良くなりたいか


2019年9月15日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約24分)



 ヨハネによる福音書5章1-9節前半 
(新共同訳)
 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。



▼ベトザタの池

 さて今日は、良く知られたイエスの癒しの物語を読みました。
 この癒しが行われた場所は、エルサレムの中心街を囲んでいる城壁の北側にある「羊の門」の近くにある「ベトザタの池」と呼ばれていたプールです。「ベトザタのプール」と呼んでもいいんですが、写真をご覧いただければお分かりになると思うんですが、自然の池ではなくて、人工的に作られた入浴用のプールですね。
 と言っても、ローマ式のお湯を沸かす大浴場ではなくて、常温の水のプールです。写真の通り、今では完全に水が干上がってしまっていて、2つあったプールの1つ、北のプールだけが遺跡として残されています。
 イエス様はどうも北側の「羊の門」から入ったように読めますが、2年前に私が行った時は、「羊の門」の近くにある、東側の壁の「ライオン門」から城内に入りました。実はその「ライオン門」の方がベトザタの池には近いということもあるのですけれども、「羊の門」の方は、現在はムスリム地区(つまりイスラームの信徒の方々が住んでおられる地区)なので、他の宗教の者が無遠慮に通行することは許可されていないんですね。それでイエス様とは別の門から入ってベトザタの池に行くようになっている、というわけです。

▼淀んだ霊の吹き溜まり

 当時、このベトザタのプールには、「水が動くタイミングでこのプールに入ると病気が治る」という言い伝えがあったんですね。
 見ると、確かにこの池はかなり深く掘られています。もちろん地層というのはだんだん積み上がって行くので、今の地面よりも2000年前の地面の方が低いんですけれども、まあそれで深くて5−6メートルくらいです。ですから写真ではわかりにくいかも知れませんが、人々がプールの周りを行き交う回廊・廊下の部分ですね。このあたりが当時の地面の高さだと思っていただいて差し支えないのですが、それよりもさらに、下手すると10メートルくらい階段を降りていったところに、プールの水面があったというわけです。ですから、そこそこ水面が地下にある感じなので、風がなかなか吹いてくるというわけにはいきません。なかなか水面は揺れません。
 そして、ちょっと想像してみていただきたいのですけれども、長方形のプールの周りを屋根付きの廊下が囲んでいて、その廊下に肺炎や結核の人、リウマチの人、ハンセン病の人、その他皮膚病の人、手や足が曲がっている人や目の見えない人、あるいは鬱などの心の病気で動けなくなっていた人もいたかもしれない。とにかく、いろいろな病人や障がい者が、現在の医学の分類とは関係なしに、いっぱい横たわっていたという情景です。
 そして、当時はそういう怪我や骨折などではない、要するに微生物などによって引き起こされた病気や先天的な障害などは、全部汚れた霊または悪い霊の仕業でやられたのだと考えられていたんですね。
 水が動くというのは、風が吹いて水面が動くということです。当時、風の動きも霊の動きと考えられていて、「風」と「息」と「霊」は同じ「プネウマ」という言葉ですよ、ということは何度も繰り返しておりますけれども、まあ同じものと考えられていました。
 新鮮で心を洗うような清々しい風や水は、そのものが清い霊であり、それが神さまの息である可能性もあるということなんですね。
 そして、病んだ霊や汚れた霊がドヨヨーンと淀んで溜まっているような、まあ実際風通しも非常に悪い空気の淀んだベトザタのプール。その水面に、新しい風が吹き込んで来るようなことがあったら、もうそれは聖なる神の霊の風です。
 その風が吹いたら、この汚れた霊の取り付いた体を清めていただける! サッと吹いたら、水面が動く! 今だ! それっ! と入った者だけが清められて、病気が治る……と、科学的なものの見方をしない古代の人たちはそのように思っていたんですね。

▼良くなりたいですか?

