キリスト教はなぜ人を自由にするのか


2019年11月3日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約30分)



 フィリピの信徒への手紙3章17節-4章1節 
(新共同訳)
 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
 しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
 キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。



▼十字架に敵対する者たち

 本日お読みしました「フィリピの信徒への手紙」は、厳密には3つのフィリピの教会宛のパウロの手紙を合成して出来上がっていて、今日お読みした部分は、実は一番最後に書かれた3つ目の手紙の締めくくり部分、つまりパウロがフィリピの教会の信徒たちに向けて書いた最後の手紙の部分で、一番論争的になっている部分です。
 論争的になってしまっているのは、パウロがフィリピの教会を離れている間に、フィリピの教会の状況が、パウロの教えていたことから離れてどんどん混乱に陥っている、とパウロが感じていたからですね。
 この手紙では「反対者」とか「十字架に敵対して歩んでいる者たち」という風にパウロは呼んでいますが、パウロは違う教えを吹き込んできている別の巡回伝道者たちに「注意しなさい」と、「奴らを警戒しなさい」と書いて、必死にフィリピの教会の信徒たちを守ろうとしようとしているのですね。

▼天の市民権を所有する

 その論争の締めくくりの部分、20節で、彼は非常によく知られた言葉を口にします。
 「しかし、私たちの本国は天にあります」と。
 ここで「本国」という言葉を使っているのは、この新共同訳くらいでしょうか。他の翻訳では大体、「国籍」という日本語を使っています。
 耳によく残るのは文語訳ですね。
 
「されど我らの國籍は天に在り」。「我らの國籍は天に在り」。
 もっとも、パウロの実際に使っているギリシア語の単語を見ると、今の我々が持っているような「国籍」というよりは、彼の時代にあった「市民権」という言葉の方がぴったりくる単語を使っているんですね。
 そして、市民権という言葉をパウロが使うときには、パウロがユダヤ人というローマ人から差別される民族の出身であったにもかかわらず、「ローマ市民権」というものを持っていたということを思い出さざるを得ません。
 ご存知の方もおられるように、実際パウロは、このローマ市民権を持っていることで、自分に下された有罪判決に対して異議を申し立てたり、処罰を逃れたりしていたことが使徒言行録にも書かれています。
 ローマ市民権というのは、選挙をする権利、選挙で選ばれる権利、私有財産を持つ権利、裁判を起こす権利、結婚する権利、そして帝国に支払う人頭税や、属州に支払う属州民税を免除されるんですね。
 これはものすごい特権だと思いませんか? いわゆる私たちの今で言うcitizenship(市民権)というものの原点がここにあるんですけれども、選挙権・被選挙権・私有財産権・裁判を起こす権利・結婚する権利などがセットでついてくる上に、コロッセオで劇や剣闘士の戦いを観て楽しんだり、カラカラ浴場のような、あの有名なローマ式のお風呂屋さん(テルマエ・ロマエ)に入る権利もあります。しかも税金は免除です。まさに天国のような特権じゃないですか?
 ところが、その地上の天国のような市民権をさしおいて、ここでパウロは「私たちは天に市民権を持っているんだ!」と言っているんですね。「国籍がある」というよりは、「市民権を」「我々が」「所有しているんだ」と言っているんですね。すごい権利意識が強い言葉なんですね。
 パウロはこの世でローマの市民権をフル活用して生きています。しかし彼は、「我々が持っているのは、そんなこの世の特権ではない、天の特権なんだ。しかもあいつらはそれを持っていないんだ」ということを強く主張しているのですね。自分たちが今生きている根拠は、地上にあるのではなく、天にあるのだということです。

▼君は耶蘇の奴隷じゃ

 ここで私が思い出すのは、新島襄という同志社の創立者が、同志社を建てる前の年、約10年間のアメリカでの留学を終えて日本に帰ってきたとき、当時の文部省の理事官だった田中不二麿という人に、猛烈に「文部省に入って、一緒に日本の教育行政をやらないか」と誘われたのですが、どんなに懇願されても首を縦に振らなかったという話です。
 この田中不二麿という人は、明治維新後間も無く、新島襄がアメリカで学んでいる時に、日本からやってきた使節団のメンバーで、その時、アメリカを始めとして、ヨーロッパ各地を調査して回る使節団の中で、特に文部官僚として、教育関係の視察を行った責任者だったんですね。
 そして、その時、アメリカで既に何年も過ごしていた新島に、通訳として新島襄を雇います。そこで、新島も田中と共に、ヨーロッパ各地(フランスやスイス、ドイツ、ロシア、オーストリアなど)の各地の教育事情や学校を視察して回るチャンスを得たんですね。
 この視察旅行の報告書も、一応田中不二麿が書いたことになっていますけれども、実際にはゴーストライターとして新島が書いたらしいです。その報告書を元にして、明治日本の教育制度(学制)が作られたといいますから、新島襄は実は当時の日本の学校づくりに最も影響を与えていたとも言えるかもしれません。
 とにかく、それらの業績によって、新島は田中のお気に入りになりました。そこで田中は新島を文部省に誘うのですけれども、新島はアメリカでの留学とヨーロッパでの視察を経験して、やっぱり私立の学校を設立したい、それもキリスト教主義でないとダメだという思いを強くしていたんですね。そこで田中の申し出を断りました。そして、田中は新島と別れて日本に帰ります。
 その1年後、今度は新島が日本に帰るのですけれども、それを待ち構えて、田中はもう一度新島を自分の屋敷に呼んで、説得を試みます。けれども、絶対に新島はキリスト教主義の私学を建てたいのであって、官立の学校を建てたいとは思っていないと言い張って、田中の誘いを断るんですね。
 そこでついに観念した田中が最後に発した言葉が「もう勝手にしろ。君は耶蘇の奴隷じゃ」であります。
 「耶蘇の奴隷」。耶蘇というのはイエスのことですので、要は「君はイエスの奴隷じゃ」と言われたのですね。

