苦しみは何のためにあるのか


2019年11月17日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約30分)



 ヨハネによる福音書9章1-3節 
(新共同訳)
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからです。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。



▼障害者週間

 おはようございます。
 今日は11月17日。実は日本キリスト教協議会では11月の第2週、今年で言えば10日から16日までの1週間を「障害者週間」と名付けているらしく、障害者への差別や偏見によって、私たちが互いに受け入れることができなくなっている状況を乗り越えて、互いに聴き合い受け入れ合い一緒に生きてゆく世の中を作っていけるように神様に祈っていこう……というような主旨で提唱されています。
 今日は、その「障害者週間」の翌週の日曜日ということで、障害というものを巡って、「人の苦しみは何のためにあるのか?」というテーマでお話をしてみたいと思います。

▼「障害」とは?

 ただ、障害といっても世間一般では、色々な種類の生きづらさのことを「障害」と呼んでいますよね。障害者というと車椅子のマークが象徴的になっていて、それで身体障害者のことがまずもって目に浮かぶわけで、中学校なんかでも「車椅子体験」というプログラムが行事になっていて、みんなで車椅子に乗ってみたり、押してみたり、階段で担いでみたりと行った体験をしたりしています。
 けれどもご存じのように、身体障害というのは足腰が立たなくなることばかりを指しているのではなく、たとえば眼鏡がないとろくに物を見ることをできないというのも視覚障害ですし、これらも一種の身体障害と言えます。
 また、身体障害だけが障害なのではなく、おそらく世間でのわかりやすい分類としては、「身体障害」「知的障害」「精神障害」という分け方がありますが、最近では「発達障害」という言葉もよく聞かれるようになってきました。
 ただ、こういうのは病名と同じで、分類の仕方や名前のつけ方というのは、医学の発展や時代・文化の潮流によって変化したりするもので、その時その時の便宜的なものだということはわきまえておかないといけないのだろうと思います。
 たとえば、先ほど私は視覚障害のことを口にしましたが、そういった「障害」は眼鏡やコンタクトレンズなどの道具を使えば、とりたてて社会では「障害者」であるという扱いがされるほどではありません。
 また、「性同一性障害」という言葉も少し前まではよく使われていましたが、今は「それは障害や病気と言えるのか? 本人にとってはそれが自然なことではないのか?」という疑問から、「障害」ではなく「トランスジェンダー」という個性なのだという言う風に認識が変わってきているものもあります。
 そうなると、「障害」というのは症状のことではなく、世の中・社会がどのような対応をするかによって少しずつでも生きやすくなってくれば、「障害」は「障害」ではなくなってくるとも言えるし、逆に「障害者」を「障害者」のままにしているのは、周囲の社会がその人を生きやすくするためにできることをまだできていないからだという考え方もできるのではないでしょうか。
 つまり「障害」というものを作っているのは、その人の症状だけではなく、社会が「障害」というものを作ってしまっているという側面もあるのではないかと思われるのですが、皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか?

