があるのはマイノリティが異常だと思っている世の中の方なんですね。
 そのようなことがわかってきている現在、セクシュアル・マイノリティは異常だとみなし、不利益な状況を作り上げているとすれば、それは古い常識から自由になっていないというだけではなく、イエスに学び、イエスに倣おうとする者にふさわしいことではありません。
 セクシュアル・マイノリティというのも人の性のあり方なんだと認めることは、別に自分の性のあり方を否定するものでもありません。私は私の性を肯定し、あなたはあなたの性を肯定するというだけのことです。誰の存在も否定しないでいよう。お互いにみんな自分の存在にプライドを持とうということです。
 イエスに倣って、誰のプライドも否定しない。私はあなたを否定しない。あなたも私を否定しない。誰もが自分を大切にでき、できるだけ公平に生きやすくする。そんな人間関係、そんな社会を目指す人間でありたいと思います。






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