 さあ、そんなそして絶望に淀んだ空気の吹き溜まっていたような場所に颯爽と、それこそ風のようにイエス様が現れる!
 そして、ぐるりと回廊を見回すと、38年間も病気で苦しんでいる人がいました。日本語の聖書ではこの人が女性か男性かはわかりませんが、元は男性名詞なのでこの人は一人の男性のようです。38年というと、当時の貧しい階級の人の平均寿命より長いですから、その中ではかなりのお年寄りだった。そして、何よりイエス様より歳上ですよね。ですから、イエス様もすぐに目についたと思うんですね、自分より34歳くらいで結構その中では年寄りの方ですから、自分より上を見ると「お?」と気がつくでしょう。そこでイエス様はその人のところに寄って行って、訊いたわけです。
 「良くなりたいですか?」
 何をおバカなことをイエス様は聞いているのでしょうか? 良くなりたいに決まっていますよね? 誰だって治りたいに決まっています。
 ちなみに、この「良くなりたいか」というのは、「健康な状態になりたいか」、「健全になりたいか」と言っているのですけれども、ここで使われている「健康な状態」とか「健全な」という言葉は、英語でいうと「ヘルシー」という言葉が当たります。
 「ヘルシー(healthy)」というのは、「ヒール(heal)」(癒す)という言葉と語根が一緒ですよね。癒す(heal)、健康(health)、健康な(healthy)というわけで、スペルを見れば全部関連語だということがわかりますよね。
 つまり、「ヘルシーな状態」というのは「癒された状態」ということなんです。ですからここでイエス様がとおっしゃっているのは、「癒された状態になりたいですか?」ということですね。まあ「ヘルシーになりたいですか?」でも全然いいと思います。
 ここまで聖書の原典を読んでいて、私は「あれ?」と思いました。
 ここで、イエス様は「癒された状態になりたいですか?」とは言っていますけれども、「癒されたいですか?」とは言っていませんよね。
 つまり、イエス様は「私が癒してあげましょうか? 癒されたいですか?」と訊いているんじゃなくて、あくまで「あなたは癒された状態に『なりたい』ですか?」と訊いているんですね。
 「されたい」ですか? ではなく「なりたい」ですか? と訊いています。「あなたは良くなる意志はあるか?」と訊くんです。

▼聖なる気合

 するとこの老人は、それには直接答えず、ごじゃごじゃとした話をし始めます。
 「先生、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいないんですよ。私が行くうちに、他の人が先に降りて行くんです。それでね、あのね……」と彼は、自分のことを話さずに、人が私のために動いてくれないから自分は池に入れない、人が先に行ってしまうから自分は池に入れない、と人のことばかり言っているのですね。
 それでイエス様は、この老人が話を終わったのか終わらないのかわからないけれども、敢然と言い放つんですね。
 「起き上がりなさい! 床を担いで歩きなさい!」
 「はいっ!」
 と返事をしたかどうかはわかりませんが、とにかくこの老人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した、と書いてあります。
 この「起き上がりなさい」という言葉が、実は日本語で「復活する」という意味で訳されるのと同じ単語なんですね。「エゲイロー」って言うんですが。
 例えば「十字架のイエスはもう蘇って、ここにはおられませんよ」と墓の中にいた若い人が言ったという話が福音書の他の箇所には書かれていますけれども、そこでも正確には「(イエスは)起こされた」、「引き起こされた」というのが直訳です。すなわち、「起き上がる」と「蘇る」というのは聖書の言葉の世界では重なっています。
 「甦れ!」とか「生き返れ!」と言っているのと同じくらいの気合で、イエスは「自分で起き上がりなさい!」と。
 「つべこべ言ってないで、起き上がって自分で歩け!」
 この気合こそがイエスの全身に充満していた霊の力です。それを古代の言葉で「聖なる霊」すなわち日本語では「聖霊」という熟語になっていますけれども、古代の人たちは単純素朴に「聖なる霊」と言いました。
 「ああ、この人には聖なる霊が満ち満ちているんだな」と誰でもが感じるような気合、それがイエス様にあったんですね。この気合の力で、この老人は「ハッ!」と元気を与えられて、良くなって歩き出しました。もうプールになんか入る必要はありませんでした。
 
▼起き上がろう

 結局、この老人の病気は何だったのか、よくわかりません。けれども、この物語で私たちが読み取ることができるのは、一つには「自分で良くなろうと思う者こそが良くなるのだ」ということではないでしょうか。
 体の病でも、心の病でも、自分の心底から「良くなりたい」と思わない人が、どんな治療を受けても、本当の意味での健全な状態にはなり得ないのではないでしょうか。
 イエス様は頼まれてもいないのに、この老人を癒しました。
 あるいは、本当は癒しの奇跡なんか行なっていないのかもしれません。イエス様は「起き上がって、自分の足で立って歩け! 自分のベッドも担いで歩け!」と気合を入れただけです。この人は言われた通りに起き上がっただけです。すると良くなったんですね。
 「天は自ら助くるものを助く」という諺がありますが、それにイエスが気づかせてくれたとでも言いましょうか。
 そうは言っても私たちは自分一人ではなかなか「起き上がろう! 立ち上がろう!」とはいかない時もあります。
 それでも、そういう時こそ、イエス様が「起き上がりなさい! 床を担いで歩きなさい!」と言ってくださっている、ということを思い起こすことが大切なのではないでしょうか。
 なんのことはない、イエス様だって、十字架のあとは自分で起き上がっていません。聖書には「引き起こされた」と受け身形で書かれています。
 それと同じように、私たちもイエス様に、あるいはイエス様と同じように神様に「引き起こされる」ということでいいのではないでしょうか。
 落ち込んだとき、病気の時、絶望した時こそ、「神様、イエス様、引き起こしてください」とお祈りしましょう。そしてイエス様が「起き上がりなさい」と気合を入れてくださっているのだと信じて、何度でも蘇って、生きてゆきましょう。





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