▼ある精神「障害者」の話

 私自身のお話をしますと、私は一応行政上の分類でいけば「精神障害者」ということになります。障害者手帳を交付されるほどではないのですけれども、精神障害者の通院医療のための自立支援制度を適用されているので、広い意味では障害者です。
 私の病名は気分変調性双極性感情障害というもので、要するに躁鬱病です。躁鬱病は妙に明るくなって自分がしんどくなるほど気分が高揚し過ぎたり、逆に自分などなくなってしまえばいいと思うほど落ち込んだり、波が激しい病気ですが、その中でも鬱の方の落ち込みが酷いもので、喜怒哀楽の気分がコロコロと変わりやすいというものです。
 鬱の症状が重い時は、生きているだけでも嫌で、寝転んだまま何もしたくない。手首、指先一つ動かすのも、目を開けて時計を見るのも嫌、という気持ちになります。「死にたい」という言葉が頭中に充満します。けれども正直に言うと「死にたい」というより「消えてしまいたい」「消滅したい」「存在すること自体がしんどくてたまらない」という欲求の方が当たっているようにも思います。
 そして、実際に自死というのは、どこかに行って飛び降りたり、飛び込んだり、切るなり吊るなり燃やすなり、非常に準備や移動が大変だったり、いざ死ぬという時の決心に大きなエネルギーを使いそうに思いますが、とてもとてもそんな元気など出るはずもないので、結果的に死なずにダラダラと生きているという感じです。
 現在は薬も随分改善されてきて、副作用も少なくて効き目が良いものも出てきましたので、躁状態の興奮しすぎて困るというのほぼなくなってきましたが、鬱状態は時々症状が重い時があります。そのために時々仕事を休んでしまいます。頑張って出勤しても、結局何も出来ず、保健室にお願いして休憩室でじっとしているという日も時々あります。
 最近では発達障害や心の病気についての認知度が上がってきているせいか、自分の病気のことを話しても、そんなに大袈裟な反応が返ってくることも少なくなりましたが、一時期は学校の廊下で生徒たちのグループに取り囲まれて気が狂ったような真似をされてからかわれたり、同僚からは「またサボってるのか!」といった叱責を受けたり、逆に腫れ物に触るような配慮を受けて人間関係が疎遠になったりといった、しんどい毎日を過ごしていました。

▼存在を認め合う

 けれども、時々、こんな私でも「ああ、この病気になってよかったな」と思う時があります。
 先日、突然、ある卒業生が職場の学校に訪ねてきてくれました。その日は文化祭で、たくさんの卒業生が学校に遊びに来て、何人もの先生に挨拶をしたり近況報告をしたりしに来て、賑わいます。そんな中で珍しく私に会いに来たと言うのですね。そして、会って話してみると「先生、あたし鬱になってしもたんよ」と言うんですね。
 その人は在学中も、卒業してからしばらくも、とても明るく物事を深刻に考え過ぎない前向きな性格の人で、とても鬱病になどなりそうにないように思われたのですが、仕事上で起こったある問題から、逃げられないストレスに長期間さらされ、恐らく脳が戦闘状態のような緊張から逃れられなくなってしまったんですね。それで向精神薬を処方されることになりました。
 その病気のことを彼女は、少なくとも学校では私にしか話せないと思ったようで、私に会うために来たというんですね。そして「富Tに聞いてもらえて、やっと自分が認めてもらえた気がした」と言っていました。
 そして、そのことによって私自身も逆に「なるほどね」とも思わされました。全く同じとまでは行かなくても、ある程度似た苦しみを負っている人間なら、他の人の苦しみもそのある程度は想像できるから、リアリティを持って受け止めることができるんですね。パッと会った時に「あれ?この人病気かも知れない」と感じると、割とすんなりお互いの病気についての話に入ったり、「薬は何飲んでるの?」と情報交換をすることができることが結構あります。その時、相手の人も私自身も、病気だからと言っても、全く孤独ではないんだということを確かめることができるし、それによって存在を認め合えることが嬉しいのですね。
 そういう体験を度々するからこそ、私は自分の病気のことをカミングアウトするのはやめられません。どこかに、自分や家族の病を隠して、1人だけで苦しみを抱え込んで、ずっと「死にたい」「生きていたくなんかない」という思いをグツグツ煮詰めながら生きている人が必ずいます。その人に呼びかけて、「実は私はそうだ」と応えて欲しい、そして「ぼくもそうなんですよ」と私も応答したい。そのことで互いを認め合いたい。それだけでも少しは楽になれると思うからです。

