わたし生きてていいですか


2019年9月1日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約24分)



 ルカによる福音書18章9-14節 
(新共同訳)
 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」



▼正しい生き方をする人

 今日のイエスのたとえ話は、とてもシンプルですが、とてもイエスらしい皮肉が利いていて、私たちの生き様のある面を鋭く突いてきます。正しいことを行い、信仰的にも模範的と思われる人が神様に義とされず、大凡真っ当な仕事とは思われていないようなことを生業にしているような人が、義とされるというお話です。
 イエスはまずは信仰深く、正しい生き方をしている人たちの方に皮肉な批判を向けています。
 祈るために神殿に来た2人の人、1人はファリサイ派の人でした。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の律法を解釈する1つの学派です。当時のユダヤ教にはサドカイ派、ヘロデ派、エッセネ派など、色々な学派の人々がいましたが、ファリサイ派というのは、その1つです。ちなみに、イエスがその活動の初期に加わっていた洗礼者ヨハネの活動は、実はエッセネ派のそのまた一派であったという説もありますが、まあそれには賛否両論あります。
 ファリサイという言葉には「切り捨てる」という意味があって、清いものと汚れたものを厳しく分離するという姿勢を持っている人たちであったとされています。特に身分の高い人にファリサイ派が多かったというわけではなく、むしろ庶民の中に広がっていた律法研究のグループで、人々がちゃんと律法を守って生活をしているかどうか厳しく指導していましたし、「ラビ」と呼ばれる人もたくさんいたようです。
 庶民からは尊敬されている面もあるファリサイ派の人ですから、当然人の模範となるような生活態度を取っていた人がほとんどだったでしょう。ですから、今日の聖書の箇所に書いてあるように、申し分のない生活をしていても何の不思議もありません。
 彼は「奪い取る者」でもありませんし、「不正な者」でもありませんし、「姦通を犯す者」でもありません。つまり、律法に従って正しく生き、罪も犯していません。そして、さらに彼は加えます。「また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。

▼CrimeとSin

 ここでこのファリサイ派の人が自慢している生き方、要するに「わたしには罪がありません」、「わたしは罪人ではありません」と彼は主張しているわけです。その基準は、先ほどからも何度も申し上げているように、ユダヤの律法です。掟とも言います。旧約聖書の前半にある細かい戒律と、それに付随する長年にわたる律法の解釈集、それらをまとめて律法学者は研究と論議を重ねているわけですが、それに照らして「わたしには罪がない」と、このファリサイ派の人は喜んでいるわけです。
 しかし、我々の目から見ると、ここで挙げられている罪のリストには、おそらくイエスが意図的にわかるようにしてくれているんでしょうが、2種類の罪が列挙されています。
 1つは、前半の「奪い取ること」、「不正」、そして「姦通」です。これは、我々が言うところのいわゆる「犯罪」(crime)です。別にユダヤ教やキリスト教でなくとも、無宗教の法律でも、社会ではやってはいけないこととして禁じられていることです。
 もう1つは、後半の「徴税人であること」や「断食」や「十分の一献金」などです。これらは汚れているとか、神の意志に逆らっているなどといった、いわば宗教的なタイプの罪(sin)です。
 例えば、徴税人というのは、この当時の職業として特に違法だとされていたわけではありませんでした。この人たちはローマ帝国からの人頭税や通行税を取り立てる仕事をしていたので、いわば準公務員的な立場です。徴税人をやること自体が違法だというわけではありませんでした。
 しかし、ユダヤ人たちはこの徴税人たちを「罪人」と呼びました。それは、神に選ばれた神聖な民族であるユダヤから、汚れた異邦人(ローマ帝国ですね)に収める税金をしぼりあげるからです。それは単にお金を取り立てるから悔しいというだけではなくて、「あいつらは汚れた、卑しい職業だ」、「売国奴だ」といった差別と蔑視の入った罪人扱いだったわけです。
 言い換えると、この時代この社会の中では、差別や蔑視の対象を「罪人」と呼ぶことで正当化していたんですね。もちろんローマ帝国としては、この差別は織り込み済みでして、征服者である自分たちが吸い上げる税金を、自分たちで集めるのではなく、ユダヤ人の徴税人に集めさせることで、ユダヤ人同士の間に恨みや反感を抱かせ合う、そのことによってユダヤ人同士の団結を防ぐという効果もあったわけです。そうやって仕組まれた差別によって、徴税人は人々から恨まれ、嫌われ、汚れた者として「罪人」扱いされていたわけです。
 そういうわけで、この2人の違いは、自分が罪人だと思っているか、思っていないかということではありますが、「わたしは罪人だ」と思っているこの徴税人は、「神に対して罪を犯している」と他人も自分も思い込んでいて、それで自分を責めている人だということなんですね。
 けれどもイエスは、「このような、神に対して罪を犯していると思っている人の方を、神は義とされるのだ」と言っています。「義とされる」というのは、一種の裁判用語で、「正当とする」、「無罪とする」、つまり逆転勝訴という意味ですから、結構イエスも大胆なことを言っていますね。