▼遥かな終わりを見据えて

 「イエスの奴隷」と言われても新島は平気でした。むしろ嬉しかったのではないでしょうか。彼は別の所で、「真理の奴隷は真の自由人なり」という言葉も残しています。奴隷と言っても、栄養も休憩も与えられないでヘトヘトになるまでこき使われているという意味での奴隷では無く、自分は完全に神に、イエスに、天の国に魅せられているので、世の中での成功や満足にはもはや興味はない、といった感じでしょうか。
 日本の社会ではキリスト教は圧倒的なマイノリティ:少数派です。しかも日本社会は非常に同調圧力が強い世の中なので、多数派から離れて独特の言動をすることを恐れる人が大変多い上に、少数派の人たちに対して、「あの人たちは変な人」というレッテルを貼りやすいムードが漂っています。
 ですから、日本で少数派であるクリスチャンは、変わった人、変な人というレッテルを貼られやすいのですね。それに加えて、例えば新島のように、中央官庁の役人として登用されたり、日本中の学校教育を自分たちの思うように作り上げてゆくことができるという権力など、世の中の通常の価値観から見れば「成功」や「名誉」と思われるようなことにも全く興味を示さず、小規模でもいいから、あくまで独自の精神を保つ私立の学校を、というこだわりを頑として譲らないような人間がいると、「こいつは相当に変わり者だ」ということになりますよね。
 しかし、新島の生きる根拠、働く根拠というのは、この世での成功・名誉ではなく、遥かに天の国・神の国として実現される未来にあるのですね。
 それをキリスト教用語で「終末」・「終わりの時」とも言いますけれども、神の愛による支配が全ての場所、全ての人に行き渡る世界が実現された状態、それが天の国・神の国です。
 クリスチャンにとっては、現在の見える世界の国家の中に市民権があるのではなくて、その先にあるもの、未来に実現される天の国に市民権がある。その市民権を行使して、この世に働きかけてゆくという使命があるわけです。
 ひょっとしたら、文部官僚になった方が、彼にとっては自分の思い通りの学校を全国展開できるという非常に恵まれた地位につくことが可能になったかもしれませんでした。しかし、彼は自分がこの世の国家に属するものを作ろうと思っていたのではないのですね。自分の作る学校がこの世の国家の支配を国民に浸透させるために使われるというのは、またく彼の本意ではなかったでしょう。
 それよりも、例え少数派でもいいから、本当にイエス・キリストと神の愛が純粋に浸透した学園を作り、そこから少しずつゆっくりとでいいから日本に奉仕し、日本を変えてゆきたいと願っていたに違いありません。

▼まだ実現しきってはいないが、既に実現し始めている

 そのようなわけで私たちは、この世における権力や名誉、そしてこの世における支配欲の満足のために働くということをしません。
 それは、この世に執着しないとか、世捨て人のようになるという意味ではありません。
 例えばクリスチャンの界隈にいると、「この世的」なものを避けなさい、という言葉を聞くことがあります。この世的なものを避けるということは「あの世」的なものを求めるということでしょうか。死後の世界に理想郷があるから、この世のことにこだわるのはやめようという意味でしょうか。
 私はそうではないと思います。私たちが市民権を持っている「天」というのは、実はこの世に現れるものだからです。「天の国」あるいは「神の国」というのは、死んだ後に行く「あの世」のことではありません。そうではなく、それはいつ実現するかもわからない、はるか未来かもしれないけれども、「この世」に実現する神の愛による統治のことです。
 ですから私たちは、この世を捨てるわけではありません。むしろこの世に非常に執着します。現在生きているこの世に神の愛の統治が、少しずつ少しずつでも実現するように、遥かなる希望を持ってこの世のために働きます。そして、それは今はまだ実現し切ってはいないけれども、今ここに既に始まっているという強かな確信を持って、この世にしっかり関わってゆくものでなければ、その完全なる実現には近づきません。

▼拘りつつ、囚われず

 私たちはこの世を愛するために働きますし、だからいつもこの世のことに気を配ってはいますけれども、しかし、私たちの価値観の根拠はこの世のあるのではありません。あの世にあるのでもありません。今ここに始まりつつあるけれども、まだ完全には実現していない、実現途上にある天の国に私たちの市民権があります。そこに私たちの価値観の根拠があります。それゆえに私たちはこの世の価値観からは自由なのです。
 この世に拘りつつ、しかしこの世に囚われず、自由に生きるキリスト者として、この世に関わってゆきたいと願うものです。





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