▼この苦しみはなんのためか

 今日お読みした聖書の箇所には、生まれつき目の見えない人の、その病気が「なんのために」あるのかということについての、イエスと弟子たちの問答が書かれています。
 弟子たちは、この目の見えない障害者が視覚障害を持っているのは、「この人が生まれつき罪人だったからか」「それとも両親が罪を犯したからか」という問いをイエスにぶつけます。
 この時代、現代のような医学はありませんでしたので、人々が考える病気や障害の原因は、主に2つでした。1つは「悪霊に取り憑かれたから」というもの、もう1つは「罪を犯したことへの罰」です。そのどちらかか両方によって人は病気か障害を負うとされていました。
 そして、そういう発想から、今度は逆に「どんな障害を負っている場合は、どんな罪を犯しているのか」ということを論じる律法学者なども出てくる有様でした。
 ですから、ここでイエスがぶつけられた質問は、割と当時の発想としては自然な問いだったと言えると思います。当時の誰でもが持つような疑問です。「この病気は、この障害は、何が原因なのですか? 誰のどんな罪で、このようなバチが当たったのですか?」。

▼なぜ私なのか

 ところが、このような質問にまともに答えたからと言って、苦しみや生きにくさや人々の仕打ちを受けている当事者本人は、その悩みから解放されることはありません。
 もちろん例えば風邪をこじらせて蓄膿症になった時に、お医者さんから「これは風邪で免疫が下がった時に、二次感染でバイ菌が入って、副鼻腔に炎症が起こり、膿が溜まってしまったんですね」と説明されたりすると、原因がわかって少しホッとします。これは原因が理解できると同時に、治る道筋もお医者さんが見通してくれているという場合です。
 けれども、生まれつきの病気や障害、あるいは治らない病気や障害、一生付き合って行かなければならないものに関しては、原因を聞いても大して救いにはなりません。むしろ、もう一つの「なぜ」という疑問が頭をもたげてきます。それは、「なぜ私なのか」という疑問です。
 「なぜ私がこの病気、障害を抱えることになったのか」という疑問には誰も答えることはできません。「それはお前が生まれる前のどこかで罪を犯したんだ」とか「それはお前の両親か先祖が罪を犯したんだ」と言った話は、「結局お前が悪いんだ」ということですから、本人を責め、更に苦しめる言葉の暴力にしかなりません。
 そんなことを言っても、何の意味もない。ただ本人を苦しめるだけなんだ、ということをイエスはよくわかっていたんだと思います。ですから、イエスは「なぜこの人がこんな障害を抱えることになったのか? その原因は何か? なぜこの人なのか?」ということには答えません。

▼原因ではなく目的のために

 そのかわりイエスは、このように答えました。
 「この人がこのような障害を負っているのは、神の業がこの人に現れるためだ」。
 ここでイエスは、「なにが原因でこの人が障害を負ったのか」という原因からは完全に話を逸らしています。そのかわり、「なんのためにこの人が障害を負っているのか」という目的を答えています。それも、障害を負っている本人が何かをしなければならないという目的ではなく、神の業が現れるためだということなのですね。
 では、ここに現れるという神の業とは一体何なのでしょうか。これはイエスがこれから癒しの業を行うために言ったのであり、神の業とはまさにイエスにの癒しの奇跡のことだと受け取ることもできます。
 しかし、もうちょっと深い観点から考えてみることもできるのではないかと思います。というのは、イエスは確かに生前、癒しの業を行って回ったと言われていますが、ここでヨハネが福音書を書いているのは、1世紀の終わり頃、つまり紀元後100年前後で、イエスが亡くなってからもう70年近く経っています。その時点では、誰もイエスのような奇跡を行う人はいません。そして、更にその約1900年後を生きている私たちの中にも癒しの奇跡を行う者はいません。
 そうなると、イエスの奇跡がただすごい、素晴らしい、神の業だと喜んでも、「だからそれがどうした」と思いませんか? そうではなく、イエスが行った奇跡に込められた意味は、例えば70年後のヨハネにとってどういう意味があるから、こうして福音書に書こうと思ったのか、そして、それは今を生きる私たちにどんな意味をもたらすのか、ということを考えても良さそうなものだとは思われませんでしょうか。
 そして、もしイエスの行いが神の業だとしても、それが時代の離れた、奇跡そのものを起こすことのできない環境にいるヨハネにとって意味があるものだとすれば、それは同じ環境にいる私たちにとっても意味のあることなのではないでしょうか。