▼赦しでも償いでもなく

 福音書を読む限り、イエスの所にやってきた徴税人は皆、このように自分が徴税人であることを恥じていたり、悩んでいたりする人ばかりです。当時の徴税人全員がみんなこんな風に自分を過小評価していたかどうかはわかりません。イエスの所に来たのはそういう徴税人たちだったということだと思いますが、とにかくこの人たちは、自分の人生が呪われたものであり、こんな職業に生まれついたこと自体が罪であり、人生が罰だと思っていたわけです。結構お金を持っていて、羽振りが良かった人でもそうだったわけです。
 このような人を登場させることによってイエスは、自分の人生を肯定できない人、それでもなんとかなりませんかと願う人こそ、神は「あなたこそ真っ当な心の持ち主だ」と認めるのだと言うのですね。
 この徴税人は、自分が罪人であると思って疑っていないので、「自分の罪を赦してください」などとは言っていません。けれども、何か意図的に悪いことをして罪に定められているわけではないので、「償いをさせてください」とも言えません。ただ単に自分は罪人だと定められている、この惨めな人間、惨めな生涯を「憐れんでください」と、自分の胸を打ちながら、神に願うだけです。
 しかし、その憐れみを願う、願いだけで、神はあなたを義とする。すなわち神が「わたしの心に適う者だ」と認める、あなたは逆転無罪だ、とイエスは言っているのです。「義である」ということは「罪ではない」のです。赦されているのです。
 償いも贖いも犠牲も必要ありません。神に憐れみを願う者は赦されている。言い換えると、否定されていた人生を、神様に肯定されるのです。そのことをイエスは自らが十字架にかかる前から、はっきりと宣言していたわけです。

▼自分を肯定できない人

 にも関わらず、現代においても多くのクリスチャン、あるいはキリスト教を学ぼうとしている人たちは、この「罪」から逃れることがなかなかできません。「crime」すなわち人の命や権利を侵害する違法行為としての罪の方ではなく、「sin」すなわち神に対する罪意識や、自分は生きていていいのだろうかという、生きることそのものへの罪悪感、自分の人生をどうしても肯定できない違和感、そういったものを抱えている人。そういう人のその「sin」、自分は「sinner」であるという感覚を克服できていないのですね。
 自分は罪深いとか、自分は生きていても仕方がない人間だという感覚には、色々な原因があります。このたとえ話に出てきた徴税人のように、生まれた社会にそういう差別が浸透していたから、物心ついた時から自分は被差別者だった。生まれる場所を人は選べない。自分は呪われているんだと考えるしかない。そういう人もいます。
 また、幼い頃から非常に厳しい環境に生まれて、身近な人から虐待を受けたり、養育を拒否されたりして育ってきた人も、なぜ自分がそうなっているのかわからないけれども、自分は自分の存在を肯定されているとは感じられないでしょう。
 あるデータでは、日本の青少年の自己肯定感が他の国に比べて格段に低いということも言われていますけれども、経済的に恵まれているかどうかだけではそれは決まりません。幼い頃から、しっかりと周囲の人から自分を肯定されなかった人は、大人になってもなかなか自分で自分を肯定することはできないように思われます。
 また、何らかの病気や障がいによって、自分を肯定できない人もいます。特に鬱病などの心の病は、「自分を否定する」、「自分の存在自体が罪だと思う」、「自分など早く死ぬべきだ」という思いが浮かんでくること自体が症状なのですね。
 そういう人には、「それは罪ではなくて、症状なんですよ。お医者さんにかかった方が、楽になるんですよ」と正しい知識を教えてあげないといけません。

▼憐れみを願う祈りこそ

 そのようなわけで、自分の存在や自分の人生を、なかなか肯定できない人は、世の中にはたくさんいるのですけれども、宗教的な教義によって「それは罪です」とか「罪のせいです」と言ってしまって、本人が真に受けてしまったりすると、その自己否定に下手な理由を与えてしまうことになります。そして、悪い宗教やカルトはこのような心理を利用して、「罪を祓わないと更に不幸になりますよ」とか「赦しを祈りなさい」と言って、お祓いや赦しの条件として献金や物品購入あるいは労働を要求するわけです。
 イエスはそのような宗教的には非常に良くないタイプの教えのカラクリを見抜いていたのでしょう。自己否定を根本から治療することのないままに人を罪に定め、その赦しの仲介を宗教者がやることによって、かえって人は罪から解放されることなく、いつまでも宗教者は利益を吸い上げることができる。こういう胡散臭いシステムをイエスはエルサレムの祭司階級たちに見ていたのでしょう。
 そこでイエスは敢然と立ち上がり、そんなシステムやカラクリなど無くても、人は神に義とされるということを宣言したのですね。
 犯罪を犯さないこと、不正をしないこと、人の命や権利を侵害しないこと、もちろんそれらは社会的には大切なことです。それは善いことですし、望ましい生き方であることは否定しません。
 しかし、イエスによれば、もっと大切なことは、自分を肯定できない人は神様に「こんな私でも憐れんでくれませんか。こんな私を愛してくれませんか」と、ストレートに祈るべきだということなのです。
 そして、神はその瞬間、その人をすぐに憐れんで、肯定してくださっているということなのです。
 14節で「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とイエスは言っています。でも、このファリサイ派の人はいいんです。自分で自分を義と認めているわけですから。
 でも、そうは思えなかったあなたでも、神様はあなたの人生を肯定する。あなたの人生は正当なものとされる。オーケーなんだ。逆転無罪だよ。それを勝ち取るには、献げ物も生贄もいらない。ただ、「神様、わたしを憐れんでください」と祈るだけでいいんだよ!
 それが今日のイエスのメッセージです。






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