▼人が必要とする愛

 イエスの癒しの業は、彼が催した会食や宴会などの食事と共に、神の国の先取りの行為だと解釈されています。イエスにとっては神の国のイメージは分け隔ての無い食事や癒しの場であり、それを実践することが神の国の広がりを意味していたんですね。
 イエスは別の聖書の箇所で「神の国とは『ここにある、あそこにある』と言えるようなものではない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言っています。また、「2人または3人が私の名によって集まれば、わたしもそこにいる」とも言っています。
 さらには、「神の国は子どもたちののような者のものである」とも言っています。ここでの子どもたちのような様子というのは、イエスと遊ぼうと思って駆け寄って来た子どもたちを、弟子たちが止めようとした時に、その弟子たちをイエスが叱った場面でのことですので、無邪気に遊びたい、甘えたいと思って駆け寄るような子どもの心と思ってよいでしょう。神の国はそんな人たちのための所です。つまり神の国は、特定の場所のことを指すのではなくて、子どものように愛され、また愛するような関係が現れる所ということです。
 子どもが必要としている愛とはどんな愛でしょうか。愛には様々な形がありますが、まずもって必要なのは、「あなたがいることが嬉しい」と認められることではないでしょうか。そして、それは子どもの時だけ必要なのではなく、生まれてから死ぬまで私たちが必要な、大切な心の栄養ではないでしょうか。
 私たちは、いくつになっても、「あなたがここにいて嬉しいよ」と、自分の存在を承認し続けてもらうことがなければ、まともな精神状態で生きることはできないのではないかと思います。そして、私は近頃は、自分が死んだ後でも、誰かが覚えていてくれていると感じることも、安らかに死ぬためには必要なことではないかと思っています。
 教会が人と人の交わりを大切にするのも、「あなたがここにいて嬉しい」「あなたがここにいてくれることがありがたいんだ」という愛の関係を築くことが神の国の先取り、すなわち神の業であるイエスの活動に連なるからです。

▼神の国を広めよう

 そのようなわけで、イエスは「この人の目が見えないのは、神の業がこの人に現れるためである」と答えましたが、この言葉はつまり、「この人を囲んで一緒に生きる場を作るために、この人が存在しているんだ」と解釈することができるでしょう。
 この人がここに生きていることを喜び、互いにここに存在していることを喜び合おうじゃないか。そして認め合おうじゃないか、ということです。「わたしが生きている」ということをきちんと承認してもらえる場が人間には絶対に必要です。その実現する場が神の国なんですね。
 神の国では、その人がなぜ病気や障害になったのかということは、治療に役立つ情報という以上には、何の意味もありません。ましてやその人の罪が云々といった魔術のような話は、全く不問に付されます。因果応報という考えはイエスの考えの中にはありません。
 イエスが願っているのは、誰かが目の見えない人の目になったり、誰かが「死にたい」と思っている人の話を聴けるような関係が出来上がってゆくことだと思われます。
 最初の方にもお話ししましたように、「障害者」を「障害者」にしているのは、周囲の環境、社会という面もあるのではないかと思います。その人を囲む関係が変われば、その人への対応が変わり、「症状」は変わらなくても、「障害」は軽減します。
 そして、その人がそこにいることや、その人の言葉や働きが本当の意味で承認されれば、その人は「生きていたくない」などと思わなくて済むでしょう。
 そのようなわけで皆さん、私たちには教会という拠点がありますが、ここを出発点に、この世のいろいろな私たちの出会う場面に於いても、神の国が少しでも広がり、この世が少しでも生きやすい場所になってゆくように祈りつつ、励みましょう。
 また、一人一人が孤独と無意味の中に陥ってしまわないように、互いに声を掛け合い、繋がりを大切にするようにいたしましょう。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。





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